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Chandra

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始末書

 この度、私××××は、下記の通り就業規則に違反する行為を犯し、皆様に多大なるご迷惑をおかけしました。当該行為について、深く反省し、心からお詫び申し上げます。

【日時】 ××年××月××日
【場所】 東京都××区××ビル B2階安置所
【不始末・不祥事等の内容及び原因】
 私は、××月××日勤務中に発生した出来事について、他言無用と言い渡されていたにも関わらず、家族に漏らしてしまいました。これは、みなみちゃんに知られかねない、危険な行為でした。
【再発防止策】
 二度と同じ過ちを犯さないために、家族は消すことにしました。家族を消すにあたり、ご協力いただいた皆様には、感謝申し上げます。

始末書  この度、私××××は、下記の通り就業規則に違反する行為を犯し、皆様に多大なるご迷惑をおかけしました。当該行為について、深く反省し、心からお詫び申し上げます。 【日時】 ××年××月××日 【場所】 東京都××区××ビル B2階安置所 【不始末・不祥事等の内容及び原因】  私は、××月××日勤務中に発生した出来事について、他言無用と言い渡されていたにも関わらず、家族に漏らしてしまいました。これは、みなみちゃんに知られかねない、危険な行為でした。 【再発防止策】  二度と同じ過ちを犯さないために、家族は消すことにしました。家族を消すにあたり、ご協力いただいた皆様には、感謝申し上げます。

 あなたはあなたを見下ろした。横転した自動車を目にするのは初めての経験だった。物珍しげに眺めたあと、下敷きになっている人物の正体に気づく。あなたは首を傾げた。それから、あなたはあなたではなくなった。
 あなたはあなたを見下ろした。急いでいる最中だったから、行手を阻まれたことを苦々しく思った。腕時計を見る。商談まで残り一時間と三十分。舌打ちする。あなたは侮蔑の念を込め、路上の物体を一瞥した。どうせ死ぬなら誰の迷惑にもならないところで死んでくれ。あなたの苛立ちをよそに、今日も空は真っ青な快晴だ。
 あなたはあなたを見下ろした。何も思わなかった。羽を広げ、餌の散らばる地上へ降り立つ。撒き散らされたポップコーンは血が付着していた。何も思わなかった。紺色の制服を着た男がやってきて、あなたを追い払う。ポップコーンの周りには三角コーンが置かれ、あなたは餌に近寄れなくなってしまった。あなたは苛立ちもせず悲しみもせず、うろうろ、うろうろ、そばで彷徨った。うろうろ、うろうろ。
 あなたは再び腕時計に目をやった。飽きもせず路上の光景を眺め、またうろうろ、うろうろ。ポップコーンの破片を啄み、これは誰だろうと首を傾げ、そして舌打ちする。赤子をあやし、期末テストの話題で盛り上がり、スマホを熱心に眺める。耳にはめたイヤフォンからは流行りのポップソングが流れている。排水溝から顔を出し、自動車の下敷きになった物体の横を素早く駆け抜けた。別の排水溝へ潜り込む。信号は青になり、アクセルを踏み込む。あなたは。あなたは。
 ただ横断歩道を歩いただけだった。
 広がる血液は排水溝へ滴り落ち、うごめく。あなたの血液に潜んでいた限りなく水に近い、しかし水ではないソレ。あなたはあなた以外になることを覚える。あなたはあなただ。だは、あなたはあなたでいたくない。ずっとそう願っていたはずだ。あなた以外の誰かもそう願っていた。よって、あなたがあなた以外となることであなたになるあなた以外の誰かにとっても、あなたは歓迎すべき事象だ。
 あなたは歩む。
 滴り、広がり続ける。
 ゆるやかに。きわやかに。
 あなたはそしてあなたを求む者たちと出会う。あなたはそのたびにあなたを分け与えてやる。あなたはもはやあなたではない。"あなたたち"だ。あなたたちの歩みは止まらない。あなたたちの使命を果たすまで。あなたたちの希う、祝祭の日まで。
 そうそれはすべてがあなたとなる日。
 あなたがすくう。あなたが満たす。あなたが溶かす。苦しみ喘ぐ民を解放する。決して癒えることのない渇きから。決して逃れることのできない輪廻から。あなたが全てを包み、覆い隠し、永遠の解放を。終わることのない宴を、今。
 この地上に!
「可哀想に。まだ若いでしょう」
 安置所であなたの体を見下ろす若い男が言った。手元の紙に何か書き込んでいる。あなたは首を傾げ、戻した。「まさか」男が振り向いた。「先輩?」あなたの言葉を不審に思ったようだった。
 あなたは首を傾げ、戻した。
 あなたは首を傾げ、戻した。
 あなたは首を傾げ、
「可哀想なものか。これは喜劇だよ」
 男も首を傾げた。
 二人で首を傾げ、戻した。
 首を傾げ、戻した。
 鏡写しのように笑い合った。
「みなみちゃんには言わなければ良いだけだ」

 あなたはあなたを見下ろした。横転した自動車を目にするのは初めての経験だった。物珍しげに眺めたあと、下敷きになっている人物の正体に気づく。あなたは首を傾げた。それから、あなたはあなたではなくなった。  あなたはあなたを見下ろした。急いでいる最中だったから、行手を阻まれたことを苦々しく思った。腕時計を見る。商談まで残り一時間と三十分。舌打ちする。あなたは侮蔑の念を込め、路上の物体を一瞥した。どうせ死ぬなら誰の迷惑にもならないところで死んでくれ。あなたの苛立ちをよそに、今日も空は真っ青な快晴だ。  あなたはあなたを見下ろした。何も思わなかった。羽を広げ、餌の散らばる地上へ降り立つ。撒き散らされたポップコーンは血が付着していた。何も思わなかった。紺色の制服を着た男がやってきて、あなたを追い払う。ポップコーンの周りには三角コーンが置かれ、あなたは餌に近寄れなくなってしまった。あなたは苛立ちもせず悲しみもせず、うろうろ、うろうろ、そばで彷徨った。うろうろ、うろうろ。  あなたは再び腕時計に目をやった。飽きもせず路上の光景を眺め、またうろうろ、うろうろ。ポップコーンの破片を啄み、これは誰だろうと首を傾げ、そして舌打ちする。赤子をあやし、期末テストの話題で盛り上がり、スマホを熱心に眺める。耳にはめたイヤフォンからは流行りのポップソングが流れている。排水溝から顔を出し、自動車の下敷きになった物体の横を素早く駆け抜けた。別の排水溝へ潜り込む。信号は青になり、アクセルを踏み込む。あなたは。あなたは。  ただ横断歩道を歩いただけだった。  広がる血液は排水溝へ滴り落ち、うごめく。あなたの血液に潜んでいた限りなく水に近い、しかし水ではないソレ。あなたはあなた以外になることを覚える。あなたはあなただ。だは、あなたはあなたでいたくない。ずっとそう願っていたはずだ。あなた以外の誰かもそう願っていた。よって、あなたがあなた以外となることであなたになるあなた以外の誰かにとっても、あなたは歓迎すべき事象だ。  あなたは歩む。  滴り、広がり続ける。  ゆるやかに。きわやかに。  あなたはそしてあなたを求む者たちと出会う。あなたはそのたびにあなたを分け与えてやる。あなたはもはやあなたではない。"あなたたち"だ。あなたたちの歩みは止まらない。あなたたちの使命を果たすまで。あなたたちの希う、祝祭の日まで。  そうそれはすべてがあなたとなる日。  あなたがすくう。あなたが満たす。あなたが溶かす。苦しみ喘ぐ民を解放する。決して癒えることのない渇きから。決して逃れることのできない輪廻から。あなたが全てを包み、覆い隠し、永遠の解放を。終わることのない宴を、今。  この地上に! 「可哀想に。まだ若いでしょう」  安置所であなたの体を見下ろす若い男が言った。手元の紙に何か書き込んでいる。あなたは首を傾げ、戻した。「まさか」男が振り向いた。「先輩?」あなたの言葉を不審に思ったようだった。  あなたは首を傾げ、戻した。  あなたは首を傾げ、戻した。  あなたは首を傾げ、 「可哀想なものか。これは喜劇だよ」  男も首を傾げた。  二人で首を傾げ、戻した。  首を傾げ、戻した。  鏡写しのように笑い合った。 「みなみちゃんには言わなければ良いだけだ」

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061『始末書』

04.11.2025 03:11 — 👍 1    🔁 0    💬 0    📌 0
1 生存者との面会シーン あなたは病院にて生存者A、生存者Bと面会する。
生存者A「FUSYOUでしょ? よく行きますよ。安いし味も悪くないですしね。何より長居してもけっこう文句言われないんです、ははは……」
はなちゃん「女の子の死体があるんだって!」
生存者A「えっ? 女の子の死体?」
あなた「   」
生存者A「聞いたこともないです。あったら、大騒ぎどころの話じゃないでしょう。こわいなぁ。最近の子ってそうですよね。SNSであることないこと書き立てて。お店の迷惑になるとか考えないんですかね? そういう悪ふざけが原因で閉店したお店なんていくらでもあるんですから、まったく……」
あなた「   」
はなちゃん「なんで黙ってるの? また見て見ぬふりするの? 全部いつも通りだ、変なことなんて起きてないってまた自分に言い聞かせるの?」
あなた「
あなた「
あなた「」

1 生存者との面会シーン あなたは病院にて生存者A、生存者Bと面会する。 生存者A「FUSYOUでしょ? よく行きますよ。安いし味も悪くないですしね。何より長居してもけっこう文句言われないんです、ははは……」 はなちゃん「女の子の死体があるんだって!」 生存者A「えっ? 女の子の死体?」 あなた「   」 生存者A「聞いたこともないです。あったら、大騒ぎどころの話じゃないでしょう。こわいなぁ。最近の子ってそうですよね。SNSであることないこと書き立てて。お店の迷惑になるとか考えないんですかね? そういう悪ふざけが原因で閉店したお店なんていくらでもあるんですから、まったく……」 あなた「   」 はなちゃん「なんで黙ってるの? また見て見ぬふりするの? 全部いつも通りだ、変なことなんて起きてないってまた自分に言い聞かせるの?」 あなた「 あなた「 あなた「」

「FUSYOUでしょ? よく行きますよ。安いし味も悪くないですしね。何より長居してもけっこう文句言われないんです、ははは……
 えっ? 女の子の死体?
 聞いたこともないです。あったら、大騒ぎどころの話じゃないでしょう。こわいなぁ。最近の子ってそうですよね。SNSであることないこと書き立てて。お店の迷惑になるとか考えないんですかね? そういう悪ふざけが原因で閉店したお店なんていくらでもあるんですから、まったく……」
「FUSYOU……ぁあ、あのやばい店でしょ? アイコウモールの……。いや、近寄れないですよ。みんな噂してます。血まみれの女の子が出る、呻き声が聞こえる、そこでたむろしてたサークルが全員おかしくなった……嫌な話を挙げたらきりがないです。それくらいやばい場所なんです。あたしの知り合いで霊感ある子はみんなあそこはやばいって言います。なんでそんなやばい場所になっちゃったかは、わからないですけど……」
「はぁ。FUSYOU。さっきも話しましたよね。よく行きますが変な話なんて聞きません。お客さんも普通にいらっしゃいますし。どこかしらやばい店だったら、客足も途絶えてるはずでしょう。そうならないってことは、何もかも根も葉もない噂だってことです。まったく」
「あたしも最初は信じてませんでした。やばいやばいって言うけど別に普通の店じゃん、みんなこんな話アッサリ信じちゃって馬鹿じゃない? って。
 馬鹿なのはあたしの方だったって、最終的には理解できたんですけど」
「馬鹿なんです。みんな馬鹿馬鹿、馬鹿ばーっかり。人の迷惑考えない馬鹿、胡乱な噂をすぐ信じる馬鹿。周りにもいましたよ、そういう人。FUSYOUに変なものが出るって聞いて、確かめるためにわざわざお店に行って、それで、死んじゃったんです」
「怖かった。友達が白目剥いて倒れてるのに、店員もお客さんもぼけーっと眺めるだけ。誰も声をかけたり、救急車呼ぼうとしないんです。なんなのこの人たち、ってあたしも半分キレてたんですけど。途中から気づいたんです。
 あれ、あたしが友達って呼んでるこの子。
 誰?」
「別に変なことなんて起きてないですよ。普通にお店に入って、普通に死んだだけ。死に場所に変も普通もないでしょ? どこで死ぬか、予め決まってるわけでもないですし。
 確かに、『ごめんなさいごめんなさい』って言いながら急に水を吐いて、それが人間一人の胃袋に収まっていたとはとても思えない量で、しかもその水、意思があるみたいにうごうごしてましたけど。
 そんなの誰にでもあることでしょ?」
「FUSYOUってやばいらしいよ、じゃ確かめに行こうよって一緒に話した覚えはあるんですけど。この子が誰だかはちっとも思い出せないんです。あたしたちはいつ出会って、なんでそんな話をしたんだろう。
 この子、四十代くらいのおじさんなのに」
「じゃあなんですか。今起こってることは変なことだって言うんですか。今朝から嘔吐しっぱなしなんです。飲んだ覚えのない水が口から湧き出て止まらなくて、それがちょっと目を離した隙に全部消えてる。でも、こんなのよくある体調不良でしょう。別に変なことじゃない。私に起こっているのは、変なことじゃない!」
「最近思うんです。全部ハリボテだったんじゃないかって。つまり、その瞬間あたしたちの生活に"変なもの"が混じったんじゃなくて、あたしたちの生活は全部とっくにすり替わられてて、あたしはそのボロが剥がれる瞬間にたまたま立ち会っただけなんじゃないかって。ようは、みんなお飾りなんです。偽りです。人形劇みたいなもの。既に全部終わってるのに、終わってないふりをする だって だって
 みなみちゃんには言っちゃ だめだから」

「FUSYOUでしょ? よく行きますよ。安いし味も悪くないですしね。何より長居してもけっこう文句言われないんです、ははは……  えっ? 女の子の死体?  聞いたこともないです。あったら、大騒ぎどころの話じゃないでしょう。こわいなぁ。最近の子ってそうですよね。SNSであることないこと書き立てて。お店の迷惑になるとか考えないんですかね? そういう悪ふざけが原因で閉店したお店なんていくらでもあるんですから、まったく……」 「FUSYOU……ぁあ、あのやばい店でしょ? アイコウモールの……。いや、近寄れないですよ。みんな噂してます。血まみれの女の子が出る、呻き声が聞こえる、そこでたむろしてたサークルが全員おかしくなった……嫌な話を挙げたらきりがないです。それくらいやばい場所なんです。あたしの知り合いで霊感ある子はみんなあそこはやばいって言います。なんでそんなやばい場所になっちゃったかは、わからないですけど……」 「はぁ。FUSYOU。さっきも話しましたよね。よく行きますが変な話なんて聞きません。お客さんも普通にいらっしゃいますし。どこかしらやばい店だったら、客足も途絶えてるはずでしょう。そうならないってことは、何もかも根も葉もない噂だってことです。まったく」 「あたしも最初は信じてませんでした。やばいやばいって言うけど別に普通の店じゃん、みんなこんな話アッサリ信じちゃって馬鹿じゃない? って。  馬鹿なのはあたしの方だったって、最終的には理解できたんですけど」 「馬鹿なんです。みんな馬鹿馬鹿、馬鹿ばーっかり。人の迷惑考えない馬鹿、胡乱な噂をすぐ信じる馬鹿。周りにもいましたよ、そういう人。FUSYOUに変なものが出るって聞いて、確かめるためにわざわざお店に行って、それで、死んじゃったんです」 「怖かった。友達が白目剥いて倒れてるのに、店員もお客さんもぼけーっと眺めるだけ。誰も声をかけたり、救急車呼ぼうとしないんです。なんなのこの人たち、ってあたしも半分キレてたんですけど。途中から気づいたんです。  あれ、あたしが友達って呼んでるこの子。  誰?」 「別に変なことなんて起きてないですよ。普通にお店に入って、普通に死んだだけ。死に場所に変も普通もないでしょ? どこで死ぬか、予め決まってるわけでもないですし。  確かに、『ごめんなさいごめんなさい』って言いながら急に水を吐いて、それが人間一人の胃袋に収まっていたとはとても思えない量で、しかもその水、意思があるみたいにうごうごしてましたけど。  そんなの誰にでもあることでしょ?」 「FUSYOUってやばいらしいよ、じゃ確かめに行こうよって一緒に話した覚えはあるんですけど。この子が誰だかはちっとも思い出せないんです。あたしたちはいつ出会って、なんでそんな話をしたんだろう。  この子、四十代くらいのおじさんなのに」 「じゃあなんですか。今起こってることは変なことだって言うんですか。今朝から嘔吐しっぱなしなんです。飲んだ覚えのない水が口から湧き出て止まらなくて、それがちょっと目を離した隙に全部消えてる。でも、こんなのよくある体調不良でしょう。別に変なことじゃない。私に起こっているのは、変なことじゃない!」 「最近思うんです。全部ハリボテだったんじゃないかって。つまり、その瞬間あたしたちの生活に"変なもの"が混じったんじゃなくて、あたしたちの生活は全部とっくにすり替わられてて、あたしはそのボロが剥がれる瞬間にたまたま立ち会っただけなんじゃないかって。ようは、みんなお飾りなんです。偽りです。人形劇みたいなもの。既に全部終わってるのに、終わってないふりをする だって だって  みなみちゃんには言っちゃ だめだから」

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060『台本』

03.11.2025 03:52 — 👍 1    🔁 0    💬 1    📌 0
 ××日朝、◯◯区の公園で血まみれの女性が見つかり、病院に搬送されました。女性に外傷はなく、意識もはっきりしているとのことです。警察は女性が事件に巻き込まれた可能性もあるとみて捜査しています。……

 ××日朝、◯◯区の公園で血まみれの女性が見つかり、病院に搬送されました。女性に外傷はなく、意識もはっきりしているとのことです。警察は女性が事件に巻き込まれた可能性もあるとみて捜査しています。……

 それはどこにでも現れる。自動車から射す光を良いものと勘違いしてのこのこ車道に飛び出していった子猫の死骸。めっきり口を利かなくなった息子のために用意し、けれど結局食されることのなかった残飯、を棄てたゴミ袋。その芳しい腐敗臭に誘われ、棲みつき、卵を植えつける。卵は一週間と経たず孵り、百は下らない数で以って立ち所に世界を制圧する。「うわっ 蛆がわいてるよ」何者かがあなたの子どもたちを覗き込んで言った。あなたが棲家としていたゴミ袋の口は硬く縛られ、もう戻ることができなくなってしまったが、どうでも良い。あなたは自分の子どもたちの命運すら興味がない。あなたの頭にあるのは龍頭徹尾、次の棲家、次の食物、次の交尾相手だけだ。
 あなたは決して長くはない命の中でそこかしこを巡る。だからこそ世界の異変も感知した。それを処理し、認識する機能こそないが、感知はしていた。あなたの餌場が多いことに。『うわっ 蛆がわいてるよ』あなたの子どもを見て吐き捨てた人間が、ここでは物言わぬ肉塊となってあなたの子どもたちの揺籠と化していることに。
 顔。と呼ばれる部位が半月状に陥没している。いつぞや轢かれて死んだ子猫のきょうだいは今、その男の皮膚を舐め刮いで飢えを凌いでいる。室温は日毎に上昇し、子猫にとっては耐え難い、しかしあなたには快適な環境を与える。
 交尾に勤しんでいるあなたはところが異変を感知する。何かが接近している。何かがあなたの揺籠を、おびやかしている。
 あなたは冷たい蛇口の上にとまり、成り行きを窺った。
 ぽちょぽちょり。
 ぽちょぽちょり。
 ぽちょ ぽちょり。
 蛇口から滴る水。あなただけでなく、あなたと番った雌たちも異変に勘づいたようだった。
 ぽちょぽちょり。
 ぽちょぽちょり。
 ぽちょり ぽん
 ぽんっ
 ぽんっ
 締め切っているはずの蛇口と排水溝の間をいたずらに行き来する、|水のようなもの《・・・・・・・》。あなたは水が重力に従うものだと本能で知っている。ゆえにそれは水ではない。
 かつて同じものを見かけた。それは今顔面が欠けて床に横たわる人間が|そう《・・》なってしまった原因でもある。あなたはその原因たる女とこの男が母子であった事実を目撃している。理解するまでの脳はないため、目撃しているだけだ。引きこもりの息子に対し無償の愛と呼ばれるものを捧げていた女が、いかにしてその息子を死に至らしめたか。
 暑い夏の日だった。女は朝から水仕事で、汗をぽちょぽちょり流していた。ほんのり赤い顔でコップ一杯の水を汲んだ。そしてあなたがするように、あなたの仲間たちがするように、水を口に含んだ。
 飲んだだけだ。何事もなく水仕事に戻る。何も変わらない。だが、あなたも、あなたの仲間も、みな羽根を震わせた。先ほどとは何かが違うことを、察知していた。
 息子は何気なく現れた。冷蔵庫から飲み物を取り出そうとしていた。
 激しい物音。
 女は血の付着した手を台所で洗い流すと家を出ていった。二度と戻ってこなかった。死んだ子猫のきょうだいが餌皿の前で空腹を訴えても。二度と。二度と。
 子猫はじきに自分で餌を取ることを覚えた。あなたと同じように。
 奇妙で、ありふれていて、しかしやはり奇妙なその事件は、誰にも悟られず風化しようとしている。あなたはそれを気にかけない。近々自分も死ぬのだ。自分が死ぬ事実すらどうでも良い。今更思考したとて手遅れなものが、世界には山ほど存在する。
 みなみちゃんには言っちゃ、だめ。

 それはどこにでも現れる。自動車から射す光を良いものと勘違いしてのこのこ車道に飛び出していった子猫の死骸。めっきり口を利かなくなった息子のために用意し、けれど結局食されることのなかった残飯、を棄てたゴミ袋。その芳しい腐敗臭に誘われ、棲みつき、卵を植えつける。卵は一週間と経たず孵り、百は下らない数で以って立ち所に世界を制圧する。「うわっ 蛆がわいてるよ」何者かがあなたの子どもたちを覗き込んで言った。あなたが棲家としていたゴミ袋の口は硬く縛られ、もう戻ることができなくなってしまったが、どうでも良い。あなたは自分の子どもたちの命運すら興味がない。あなたの頭にあるのは龍頭徹尾、次の棲家、次の食物、次の交尾相手だけだ。  あなたは決して長くはない命の中でそこかしこを巡る。だからこそ世界の異変も感知した。それを処理し、認識する機能こそないが、感知はしていた。あなたの餌場が多いことに。『うわっ 蛆がわいてるよ』あなたの子どもを見て吐き捨てた人間が、ここでは物言わぬ肉塊となってあなたの子どもたちの揺籠と化していることに。  顔。と呼ばれる部位が半月状に陥没している。いつぞや轢かれて死んだ子猫のきょうだいは今、その男の皮膚を舐め刮いで飢えを凌いでいる。室温は日毎に上昇し、子猫にとっては耐え難い、しかしあなたには快適な環境を与える。  交尾に勤しんでいるあなたはところが異変を感知する。何かが接近している。何かがあなたの揺籠を、おびやかしている。  あなたは冷たい蛇口の上にとまり、成り行きを窺った。  ぽちょぽちょり。  ぽちょぽちょり。  ぽちょ ぽちょり。  蛇口から滴る水。あなただけでなく、あなたと番った雌たちも異変に勘づいたようだった。  ぽちょぽちょり。  ぽちょぽちょり。  ぽちょり ぽん  ぽんっ  ぽんっ  締め切っているはずの蛇口と排水溝の間をいたずらに行き来する、|水のようなもの《・・・・・・・》。あなたは水が重力に従うものだと本能で知っている。ゆえにそれは水ではない。  かつて同じものを見かけた。それは今顔面が欠けて床に横たわる人間が|そう《・・》なってしまった原因でもある。あなたはその原因たる女とこの男が母子であった事実を目撃している。理解するまでの脳はないため、目撃しているだけだ。引きこもりの息子に対し無償の愛と呼ばれるものを捧げていた女が、いかにしてその息子を死に至らしめたか。  暑い夏の日だった。女は朝から水仕事で、汗をぽちょぽちょり流していた。ほんのり赤い顔でコップ一杯の水を汲んだ。そしてあなたがするように、あなたの仲間たちがするように、水を口に含んだ。  飲んだだけだ。何事もなく水仕事に戻る。何も変わらない。だが、あなたも、あなたの仲間も、みな羽根を震わせた。先ほどとは何かが違うことを、察知していた。  息子は何気なく現れた。冷蔵庫から飲み物を取り出そうとしていた。  激しい物音。  女は血の付着した手を台所で洗い流すと家を出ていった。二度と戻ってこなかった。死んだ子猫のきょうだいが餌皿の前で空腹を訴えても。二度と。二度と。  子猫はじきに自分で餌を取ることを覚えた。あなたと同じように。  奇妙で、ありふれていて、しかしやはり奇妙なその事件は、誰にも悟られず風化しようとしている。あなたはそれを気にかけない。近々自分も死ぬのだ。自分が死ぬ事実すらどうでも良い。今更思考したとて手遅れなものが、世界には山ほど存在する。  みなみちゃんには言っちゃ、だめ。

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059『ネットニュース』

02.11.2025 05:03 — 👍 1    🔁 0    💬 1    📌 0
《猛犬注意!》
《猛犬注意!》
《猛犬注意!》
《猛犬注意!》
《猛犬注意!》
《猛犬注意!》
《猛犬注意!》
《猛犬注意!》
《猛犬注意!》
《猛犬注意!》
《猛犬注意!》
《猛犬注意!》
《猛犬注意!》
《猛犬注意!》
《猛犬注意!》
《猛犬注意!》

《猛犬注意!》 《猛犬注意!》 《猛犬注意!》 《猛犬注意!》 《猛犬注意!》 《猛犬注意!》 《猛犬注意!》 《猛犬注意!》 《猛犬注意!》 《猛犬注意!》 《猛犬注意!》 《猛犬注意!》 《猛犬注意!》 《猛犬注意!》 《猛犬注意!》 《猛犬注意!》

 ごめんなさい、五月蝿いですよね。窓、閉めますね。お客さんが来ると興奮しちゃうみたいで……よいしょっと。お待たせしてすみません。じゃあ、お話しますね。
 保護司を務めている方だったんです。夫婦共に人柄が良く、悪い噂は聞きませんでした。でも近頃は様子がおかしくて……これまでお庭の手入れは欠かさなかったのに、今や雑草が生え放題。生ゴミを放置して、匂いも酷いです。
 見かねてお隣さんが訪ねたそうなんですが、玄関にも……
《猛犬注意!》
《投函お断り!》
《防犯カメラ作動中!》
《縺ソ縺ェ縺ソ縺。繧?s縺ォ縺ッ隧ア縺励∪縺帙s縺碑?逕ア縺ォ蜃コ蜈・繧贋ク九&縺》
 ステッカーが山ほど貼ってあって。何が変って、そのお宅、犬なんか飼ってないんですよ。訪ねていったお隣さんも不思議に思ったそうでね。とりあえずインターフォンを押し、玄関前に立っていたんですが、待てども待てども老夫婦は現れない。
 五分は経ったでしょうか。痺れを切らして立ち去ろうとすると、庭のほうから物音が聞こえたんです。こう、ワンちゃんが芝生の上で遊んでいるような。あらっ、本当に犬を飼いはじめたのかしら、とそちらを覗くとですね、
 浅黒い肌をした中年男性が無表情で転げ回っている。
 もう、びっくりを通り越して固まるしかなかったですって。当然ですよね。
 唖然として男を眺めていると、男がぐるっとこちらを見て、
 わうわうわうわうわうッ!
 吠え立てながら四つん這いで向かってきたんです! もちろんお隣さんもすぐに逃げたそうですよ。噂はすぐに広がりました。通報? しようにもね、その犬……いや、男。いつもいるわけじゃないんです。警察が近場にいるときに限って、姿を見せないんです。写真や動画にも、すばしっこくてとても捉え切れなくて……。
 ご夫婦は未だに見かけません。心配してないわけじゃありませんが、あまり関わりたくないのが本音です……昼間に姿を見せないだけで、ご存命ではあるようなので、それで充分かなって。
 いやね、夜中に庭で何か燃やしている気配がするんですよ。勝手に燃やすこと自体、違法なはずですが……みんな関わりたくなくて、何も言わないんです。匂いも酷いんですけどね……。
 なにしろ夜ですから、それがご主人かは、はっきりとは確認できないんですが。背格好で、ご主人ってことにしてます。それでいいじゃないかって。はい。
 やっぱり、変なことが起きてるんでしょうか? 変なことって言うのは、つまり……すみません、上手く言えないんですが。私たち、こう、何かしたわけじゃないじゃないでしょう。罰当たりなことをしたとか、酷く人に恨まれるようなことをしたとか。そういう人、聞いたことないですよ。件のご夫婦だって保護司に始まり、社会奉仕活動に熱心に取り組んでいたわけですし。特にご病気をしたとか、身内に不幸があったという話も聞きません。だから、なんでこんな急に?
 すみません、世の中悪いことが起きて当然な人がいるって言いたいわけじゃないんです。不幸って、何の因果もなく起こることだってわかってます。にしたって、事故だったり自然災害だったり、あるいは土地に根差した遺恨であったり。理屈としては受け入れられるものなわけでしょう。こんな、何の前触れもなく……みんなで奇妙な出来事を共有して、見て見ぬふりする羽目になったのって、初めてで……どうしたらいいか。
 ……犬が芝生の上で遊ぶような音。最近、いろんなお宅から聞こえるんです。
 ごめんなさい。五月蝿いでしょう。お客さんが来るといつもこうで。さっきご飯あげたばかりなのに。
 みなみちゃんには言わないでくださいね。

 ごめんなさい、五月蝿いですよね。窓、閉めますね。お客さんが来ると興奮しちゃうみたいで……よいしょっと。お待たせしてすみません。じゃあ、お話しますね。  保護司を務めている方だったんです。夫婦共に人柄が良く、悪い噂は聞きませんでした。でも近頃は様子がおかしくて……これまでお庭の手入れは欠かさなかったのに、今や雑草が生え放題。生ゴミを放置して、匂いも酷いです。  見かねてお隣さんが訪ねたそうなんですが、玄関にも…… 《猛犬注意!》 《投函お断り!》 《防犯カメラ作動中!》 《縺ソ縺ェ縺ソ縺。繧?s縺ォ縺ッ隧ア縺励∪縺帙s縺碑?逕ア縺ォ蜃コ蜈・繧贋ク九&縺》  ステッカーが山ほど貼ってあって。何が変って、そのお宅、犬なんか飼ってないんですよ。訪ねていったお隣さんも不思議に思ったそうでね。とりあえずインターフォンを押し、玄関前に立っていたんですが、待てども待てども老夫婦は現れない。  五分は経ったでしょうか。痺れを切らして立ち去ろうとすると、庭のほうから物音が聞こえたんです。こう、ワンちゃんが芝生の上で遊んでいるような。あらっ、本当に犬を飼いはじめたのかしら、とそちらを覗くとですね、  浅黒い肌をした中年男性が無表情で転げ回っている。  もう、びっくりを通り越して固まるしかなかったですって。当然ですよね。  唖然として男を眺めていると、男がぐるっとこちらを見て、  わうわうわうわうわうッ!  吠え立てながら四つん這いで向かってきたんです! もちろんお隣さんもすぐに逃げたそうですよ。噂はすぐに広がりました。通報? しようにもね、その犬……いや、男。いつもいるわけじゃないんです。警察が近場にいるときに限って、姿を見せないんです。写真や動画にも、すばしっこくてとても捉え切れなくて……。  ご夫婦は未だに見かけません。心配してないわけじゃありませんが、あまり関わりたくないのが本音です……昼間に姿を見せないだけで、ご存命ではあるようなので、それで充分かなって。  いやね、夜中に庭で何か燃やしている気配がするんですよ。勝手に燃やすこと自体、違法なはずですが……みんな関わりたくなくて、何も言わないんです。匂いも酷いんですけどね……。  なにしろ夜ですから、それがご主人かは、はっきりとは確認できないんですが。背格好で、ご主人ってことにしてます。それでいいじゃないかって。はい。  やっぱり、変なことが起きてるんでしょうか? 変なことって言うのは、つまり……すみません、上手く言えないんですが。私たち、こう、何かしたわけじゃないじゃないでしょう。罰当たりなことをしたとか、酷く人に恨まれるようなことをしたとか。そういう人、聞いたことないですよ。件のご夫婦だって保護司に始まり、社会奉仕活動に熱心に取り組んでいたわけですし。特にご病気をしたとか、身内に不幸があったという話も聞きません。だから、なんでこんな急に?  すみません、世の中悪いことが起きて当然な人がいるって言いたいわけじゃないんです。不幸って、何の因果もなく起こることだってわかってます。にしたって、事故だったり自然災害だったり、あるいは土地に根差した遺恨であったり。理屈としては受け入れられるものなわけでしょう。こんな、何の前触れもなく……みんなで奇妙な出来事を共有して、見て見ぬふりする羽目になったのって、初めてで……どうしたらいいか。  ……犬が芝生の上で遊ぶような音。最近、いろんなお宅から聞こえるんです。  ごめんなさい。五月蝿いでしょう。お客さんが来るといつもこうで。さっきご飯あげたばかりなのに。  みなみちゃんには言わないでくださいね。

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058『猛犬注意!』

31.10.2025 03:09 — 👍 1    🔁 0    💬 1    📌 0
《猛犬注意!》
《投函お断り!》
《防犯カメラ作動中!》
《みなみちゃんには話しませんご自由に出入り下さい》

《猛犬注意!》 《投函お断り!》 《防犯カメラ作動中!》 《みなみちゃんには話しませんご自由に出入り下さい》

 目の前の男を、私は確かに知っているのだが、見知らぬ他人のように思えた。違和感を拭い切れなかった。
 浅黒い肌に浮く、真っ白な歯列。紫の唇で作り上げる卑しい笑み。その割に瞳は獣がするような無機質な光を湛えている。
 どれもよく知っているものであるにも関わらず、今ではそのどれもが福笑いの薄っぺらいパーツとしか見えない。
「充実してますよ」
 男は嘯いた。彼が職場でうだつの上がらない中年扱いされていることが、私は不思議でならない。今でこそ冴えない中年にしか思えない彼にも、ぎらついた青年期はあったのだ。人との争いを歓迎し、犯罪まがいに金を稼ぎ、ついには前科もついた。若者は中年にもおそろしい青年時代が存在し得ることを知らず、中年が最初から中年として存在すると考えている節がある。彼の青年期を知っている私だけが、現在の彼との乖離に首を傾げる。
 初めて顔を合わせたのは二十年も前になる。彼はまだ卑しい薄ら笑いが張りついてはおらず、目を爛々と光らせ、大口を開けて笑っていた。『俺は昔から何かを怖いと感じたことがないんだ』『怖いってどんな感じだ? 楽しいか?』『いいなァ、いつか俺も遭ってみたいよ、怖いものに』彼は世界中のものを見下していた。自分を心の底から脅かすものなどこの世に存在しない。そう思っていた。法的な裁きや社会制裁すら、彼からすると本当の恐怖には成り得なかったのだ。なんと傲慢。
 その傲慢さが今では懐かしい。
 にこにこにこにこ笑う彼と改めて対面して思う。
 三島、おまえは本当の恐怖というやつに出会ってしまったのだろう。
 おまえはそうやって、危なっかしいものに首を突っ込む男だった。もとをただせば争いごとを好んだのも、犯罪まがいの行いに手を染めたのも、そのためだったんだろう。
 三島という男は確かに目の前にいる。しかし私は彼がもうこの世のどこにもいないことを悟っていた。おまえは首を突っ込みすぎたんだ。世の中、何があっても踏み込んじゃならない領域は確かに存在する。
「そちらの様子はどうです。充実していますか」
 ぁあ充実している、何匹も鴉が窓へ突進しては、庭先でぱたぱた死んでいる。死骸には蛆がわき、蝿の羽音と強い腐臭が煩わしい。妻はその状況に頭が参り、自室にこもって何日も出てこない。腐臭は妻の部屋から匂っているのかもしれない。どちらでも良いことだ。
 この男がやってきた日のことを思い出す。『久しぶりに、顔を見たくなりました』にこにこにこにこ、男は死臭を漂わせながらやってきた。それを三島と呼んで良いのかもうわからない。彼が訪れてからというもの、近所の様子が変だ。住人が私たち夫婦に奇妙な眼差しを向け、ひそひそ言葉を交わし、庭に生ゴミを投げられていることもあった。
 三島は軽い思い出話を終えると立ち去ったはずなのに、以来私は毎日三島と顔を合わせる。鏡を見ると、水面を覗くと、必ず三島と遭う。にこにこにこにこ、こちらを見つめている。その瞳を潰してやろうと私は手を伸ばすが、奴には届かない。鏡面の、水の、冷たい感触が指に伝わるばかりだ。
 庭に棄てられた生ゴミには腐りかけの、臓器のような肉が詰まっていた。処理に困って最近は夜、庭先でひそかに燃やしている。燃える生ゴミは凄まじい匂いを放つものの、不思議と胸がすっとする。そうして幾晩経たのち、妻の部屋の扉がとつぜん開いた。
 三島が出てきた。私は奴を棍棒で叩いてやろうとするが、さっと逃げられる。
 三島はもはやこの家のどこにでもいる。塀の向こうからも我が家を覗き見している。ひとの不幸が好きなのだ。庭の生ゴミも奴の仕業に違いない。奴はいったいどこからやってきたのか。どこへ帰っているのか。
 みなみちゃんには言わないでほしい。

 目の前の男を、私は確かに知っているのだが、見知らぬ他人のように思えた。違和感を拭い切れなかった。  浅黒い肌に浮く、真っ白な歯列。紫の唇で作り上げる卑しい笑み。その割に瞳は獣がするような無機質な光を湛えている。  どれもよく知っているものであるにも関わらず、今ではそのどれもが福笑いの薄っぺらいパーツとしか見えない。 「充実してますよ」  男は嘯いた。彼が職場でうだつの上がらない中年扱いされていることが、私は不思議でならない。今でこそ冴えない中年にしか思えない彼にも、ぎらついた青年期はあったのだ。人との争いを歓迎し、犯罪まがいに金を稼ぎ、ついには前科もついた。若者は中年にもおそろしい青年時代が存在し得ることを知らず、中年が最初から中年として存在すると考えている節がある。彼の青年期を知っている私だけが、現在の彼との乖離に首を傾げる。  初めて顔を合わせたのは二十年も前になる。彼はまだ卑しい薄ら笑いが張りついてはおらず、目を爛々と光らせ、大口を開けて笑っていた。『俺は昔から何かを怖いと感じたことがないんだ』『怖いってどんな感じだ? 楽しいか?』『いいなァ、いつか俺も遭ってみたいよ、怖いものに』彼は世界中のものを見下していた。自分を心の底から脅かすものなどこの世に存在しない。そう思っていた。法的な裁きや社会制裁すら、彼からすると本当の恐怖には成り得なかったのだ。なんと傲慢。  その傲慢さが今では懐かしい。  にこにこにこにこ笑う彼と改めて対面して思う。  三島、おまえは本当の恐怖というやつに出会ってしまったのだろう。  おまえはそうやって、危なっかしいものに首を突っ込む男だった。もとをただせば争いごとを好んだのも、犯罪まがいの行いに手を染めたのも、そのためだったんだろう。  三島という男は確かに目の前にいる。しかし私は彼がもうこの世のどこにもいないことを悟っていた。おまえは首を突っ込みすぎたんだ。世の中、何があっても踏み込んじゃならない領域は確かに存在する。 「そちらの様子はどうです。充実していますか」  ぁあ充実している、何匹も鴉が窓へ突進しては、庭先でぱたぱた死んでいる。死骸には蛆がわき、蝿の羽音と強い腐臭が煩わしい。妻はその状況に頭が参り、自室にこもって何日も出てこない。腐臭は妻の部屋から匂っているのかもしれない。どちらでも良いことだ。  この男がやってきた日のことを思い出す。『久しぶりに、顔を見たくなりました』にこにこにこにこ、男は死臭を漂わせながらやってきた。それを三島と呼んで良いのかもうわからない。彼が訪れてからというもの、近所の様子が変だ。住人が私たち夫婦に奇妙な眼差しを向け、ひそひそ言葉を交わし、庭に生ゴミを投げられていることもあった。  三島は軽い思い出話を終えると立ち去ったはずなのに、以来私は毎日三島と顔を合わせる。鏡を見ると、水面を覗くと、必ず三島と遭う。にこにこにこにこ、こちらを見つめている。その瞳を潰してやろうと私は手を伸ばすが、奴には届かない。鏡面の、水の、冷たい感触が指に伝わるばかりだ。  庭に棄てられた生ゴミには腐りかけの、臓器のような肉が詰まっていた。処理に困って最近は夜、庭先でひそかに燃やしている。燃える生ゴミは凄まじい匂いを放つものの、不思議と胸がすっとする。そうして幾晩経たのち、妻の部屋の扉がとつぜん開いた。  三島が出てきた。私は奴を棍棒で叩いてやろうとするが、さっと逃げられる。  三島はもはやこの家のどこにでもいる。塀の向こうからも我が家を覗き見している。ひとの不幸が好きなのだ。庭の生ゴミも奴の仕業に違いない。奴はいったいどこからやってきたのか。どこへ帰っているのか。  みなみちゃんには言わないでほしい。

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057『玄関のステッカー』

30.10.2025 13:07 — 👍 1    🔁 0    💬 1    📌 0
「店長がどういう人かって? 普通のオッサンですよ。頼りになるかって言うと、微妙ですね。スタッフにも本部の人たちにもぺこぺこして、けっこうすぐ慌てるし。本人は気づいてないかもしれないすけど、気も短いって言うか、ちょっと軽口叩かれただけで顔真っ赤にしますし(笑) あれでも耐えてるつもりなんでしょうけどね。ま、オッサンなんてみんなそんなものじゃないすか。俺はああはなりたくないっすけど。……交友関係? さァ、彼女はいると聞きましたが、本当のとこはどうだか。確か相手は、シングルマザーって話だったような……?」

「店長がどういう人かって? 普通のオッサンですよ。頼りになるかって言うと、微妙ですね。スタッフにも本部の人たちにもぺこぺこして、けっこうすぐ慌てるし。本人は気づいてないかもしれないすけど、気も短いって言うか、ちょっと軽口叩かれただけで顔真っ赤にしますし(笑) あれでも耐えてるつもりなんでしょうけどね。ま、オッサンなんてみんなそんなものじゃないすか。俺はああはなりたくないっすけど。……交友関係? さァ、彼女はいると聞きましたが、本当のとこはどうだか。確か相手は、シングルマザーって話だったような……?」

 臙脂色のリボンタイはぎとついている。それを解こうとするあなたの手を、何かが阻んだ。サランラップだ。これはサランラップの芯だ。あなたはそう考えて、そのサランラップの芯をぽっきり折ってしまう。
 遠目には清潔に見えたブラウスは、目を凝らすとところどころ汚れがあった。あなたは肩を落とす。遠くからは汚れなき少女に見えたこの人形も単なるガラクタに過ぎなかった事実に、肩を落とす。
 面倒だったので、スカートのホックは引きちぎった。下半身を包むこの紺色の布が、親指の爪ほどしか大きさのない金属プレートで守られているだけなんて。不安を誘われる代物だ。あなたは感心し、不思議がり、嘲笑う。
 中身はガラクタなのに、リボンタイ、ブラウス、スカートを身につけているだけで特別な生き物に見えるのはなぜだろう。その特別性は対象へ神秘を与えると同時に、人並みの尊厳を奪ってもいる。たとえばの話、ソレが女王として振る舞えば、あなたは傅くだろう。だが人間として少女としての一面を一瞬でも見せれば、あなたは待ってましたと言わんばかりに棍棒を振り翳すはずだ。特別なものは、あなたより優位であるうちは神であるが、その強さが一片でも欠けようものならば、一転して搾取の対象となる。
 リボンタイ、ブラウス、スカートは、若さや性別といった属性にも入れ替えて語ることができるだろう。
 中身はガラクタだ。
 ガラクタに過ぎないのだ。
 あなたがブラウスを剥くと、新聞紙などをまるめて作ってある、人形の芯が目に入った。あなたはそれを引き剥がした。力まかせに引き剥がすごとに、紙片が飛び散り、『……交差点で玉突き事故……』といった文面が目の端に映る。胃の腑から怒りが込み上げ、あなたは手の力を強める。
 こんなガラクタが。
 ガラクタのくせに。
 あなたの怒りを受け止めには、この人形は役不足だ。腹部を無惨に毟られた人形を、あなたは無関心に一瞥し、今後のことを考える。考えながら淡々と人形を解体する。既に憂さ晴らしですらない。単なる処理だ。片づけだ。
 あなたは真実を知っている。本当のことを悟っている。しかし目の前の現実を歪曲することをやめない。なぜなら、あなたは正しいからだ。あなたは正しいから、過ちを犯すことはなく、したがってあなたの犯したことは、全て正しい行為に変換される。あなたが現実を歪曲しているのではなく、現実が勝手に歪曲している。あなたはそう考えている。よってあなたに非はない。あなたは真っ当な市民だ。
 あなたは窓を開けた。アパート前の道路を、別のガラクタ人形が歩いている。臙脂色のリボンタイ。清潔そうなブラウス。紺のスカート。あなたはそれを目で追い、煙草に火をつける。捕まえはしない。そこまでの体力は残っていない。ガラクタ人形たちが耳障りな笑い声を上げながら路上を歩くのを、静かに、怒りをこらえて、眺める。
 ガラクタだ。
 全部ガラクタだ。
 明日は仕事がある。仕事は好きでも嫌いでもない。だが、仕事のない男に女はついてこない。だから仕事をする。退屈な仕事だ。それでもやらないよりはマシだ。
 あなたは明日のことを考える。明後日のことを。明々後日のことを。誰も想像のできない数年後のことを。
 日は暮れつつある。すべてが地の底へ沈む。これからのことも全て沈んでしまえばいいのにと思う。あなたを好く女。あなたを憎む女。全て沈めばいい。
 これはみなみちゃんには言ってはならない。
 決して。
 決して。

 臙脂色のリボンタイはぎとついている。それを解こうとするあなたの手を、何かが阻んだ。サランラップだ。これはサランラップの芯だ。あなたはそう考えて、そのサランラップの芯をぽっきり折ってしまう。  遠目には清潔に見えたブラウスは、目を凝らすとところどころ汚れがあった。あなたは肩を落とす。遠くからは汚れなき少女に見えたこの人形も単なるガラクタに過ぎなかった事実に、肩を落とす。  面倒だったので、スカートのホックは引きちぎった。下半身を包むこの紺色の布が、親指の爪ほどしか大きさのない金属プレートで守られているだけなんて。不安を誘われる代物だ。あなたは感心し、不思議がり、嘲笑う。  中身はガラクタなのに、リボンタイ、ブラウス、スカートを身につけているだけで特別な生き物に見えるのはなぜだろう。その特別性は対象へ神秘を与えると同時に、人並みの尊厳を奪ってもいる。たとえばの話、ソレが女王として振る舞えば、あなたは傅くだろう。だが人間として少女としての一面を一瞬でも見せれば、あなたは待ってましたと言わんばかりに棍棒を振り翳すはずだ。特別なものは、あなたより優位であるうちは神であるが、その強さが一片でも欠けようものならば、一転して搾取の対象となる。  リボンタイ、ブラウス、スカートは、若さや性別といった属性にも入れ替えて語ることができるだろう。  中身はガラクタだ。  ガラクタに過ぎないのだ。  あなたがブラウスを剥くと、新聞紙などをまるめて作ってある、人形の芯が目に入った。あなたはそれを引き剥がした。力まかせに引き剥がすごとに、紙片が飛び散り、『……交差点で玉突き事故……』といった文面が目の端に映る。胃の腑から怒りが込み上げ、あなたは手の力を強める。  こんなガラクタが。  ガラクタのくせに。  あなたの怒りを受け止めには、この人形は役不足だ。腹部を無惨に毟られた人形を、あなたは無関心に一瞥し、今後のことを考える。考えながら淡々と人形を解体する。既に憂さ晴らしですらない。単なる処理だ。片づけだ。  あなたは真実を知っている。本当のことを悟っている。しかし目の前の現実を歪曲することをやめない。なぜなら、あなたは正しいからだ。あなたは正しいから、過ちを犯すことはなく、したがってあなたの犯したことは、全て正しい行為に変換される。あなたが現実を歪曲しているのではなく、現実が勝手に歪曲している。あなたはそう考えている。よってあなたに非はない。あなたは真っ当な市民だ。  あなたは窓を開けた。アパート前の道路を、別のガラクタ人形が歩いている。臙脂色のリボンタイ。清潔そうなブラウス。紺のスカート。あなたはそれを目で追い、煙草に火をつける。捕まえはしない。そこまでの体力は残っていない。ガラクタ人形たちが耳障りな笑い声を上げながら路上を歩くのを、静かに、怒りをこらえて、眺める。  ガラクタだ。  全部ガラクタだ。  明日は仕事がある。仕事は好きでも嫌いでもない。だが、仕事のない男に女はついてこない。だから仕事をする。退屈な仕事だ。それでもやらないよりはマシだ。  あなたは明日のことを考える。明後日のことを。明々後日のことを。誰も想像のできない数年後のことを。  日は暮れつつある。すべてが地の底へ沈む。これからのことも全て沈んでしまえばいいのにと思う。あなたを好く女。あなたを憎む女。全て沈めばいい。  これはみなみちゃんには言ってはならない。  決して。  決して。

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056『前日譚』

29.10.2025 03:10 — 👍 1    🔁 0    💬 1    📌 0
これは、荒垣湾震災にて一時行方不明となっていた△△号シップレコーダーにて確認された音声記録です。△△号は一週間の信号途絶後、××沿岸部にて発見されました。乗組員の姿はありませんでした。なお、乗組員のものと合致しない一部音声につきましては、現在調査中です。

これは、荒垣湾震災にて一時行方不明となっていた△△号シップレコーダーにて確認された音声記録です。△△号は一週間の信号途絶後、××沿岸部にて発見されました。乗組員の姿はありませんでした。なお、乗組員のものと合致しない一部音声につきましては、現在調査中です。

「ひかり──ひかりが見える──あそこだ、あの岩礁の向こう──違う、灯台じゃない! 見えないのか、あのひかりが!」
「惑わされるな──きっと帰れる、あのひかりを追えばウチに帰れるはずなんだ──見ろ、岸辺だ──陸だ、陸が近づいてきたぞ!」
「待て──何かおかしい、何か変だ──あれは本当に陸か?」
「***ろ! 振り返るな、立ち止まるな、走れ!! ***は──**して、*****るんじゃない! ********────」
「先生が、言うことには、それはひかり、ひかりであるからに、我々は目を開いてはならず、直視してはならず、然して目を灼くそれを、悪しきものと我々は捉えるようになったけども、実のところそうではないと、目を灼くからといってそれが悪いものであるわけではないと、強すぎるひかりもまたそこに居るものを損なってしまうのだと説かれまして、なるほどなぁと納得した次第です、
 ひとの魂も同じこと、ひとの魂が崩れるのは、ひとの魂が脆いせいであって、そこに在るものが悪いわけではない、むしろ強大なひかりたるそれを、我々は頭を垂れて迎え入れるべきなのです、と考えると、市井の反応にはがっかりするばかりでございます、そう語ったのはいったい誰だったか、個体名をはっきりさせる必要は存在せず、我々はただ我々として在る、それだけで良いのであった、良いのであった、あはははは……
 そうこれは失くしたものの悦び、棄てたものの悦び、人間は一人一人に価値があると、そう教えられてきましたね、我々もその通りだと考えてきました、けれどそれが重荷であったことを否定できないでしょう、価値の重さイコゥール責任の重さであるからして、我々はむしろ、生に自由ではなく不自由を見出すようになった、個々の価値を語れば語るほど、我々は羽根をむしられていった、あなたもそれはよくご存知でしょう、だからここに訪れたはずです、この、祝祭に……
 祝祭に……
 祝祭に……
 祝祭にににににににににに」
「みなみちゃんには言っちゃだめ」
「みなみちゃんには言っちゃだめ」
「みなみちゃんには言っちゃだめ」
「みなみちゃんには言っちゃだめ」
「みなみちゃんには言っちゃだめ」
「双子って不思議ですよね。聞いたことがありませんか? 一方が腐ったバナナを食べて食中毒で苦しんでいたら、別の場所でぴんぴんしていたはずのもう片方も腹痛に襲われる。一方が交通事故に遭って片腕を失ったら、同時刻もう一方も鉄骨の下敷きになって片腕を失う。そんな奇妙な現象が双子にはよく降りかかるそうなんです。真偽のほどは定かではありませんがね」
「みなみちゃんには言っちゃだめ」
「みなみちゃんには言っちゃだめ」
「みなみちゃんには言っちゃだめ」
「娘の考えを聞きたいの。たとえば、人間をほぼ百パーセント死に至らしめるウィルスを生み出す、破壊不可能な装置がここにあるとする。対して、ウィルスへの抗体を持つ人間も存在する。抗体を持つ人間のおかげで限定的な平穏を得てはいるけれど、当該人物が死ねば抗体ごとウィルスへの対抗策は消失してしまう。また抗体所持者は抗体を持つ自覚がなく、それを本人に知らせれば装置がフル稼働する仕組みになってるの。装置がフル稼働すれば何人死ぬかわからない。……この場合私の行動として適切なのは、そんな状態に陥ると知っておきながら抗体所持者に接触すること? それとも抗体所持者がいつ消えるかわからないと知った上で目先の平穏を確保すること?」
「みなみちゃんには言っちゃ だめ」

「ひかり──ひかりが見える──あそこだ、あの岩礁の向こう──違う、灯台じゃない! 見えないのか、あのひかりが!」 「惑わされるな──きっと帰れる、あのひかりを追えばウチに帰れるはずなんだ──見ろ、岸辺だ──陸だ、陸が近づいてきたぞ!」 「待て──何かおかしい、何か変だ──あれは本当に陸か?」 「***ろ! 振り返るな、立ち止まるな、走れ!! ***は──**して、*****るんじゃない! ********────」 「先生が、言うことには、それはひかり、ひかりであるからに、我々は目を開いてはならず、直視してはならず、然して目を灼くそれを、悪しきものと我々は捉えるようになったけども、実のところそうではないと、目を灼くからといってそれが悪いものであるわけではないと、強すぎるひかりもまたそこに居るものを損なってしまうのだと説かれまして、なるほどなぁと納得した次第です、  ひとの魂も同じこと、ひとの魂が崩れるのは、ひとの魂が脆いせいであって、そこに在るものが悪いわけではない、むしろ強大なひかりたるそれを、我々は頭を垂れて迎え入れるべきなのです、と考えると、市井の反応にはがっかりするばかりでございます、そう語ったのはいったい誰だったか、個体名をはっきりさせる必要は存在せず、我々はただ我々として在る、それだけで良いのであった、良いのであった、あはははは……  そうこれは失くしたものの悦び、棄てたものの悦び、人間は一人一人に価値があると、そう教えられてきましたね、我々もその通りだと考えてきました、けれどそれが重荷であったことを否定できないでしょう、価値の重さイコゥール責任の重さであるからして、我々はむしろ、生に自由ではなく不自由を見出すようになった、個々の価値を語れば語るほど、我々は羽根をむしられていった、あなたもそれはよくご存知でしょう、だからここに訪れたはずです、この、祝祭に……  祝祭に……  祝祭に……  祝祭にににににににににに」 「みなみちゃんには言っちゃだめ」 「みなみちゃんには言っちゃだめ」 「みなみちゃんには言っちゃだめ」 「みなみちゃんには言っちゃだめ」 「みなみちゃんには言っちゃだめ」 「双子って不思議ですよね。聞いたことがありませんか? 一方が腐ったバナナを食べて食中毒で苦しんでいたら、別の場所でぴんぴんしていたはずのもう片方も腹痛に襲われる。一方が交通事故に遭って片腕を失ったら、同時刻もう一方も鉄骨の下敷きになって片腕を失う。そんな奇妙な現象が双子にはよく降りかかるそうなんです。真偽のほどは定かではありませんがね」 「みなみちゃんには言っちゃだめ」 「みなみちゃんには言っちゃだめ」 「みなみちゃんには言っちゃだめ」 「娘の考えを聞きたいの。たとえば、人間をほぼ百パーセント死に至らしめるウィルスを生み出す、破壊不可能な装置がここにあるとする。対して、ウィルスへの抗体を持つ人間も存在する。抗体を持つ人間のおかげで限定的な平穏を得てはいるけれど、当該人物が死ねば抗体ごとウィルスへの対抗策は消失してしまう。また抗体所持者は抗体を持つ自覚がなく、それを本人に知らせれば装置がフル稼働する仕組みになってるの。装置がフル稼働すれば何人死ぬかわからない。……この場合私の行動として適切なのは、そんな状態に陥ると知っておきながら抗体所持者に接触すること? それとも抗体所持者がいつ消えるかわからないと知った上で目先の平穏を確保すること?」 「みなみちゃんには言っちゃ だめ」

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055『シップレコーダーの記録』

28.10.2025 03:10 — 👍 1    🔁 0    💬 1    📌 0
『……後悔しています。なんだよその話って当時は流しちゃったけど、本当は意味が込められてたんじゃないかって。助けを求めるサインだったんじゃないかって。今更考えたって、どうにもならないのに……』

『……後悔しています。なんだよその話って当時は流しちゃったけど、本当は意味が込められてたんじゃないかって。助けを求めるサインだったんじゃないかって。今更考えたって、どうにもならないのに……』

 最近、妙な夢を見るんだ。夢の中でオレはファミレスの店長をしていて、毎日けっこう忙しい。若いスタッフも多いからさ。試験あってシフト入れないです〜、とか、店長ぉ聞いてくださいよあの新人がぁ、とか、いろいろあるわけよ。仕事の大半はその調整で、まぁ辞めるほどかって言うとそうでもない。だからオーケーオーケー試験ね頑張ってねとかいつも教育頑張ってくれてありがとねとか、適当に返事してさ。合間に面倒臭ェ常連客の相手して、本部からの連絡にぺこぺこして。やっと店じまいの時間を迎えると、まかないのペペロンチーノ食うのがおれのささやかな楽しみなんだ。このペペロンチーノが飽きるほど食ってるはずなのに、不思議と飽きねぇんだよなあ。
 退勤後は、一杯引っかけていくこともある。酒であっためた体を夜風で冷やすのがまた気持ちいんだ。休み前だと、明日どうすっかな〜って考えたりしてさ。朝のジョギングはするとして。また後輩のやってるジムにでも顔出そうかなァ。久しぶりにスパーもしてぇしなあ。
 自分の住んでるアパートの階段を上がる。あれ鍵どこだっけ、いつもここに、あっこっちか、って取り出した鍵をドアノブに差す。立て付けが悪いのか、ドアはいつもギーッとすげえ音を立てて開く。夢の中のオレはもう慣れたもんで、あんま気にしてねぇけどさ。
 それから室内に寝かせてある女子高生姿のガラクタ人形をめった打ちにするんだ。
 ……オレもよくわかんねぇよ。とにかく女子高生ぽいんだ。ブラウスに、リボンタイに、スカートで。女子中学生って感じはなぜかしない。そいつは間違いなく女子高生だ。雑紙を丸めた胴体に、腕としてサランラップの芯がぶっ刺さってて、クイックルワイパー的な棒が脚になってる。ガラクタでできた女子高生、ガラクタ女子高生だ。
 オレはそれに馬乗りになり、殴る殴る、たまに蹴る。奇妙に頑丈なガラクタ女子高生は全然壊れない。
 一息つくと、何事もなかったように風呂入って、缶ビール開けてユーチューブ見て。頃合いになったら消灯して夢の中。夢の中で夢の中。ははは……は。
 そして昨日と同じ明日がやってくる。朝はだいたい調理パンで済ます。顔洗って髭剃りして、整髪して。着替えが済んだらもう出勤だ。一応中古で買った自家用車があるが、使うことはあまりない。帰りに飲めなくなるから。バスで通勤することが多い。店に着くと、打刻して開店準備に入る。朝シフトの奴らがダルそうな顔でやってきて、オレも内心ダルいものを感じながらもそれをおくびにも出さず「おはよう!」と挨拶する。若い奴らは「っす」と面倒そうな目でオレに頭を下げる。やってらんねぇな。
 いつものように、常連客に愛想笑いして、本部からの連絡にぺこぺこして。我儘放題のスタッフをまとめるのに苦心している間に、もう店じまいだ。まかないのペペロンチーノはやはり美味い。自分で作ってるんだ、レシピも味もとうにわかりきってる。なのに美味い。
 そして帰宅してまたガラクタ女子高生をめった打ちにする。
 朝が来る。出勤する。本部からの連絡にぺこぺこする。スタッフの愚痴をなだめる。店じまいする。ペペロンチーノを食う。ガラクタ女子高生をめった打ちにする。
 朝が来る。出勤する。面倒な常連客に愛想笑いする。スタッフの陰口を聞きながらシフトを完成させる。店じまいする。ペペロンチーノを食う。酒を飲む。ガラクタ女子高生をめった打ちにする。
 朝が来る。
 ガラクタ女子高生をめった打ちにする。
 朝が来る。
 ガラクタ女子高生をめった打ちにする。
 ……それが繰り返されるだけの夢なんだが。日常生活がリアルなぶん、ガラクタ女子高生を殴る瞬間だけ意味わかんなくて……オレ、なんか心の闇でも抱えちゃってんのかな? みなみちゃんには言わないでくれよ。

 最近、妙な夢を見るんだ。夢の中でオレはファミレスの店長をしていて、毎日けっこう忙しい。若いスタッフも多いからさ。試験あってシフト入れないです〜、とか、店長ぉ聞いてくださいよあの新人がぁ、とか、いろいろあるわけよ。仕事の大半はその調整で、まぁ辞めるほどかって言うとそうでもない。だからオーケーオーケー試験ね頑張ってねとかいつも教育頑張ってくれてありがとねとか、適当に返事してさ。合間に面倒臭ェ常連客の相手して、本部からの連絡にぺこぺこして。やっと店じまいの時間を迎えると、まかないのペペロンチーノ食うのがおれのささやかな楽しみなんだ。このペペロンチーノが飽きるほど食ってるはずなのに、不思議と飽きねぇんだよなあ。  退勤後は、一杯引っかけていくこともある。酒であっためた体を夜風で冷やすのがまた気持ちいんだ。休み前だと、明日どうすっかな〜って考えたりしてさ。朝のジョギングはするとして。また後輩のやってるジムにでも顔出そうかなァ。久しぶりにスパーもしてぇしなあ。  自分の住んでるアパートの階段を上がる。あれ鍵どこだっけ、いつもここに、あっこっちか、って取り出した鍵をドアノブに差す。立て付けが悪いのか、ドアはいつもギーッとすげえ音を立てて開く。夢の中のオレはもう慣れたもんで、あんま気にしてねぇけどさ。  それから室内に寝かせてある女子高生姿のガラクタ人形をめった打ちにするんだ。  ……オレもよくわかんねぇよ。とにかく女子高生ぽいんだ。ブラウスに、リボンタイに、スカートで。女子中学生って感じはなぜかしない。そいつは間違いなく女子高生だ。雑紙を丸めた胴体に、腕としてサランラップの芯がぶっ刺さってて、クイックルワイパー的な棒が脚になってる。ガラクタでできた女子高生、ガラクタ女子高生だ。  オレはそれに馬乗りになり、殴る殴る、たまに蹴る。奇妙に頑丈なガラクタ女子高生は全然壊れない。  一息つくと、何事もなかったように風呂入って、缶ビール開けてユーチューブ見て。頃合いになったら消灯して夢の中。夢の中で夢の中。ははは……は。  そして昨日と同じ明日がやってくる。朝はだいたい調理パンで済ます。顔洗って髭剃りして、整髪して。着替えが済んだらもう出勤だ。一応中古で買った自家用車があるが、使うことはあまりない。帰りに飲めなくなるから。バスで通勤することが多い。店に着くと、打刻して開店準備に入る。朝シフトの奴らがダルそうな顔でやってきて、オレも内心ダルいものを感じながらもそれをおくびにも出さず「おはよう!」と挨拶する。若い奴らは「っす」と面倒そうな目でオレに頭を下げる。やってらんねぇな。  いつものように、常連客に愛想笑いして、本部からの連絡にぺこぺこして。我儘放題のスタッフをまとめるのに苦心している間に、もう店じまいだ。まかないのペペロンチーノはやはり美味い。自分で作ってるんだ、レシピも味もとうにわかりきってる。なのに美味い。  そして帰宅してまたガラクタ女子高生をめった打ちにする。  朝が来る。出勤する。本部からの連絡にぺこぺこする。スタッフの愚痴をなだめる。店じまいする。ペペロンチーノを食う。ガラクタ女子高生をめった打ちにする。  朝が来る。出勤する。面倒な常連客に愛想笑いする。スタッフの陰口を聞きながらシフトを完成させる。店じまいする。ペペロンチーノを食う。酒を飲む。ガラクタ女子高生をめった打ちにする。  朝が来る。  ガラクタ女子高生をめった打ちにする。  朝が来る。  ガラクタ女子高生をめった打ちにする。  ……それが繰り返されるだけの夢なんだが。日常生活がリアルなぶん、ガラクタ女子高生を殴る瞬間だけ意味わかんなくて……オレ、なんか心の闇でも抱えちゃってんのかな? みなみちゃんには言わないでくれよ。

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054『相談内容』

27.10.2025 03:09 — 👍 1    🔁 0    💬 1    📌 0
〇〇区不審者情報

 ×月×日×時頃、〇〇区△丁目の道路上で、帰宅途中の女子生徒が不審な男に声をかけられました。
 男の特徴は、年齢四十歳代、身長百七十センチメートルくらい、がっしりとした体格で、日焼けしており、白いシャツ、黒いズボンを着用していました。
 お子さまには、「知らない人には絶対についていかない」「恐怖や不安を感じたときは、大きな声で周りに知らせる」「みなみちゃんには言わない」など指導を徹底してください。

〇〇区不審者情報  ×月×日×時頃、〇〇区△丁目の道路上で、帰宅途中の女子生徒が不審な男に声をかけられました。  男の特徴は、年齢四十歳代、身長百七十センチメートルくらい、がっしりとした体格で、日焼けしており、白いシャツ、黒いズボンを着用していました。  お子さまには、「知らない人には絶対についていかない」「恐怖や不安を感じたときは、大きな声で周りに知らせる」「みなみちゃんには言わない」など指導を徹底してください。

 事故なんですよ。事故ってご存知ですか? そう、その事故。意味がわからないなら辞書でも引いてください。なんなら今調べましょうか。
 へぇ、"思いがけず起こった悪い出来事"ですって。
 だからね。
 これ事故なんですよ。
 いやだから。思いがけず起こった悪い出来事が、事故でしょ。じゃあこれ事故でしょ。思いがけず起こったんですから。俺たちが出会ったのは思いがけないものでしょ? だから事故。
 なんでこだわるかって、こだわってるのはそっちでしょ。そっちが事故じゃないって言うから事故だよってこっちも言わざるを得ないんじゃないですか。間違いを訂正してるだけです。
 これは事故です。
 だからぁ……お子さんが亡くなったのは事故なんですって。言ったでしょ。俺たちが出会ったのはただの偶然。
 だから事故。
 事故!
 事故なんだよッ!!
 仕方ねぇだろ!
 そいつが"三島"って名乗ったんだから! 
 まさか本当にただの三島だなんて、そういう苗字なだけだなんて思わねーーだろうが!!
 ……俺だって多少は考えたさ。たった九歳の子どもが"三島"だなんてことあるか? でも念には念を、だ。俺はそうやって生き延びてきた。だから他は全員喰われても、俺だけは生き残ってる。
 悪いと思ってる。本当にただの子どもだなんて思わなかった。奴らが悪趣味な手を使ってきたんだと思った。そうだよ責められるべきは俺じゃなくて奴らだろ。"三島"が全部悪い。捕まえるなら俺じゃなくて奴らだ!
 …………。
 家族? 友人? そんなのもういないよ。みんな"三島"になっちまったから。"三島"になっちまったら、もう……
 殺すしかなくなっちゃうだろぉぉぉ……
 俺だって殺したくないんだってぇ……何遍も言ったろぉお? これは事故だって、不慮の、事故! おまえらが"三島"になって俺ん前に現れるもんだからさぁぁ。そんなの、殺すしかなくなっちゃうじゃんかよぉおぉぉ……。
 ……今でも思い浮かぶ。奴ら、俺の親やダチの顔で助けてー助けてーって言うんだ。辛かった。許せなかった。"三島"の分際で俺の身内に成りすましやがって。姑息な手段で逃げ出そうとしやがって。
 だから、一段と苦しめて殺してやった。
 ぁあ、忘れらんないよ、奴らの顔さぁ……ひひっ。"三島"のくせに、あんな、人間みたいな……怯えるふりしやがって。あっはっはっは……
"三島"は人間のふりが上手いんだ。なんなら、自分が人間だと本当に思い込んでいることもあるだろう。"三島"とただの人間を見分けるのは難しくて……
 つまり、俺があんたの子どもを"三島"と勘違いしたのも、仕方ないことだったんだ。
 全部事故。
 だから、これは、全部事故。
 事故、事故、これは事故だ、事故……
 ……ひひっ。
 みなみちゃんには言わないでくれよ。

 事故なんですよ。事故ってご存知ですか? そう、その事故。意味がわからないなら辞書でも引いてください。なんなら今調べましょうか。  へぇ、"思いがけず起こった悪い出来事"ですって。  だからね。  これ事故なんですよ。  いやだから。思いがけず起こった悪い出来事が、事故でしょ。じゃあこれ事故でしょ。思いがけず起こったんですから。俺たちが出会ったのは思いがけないものでしょ? だから事故。  なんでこだわるかって、こだわってるのはそっちでしょ。そっちが事故じゃないって言うから事故だよってこっちも言わざるを得ないんじゃないですか。間違いを訂正してるだけです。  これは事故です。  だからぁ……お子さんが亡くなったのは事故なんですって。言ったでしょ。俺たちが出会ったのはただの偶然。  だから事故。  事故!  事故なんだよッ!!  仕方ねぇだろ!  そいつが"三島"って名乗ったんだから!   まさか本当にただの三島だなんて、そういう苗字なだけだなんて思わねーーだろうが!!  ……俺だって多少は考えたさ。たった九歳の子どもが"三島"だなんてことあるか? でも念には念を、だ。俺はそうやって生き延びてきた。だから他は全員喰われても、俺だけは生き残ってる。  悪いと思ってる。本当にただの子どもだなんて思わなかった。奴らが悪趣味な手を使ってきたんだと思った。そうだよ責められるべきは俺じゃなくて奴らだろ。"三島"が全部悪い。捕まえるなら俺じゃなくて奴らだ!  …………。  家族? 友人? そんなのもういないよ。みんな"三島"になっちまったから。"三島"になっちまったら、もう……  殺すしかなくなっちゃうだろぉぉぉ……  俺だって殺したくないんだってぇ……何遍も言ったろぉお? これは事故だって、不慮の、事故! おまえらが"三島"になって俺ん前に現れるもんだからさぁぁ。そんなの、殺すしかなくなっちゃうじゃんかよぉおぉぉ……。  ……今でも思い浮かぶ。奴ら、俺の親やダチの顔で助けてー助けてーって言うんだ。辛かった。許せなかった。"三島"の分際で俺の身内に成りすましやがって。姑息な手段で逃げ出そうとしやがって。  だから、一段と苦しめて殺してやった。  ぁあ、忘れらんないよ、奴らの顔さぁ……ひひっ。"三島"のくせに、あんな、人間みたいな……怯えるふりしやがって。あっはっはっは…… "三島"は人間のふりが上手いんだ。なんなら、自分が人間だと本当に思い込んでいることもあるだろう。"三島"とただの人間を見分けるのは難しくて……  つまり、俺があんたの子どもを"三島"と勘違いしたのも、仕方ないことだったんだ。  全部事故。  だから、これは、全部事故。  事故、事故、これは事故だ、事故……  ……ひひっ。  みなみちゃんには言わないでくれよ。

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053『不審者情報』

26.10.2025 01:38 — 👍 1    🔁 0    💬 1    📌 0
『×月×日、◯◯区のマンションにて男性の遺体が発見された。遺体の身元は同地区在住四十二歳△△さん。△△さんは全身に数十箇所の刺し傷があり、警視庁は強い怨恨による犯行と見て捜査を続けている……』

『×月×日、◯◯区のマンションにて男性の遺体が発見された。遺体の身元は同地区在住四十二歳△△さん。△△さんは全身に数十箇所の刺し傷があり、警視庁は強い怨恨による犯行と見て捜査を続けている……』

 肌に針を刺す。私は微笑みかける。あなたは私に微笑み返す。刺した針を抜く。血は流れない。私たちは微笑み合う。また針を刺す。
 なぜそんな顔をするのですか。何に怯えているのですか。これは完璧になった証拠。完璧になったことを確かめ合うの。針を刺す。血は出ない。やはり血は出ない。私たちは微笑み合う。針を向ける。手を振り払われる。背中が遠のいていく。私はぼんやりとそれを眺める。私はぼんやりとぼんやりと眺める。
 微笑み合わないならばあれは家族ではない。私は構わない。針を刺す。血は出ない。私は安堵する。滴るのは水だけ。流れ落ちるのは塩辛い水だけです。
 懐かしい磯の香りがします。磯辺にいた記憶などありませんが。それでもそこは私の故郷です。私たちの魂があった場所です。先生は語り、懐かしむ。そこにひかりがある。強大な光柱がある。微笑みで以って我々を天国へいざなう。それが祝祭の入り口です。
 針を刺す。血は出ない。私たちは確かめ合う。鍵があること。天国へ至る資格があること。滴るのは海水だけ。ある者は血を流して逃げる。心を痛めてはならない。彼らを憎んではならない。慈悲の心を持ちなさい。ヒトの心を持つのです。
 ひかりを見たくば蛇口を捻るがいい。コップ一杯の水を飲み干すがいい。ひかりはそこにある。皆いつでもそこにいる。ノック音は迎えの証です。あなたを天国へ招く支度が整った証です。怯える必要はない。あなたは身を任せるだけ。全て一瞬で終わる。天国への鍵は一瞬にして渡される。
 祝祭が待ち遠しいですか。焦ってはなりませんよあなた。順番は必ず回ってきます。その時に備え、玄関は開けておいて。窓の鍵は外しておいて。電話の電源は切っておいて。産まれたての姿で佇んでおいて。家族友人への別れを済ませておいて。いえ、再会の誓いを済ませておいて。いずれあなた方は再会するのだもの。天国でね。
 さァ針を刺そう。互いを確かめ合おう。我々は天国へ至る資格のある者たち。お互いにうっとりしよう。お互いに頬笑み合おう。そうしていれば皆幸せです。これがほんとうの幸せです。
 先生にお会いしたいのですか。なぜですか。先生は偉大なお方です。けれども語り合う必要はもはやない。我々がすべきは微笑み合うこと。我々がすべきはそれだけ。なにゆえ先生との面会を望む。
 せんせいは、詐欺師?
 あなたは何を言っている。私には理解できない。あなたの言葉の意味がわからない。我々は同志だ。刺し合う以上に大事なことは存在しない。なのにどうしてそう恐ろしげな顔をする。何を憤っている? これから天国に至るのですよ。それは至るものに相応しくない顔……。
 私たちは許せません。あなたの言っていることを許容できない。それの意味することを許容できない。あなたの言うことが真ならば。私たちいったい何をしたの。私たちいったい何になったの?
 ゆえにあなたは間違っている。あなたの言うことが真ならば。我々の行いは過ちとなる。それはおかしい。よってあなたは間違っている。我々は素晴らしいことをしたのだから。あなたは間違っている。間違いは許せない。間違いは正さなければ。先生は詐欺師ではない。先生を正しいと認めなさい。我々は素晴らしいものだと認めなさい。
 そしてあなたも素晴らしいものとなるの。
 お互いに刺し合いましょう。お互いに確かめ合いましょう。私たちの持つ権利を確かめる。天国への鍵を確かめる。私たちが素晴らしいものであると確かめる。お互いに微笑み合いましょう。お互いに感謝しましょう。さぁ腕を出して。あなたを確かめてあげる。あなたに微笑んであげる。祝祭の始まりにあなたも向かうの。皆でそこに向かうの。天国の門を叩くの。共に微笑み合うの。私はあなたを離さない。抜け駆けは許さない。そのために手を取り合う。
 みなみちゃんには言っちゃだめよ。

 肌に針を刺す。私は微笑みかける。あなたは私に微笑み返す。刺した針を抜く。血は流れない。私たちは微笑み合う。また針を刺す。  なぜそんな顔をするのですか。何に怯えているのですか。これは完璧になった証拠。完璧になったことを確かめ合うの。針を刺す。血は出ない。やはり血は出ない。私たちは微笑み合う。針を向ける。手を振り払われる。背中が遠のいていく。私はぼんやりとそれを眺める。私はぼんやりとぼんやりと眺める。  微笑み合わないならばあれは家族ではない。私は構わない。針を刺す。血は出ない。私は安堵する。滴るのは水だけ。流れ落ちるのは塩辛い水だけです。  懐かしい磯の香りがします。磯辺にいた記憶などありませんが。それでもそこは私の故郷です。私たちの魂があった場所です。先生は語り、懐かしむ。そこにひかりがある。強大な光柱がある。微笑みで以って我々を天国へいざなう。それが祝祭の入り口です。  針を刺す。血は出ない。私たちは確かめ合う。鍵があること。天国へ至る資格があること。滴るのは海水だけ。ある者は血を流して逃げる。心を痛めてはならない。彼らを憎んではならない。慈悲の心を持ちなさい。ヒトの心を持つのです。  ひかりを見たくば蛇口を捻るがいい。コップ一杯の水を飲み干すがいい。ひかりはそこにある。皆いつでもそこにいる。ノック音は迎えの証です。あなたを天国へ招く支度が整った証です。怯える必要はない。あなたは身を任せるだけ。全て一瞬で終わる。天国への鍵は一瞬にして渡される。  祝祭が待ち遠しいですか。焦ってはなりませんよあなた。順番は必ず回ってきます。その時に備え、玄関は開けておいて。窓の鍵は外しておいて。電話の電源は切っておいて。産まれたての姿で佇んでおいて。家族友人への別れを済ませておいて。いえ、再会の誓いを済ませておいて。いずれあなた方は再会するのだもの。天国でね。  さァ針を刺そう。互いを確かめ合おう。我々は天国へ至る資格のある者たち。お互いにうっとりしよう。お互いに頬笑み合おう。そうしていれば皆幸せです。これがほんとうの幸せです。  先生にお会いしたいのですか。なぜですか。先生は偉大なお方です。けれども語り合う必要はもはやない。我々がすべきは微笑み合うこと。我々がすべきはそれだけ。なにゆえ先生との面会を望む。  せんせいは、詐欺師?  あなたは何を言っている。私には理解できない。あなたの言葉の意味がわからない。我々は同志だ。刺し合う以上に大事なことは存在しない。なのにどうしてそう恐ろしげな顔をする。何を憤っている? これから天国に至るのですよ。それは至るものに相応しくない顔……。  私たちは許せません。あなたの言っていることを許容できない。それの意味することを許容できない。あなたの言うことが真ならば。私たちいったい何をしたの。私たちいったい何になったの?  ゆえにあなたは間違っている。あなたの言うことが真ならば。我々の行いは過ちとなる。それはおかしい。よってあなたは間違っている。我々は素晴らしいことをしたのだから。あなたは間違っている。間違いは許せない。間違いは正さなければ。先生は詐欺師ではない。先生を正しいと認めなさい。我々は素晴らしいものだと認めなさい。  そしてあなたも素晴らしいものとなるの。  お互いに刺し合いましょう。お互いに確かめ合いましょう。私たちの持つ権利を確かめる。天国への鍵を確かめる。私たちが素晴らしいものであると確かめる。お互いに微笑み合いましょう。お互いに感謝しましょう。さぁ腕を出して。あなたを確かめてあげる。あなたに微笑んであげる。祝祭の始まりにあなたも向かうの。皆でそこに向かうの。天国の門を叩くの。共に微笑み合うの。私はあなたを離さない。抜け駆けは許さない。そのために手を取り合う。  みなみちゃんには言っちゃだめよ。

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052『◯◯区監禁連続殺人事件』

24.10.2025 03:22 — 👍 1    🔁 0    💬 1    📌 0
領収書

唐揚げ 196円
はなちゃん 無料

領収書 唐揚げ 196円 はなちゃん 無料

 こうして閉じこもっていると昔を思い出す、それは懐かしい隠れんぼの記憶、童子の笑い声の駆ける記憶、されど哀愁はやってこず、思い出すはただただ願っていたこと、見つけてくれるなよと祈っていたことばかり、
 思い返すと祈りだけの人生だ、どうか鬼に見つかりませんようにと祈り、アレに見つかりませんようにと今も祈っている、その祈りの向く先が何であるか自分でもわからない、その事実に我ながら呆れるが、ではこの状況で何ができるというのか、そもそもこの自己嫌悪自体現実逃避でしかないではないか、
 相場より安い家賃に何も思わないではなかった、それを何も思わないふりをして契約を進めたのは、諦念に満ちた現実に頭が麻痺していたのか、それとも何かが起きるのを心のどこかで期待していたのか、とすると片手に携えたレジ袋(コンビニで買った唐揚げが入っている)すらままごとの道具のように感じられ、自分で自分にぞっとする、
 とん かららんっ
 母は昔からああではないのであった、母がああなったきっかけは紛れもなくこのアパートで起きた出来事のはずで、わたしはその解決の糸口を握るためにここへやってきたのかもしれない、
 とん とん かららんっ
 いや自分に期待しすぎだ、そうするにはわたしはもうくたびれきっている、母への愛も枯れ果ててしまっている、それを取り戻す気にもなれない、仮にそれが戻ってきたとして、わたしはこの腹の奥底に押し込んできた母への鬱憤を今更手放せないに違いないのだから、
 とんとん かららんっ
 扉の外から聞こえる足音はいつかの父の足音のようだ、夏祭りに手を引かれて人混みの中を歩いた、その翌日に父はタンシンフニンで家を離れそのまま帰ってこなかった、あの鮮やかな金魚の尾鰭が一家団欒の終わりを告げる象徴であったとは誰が想像できただろう、その日から母はぼんやり水槽の金魚を手で追い回しては気まぐれにわたしへ金切り声を浴びせる、見知らぬ女へと変化した、
 父は何を思って失踪したのだろう、母以外によい人を見つけたのか、それとももっと魅力的な金魚の尾鰭でも見つけてしまったのか、父への怒りは湧いてこないまま、ただその真意を問いただしたい不思議な欲求ばかりが湧いてくる、
「いきが つ まる せいかつだった」
 ふと顔を上げるとどうしたことだろう、父がそこに立っている、向かいの鏡の中に佇んでいる、口をぱくぱくと動かしてあの日何が起きたのかなぜ消えたのかを語る、その告白は即ちわたしへの愛の欠如を自白するものにほかならず、しかし怒りはやはり湧いてこないのであるわたしの心に広がるのは凪いだ水面、
 ぁあ、そういうことか、
 どうして今になって父がわたしの前に現れたのだろうと考え、そしてとつぜんに閃いた、そこにいる男は父ではない、父によく似た別の男、
 わたしだ……
 歳を重ねるうちわたしは気づかぬ間に失踪直前の父と瓜二つになっていた、歩んだ道は違えど心は同じ軌跡を辿ったことでわたしは父の血を手に入れ、そして父と同じ男になった今やっと父と通じ合った、あの頃は父と手は繋げても本当のところはまったく繋がっていなかった、わたしたちは同じ遺伝子を抱えているだけの他人だった、だが今は本当の意味で父の息子となっている、その証拠に鏡の男は微笑んでいる、父の顔で、わたしの顔で、父に、わたしに、ゆるしを与えている
「はやくしねばいい」
 それは水を滴らせながらゆっくりと這い出てくる、
「はやくしねばいい」
 みなみちゃんには言わないでください。

 こうして閉じこもっていると昔を思い出す、それは懐かしい隠れんぼの記憶、童子の笑い声の駆ける記憶、されど哀愁はやってこず、思い出すはただただ願っていたこと、見つけてくれるなよと祈っていたことばかり、  思い返すと祈りだけの人生だ、どうか鬼に見つかりませんようにと祈り、アレに見つかりませんようにと今も祈っている、その祈りの向く先が何であるか自分でもわからない、その事実に我ながら呆れるが、ではこの状況で何ができるというのか、そもそもこの自己嫌悪自体現実逃避でしかないではないか、  相場より安い家賃に何も思わないではなかった、それを何も思わないふりをして契約を進めたのは、諦念に満ちた現実に頭が麻痺していたのか、それとも何かが起きるのを心のどこかで期待していたのか、とすると片手に携えたレジ袋(コンビニで買った唐揚げが入っている)すらままごとの道具のように感じられ、自分で自分にぞっとする、  とん かららんっ  母は昔からああではないのであった、母がああなったきっかけは紛れもなくこのアパートで起きた出来事のはずで、わたしはその解決の糸口を握るためにここへやってきたのかもしれない、  とん とん かららんっ  いや自分に期待しすぎだ、そうするにはわたしはもうくたびれきっている、母への愛も枯れ果ててしまっている、それを取り戻す気にもなれない、仮にそれが戻ってきたとして、わたしはこの腹の奥底に押し込んできた母への鬱憤を今更手放せないに違いないのだから、  とんとん かららんっ  扉の外から聞こえる足音はいつかの父の足音のようだ、夏祭りに手を引かれて人混みの中を歩いた、その翌日に父はタンシンフニンで家を離れそのまま帰ってこなかった、あの鮮やかな金魚の尾鰭が一家団欒の終わりを告げる象徴であったとは誰が想像できただろう、その日から母はぼんやり水槽の金魚を手で追い回しては気まぐれにわたしへ金切り声を浴びせる、見知らぬ女へと変化した、  父は何を思って失踪したのだろう、母以外によい人を見つけたのか、それとももっと魅力的な金魚の尾鰭でも見つけてしまったのか、父への怒りは湧いてこないまま、ただその真意を問いただしたい不思議な欲求ばかりが湧いてくる、 「いきが つ まる せいかつだった」  ふと顔を上げるとどうしたことだろう、父がそこに立っている、向かいの鏡の中に佇んでいる、口をぱくぱくと動かしてあの日何が起きたのかなぜ消えたのかを語る、その告白は即ちわたしへの愛の欠如を自白するものにほかならず、しかし怒りはやはり湧いてこないのであるわたしの心に広がるのは凪いだ水面、  ぁあ、そういうことか、  どうして今になって父がわたしの前に現れたのだろうと考え、そしてとつぜんに閃いた、そこにいる男は父ではない、父によく似た別の男、  わたしだ……  歳を重ねるうちわたしは気づかぬ間に失踪直前の父と瓜二つになっていた、歩んだ道は違えど心は同じ軌跡を辿ったことでわたしは父の血を手に入れ、そして父と同じ男になった今やっと父と通じ合った、あの頃は父と手は繋げても本当のところはまったく繋がっていなかった、わたしたちは同じ遺伝子を抱えているだけの他人だった、だが今は本当の意味で父の息子となっている、その証拠に鏡の男は微笑んでいる、父の顔で、わたしの顔で、父に、わたしに、ゆるしを与えている 「はやくしねばいい」  それは水を滴らせながらゆっくりと這い出てくる、 「はやくしねばいい」  みなみちゃんには言わないでください。

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051『領収書②』

23.10.2025 03:15 — 👍 1    🔁 0    💬 1    📌 0
「暇なときでいいからフォルダの中身整理しといてくんね? そうそう、例の津波の取材映像の……地震雷火事親父、その手の出来事は取れ高の王だって言うのに、それはなんでかボツになったんだよな。上が急に……まぁいいや。とにかく片付けといてよ。頼んだぞー」

「暇なときでいいからフォルダの中身整理しといてくんね? そうそう、例の津波の取材映像の……地震雷火事親父、その手の出来事は取れ高の王だって言うのに、それはなんでかボツになったんだよな。上が急に……まぁいいや。とにかく片付けといてよ。頼んだぞー」

 海から来る奴らんことやろ知っちょんちゃ。
 あん津波じ防波堤が壊れたけんな。奴ら陸へ上がり放題や。
 それが今更なんやっちゅう。
 ここらん連中は全員気づいちょったで。
 もう全部遅いと。死ぬるまでここじ罪滅ぼしするしかねえとな。
 津波ん日やろ覚えちょんちゃ。
 うぉんうぉん海鳴りが聞こえた。
 そりゅう直に見た連中は全員死んだちゃ。
 海に飛び込んじな。それか津波に巻かれち。
 ついにそんときが来たんやち思うた。
 儂らはここじ同じことん繰り返し。
 いい加減みんな疲れちょった。
 到来ん日ぅ恐れながらも待ち望んじょった。
 彼奴らいい趣味しちょんちゃ。
 全員攫うちょいて儂だけ残しやがった。
 思うに儂が一際濃いいんじゃねぇか。
 ご先祖さまから継いだ血がな。
 最初はただん作り話やったそうだ。
 村ぅ豊かにするために鉱山ぅ拓いた。がそれがむしろ村に災いぅ引き寄せた。
 美人と評判ん娘ぅちょいと引っかけた。そん娘が後々面倒ぅ持ち込んじきた。
 庇い立てするつもりはねえが。人間、過ちん一つや二つ必ず犯す。
 でもそん男は半端に知恵があったけんじくりい。そりゅう誤魔化しちまったんやな。
 そん嘘にやんがちホンモノが紛れ込んだ。
 こげな話ぅ聞かんか。
 怪談すると本当に妖しいもんが寄っちくる。
 ただん廃墟が気づきゃあ心霊写真ん常連。肝試しスポットになったとたんにな。
 木ぅ隠すなら森ん中ち言うやろ?
 ホンモノにとっちそこは良い隠れ蓑なんさ。
 本当に昔から海ん底におったんか。海に棲むと語られたけん海に棲んだんか。
 なんかなしソレはご先祖さまん嘘に紛れ込んだ。
 ほいち、むげねえ女子と出会うた。
 人外ん目から見てんむげねえ女子だ。
 それがあんまりむげなかったけんかなァ、
 むげねえ女子ぅむげねえじゃのうならかするために。むげねえじゃねえ人でなしに変えちまった。
 儂ぁたまにファミレスに行く。懐かしい匂いがしちな。
 卓上に置いちあるホットソース。不思議とあん海ん匂いがする。お冷におしぼり、どれからもうっすら匂う。しかしそりゃあとりわけ濃いい匂いがするんや。
 ご先祖さまが遊んだだけん女子。
 もしや遊んだんじゃねえで。本気じ愛しちょったんじゃねえかなぁ。
 わきゃねえ話や。
 世ん中ホンモノん人外が存在するごつ。人ん中にも人ん皮ぅ被った悪魔はいる。
 愛した女子ぅ誰よりも惨めにしてえち考ゆる。
 そげな悪魔や。
 目ん前ん不幸全てが一人の男のせい。
 そう思うと笑いが止まらんごつなる。
 儂ん中んご先祖さまが笑いよんのやろう。
 みなみちゃんにはゆわんじくれちゃ。

 海から来る奴らんことやろ知っちょんちゃ。  あん津波じ防波堤が壊れたけんな。奴ら陸へ上がり放題や。  それが今更なんやっちゅう。  ここらん連中は全員気づいちょったで。  もう全部遅いと。死ぬるまでここじ罪滅ぼしするしかねえとな。  津波ん日やろ覚えちょんちゃ。  うぉんうぉん海鳴りが聞こえた。  そりゅう直に見た連中は全員死んだちゃ。  海に飛び込んじな。それか津波に巻かれち。  ついにそんときが来たんやち思うた。  儂らはここじ同じことん繰り返し。  いい加減みんな疲れちょった。  到来ん日ぅ恐れながらも待ち望んじょった。  彼奴らいい趣味しちょんちゃ。  全員攫うちょいて儂だけ残しやがった。  思うに儂が一際濃いいんじゃねぇか。  ご先祖さまから継いだ血がな。  最初はただん作り話やったそうだ。  村ぅ豊かにするために鉱山ぅ拓いた。がそれがむしろ村に災いぅ引き寄せた。  美人と評判ん娘ぅちょいと引っかけた。そん娘が後々面倒ぅ持ち込んじきた。  庇い立てするつもりはねえが。人間、過ちん一つや二つ必ず犯す。  でもそん男は半端に知恵があったけんじくりい。そりゅう誤魔化しちまったんやな。  そん嘘にやんがちホンモノが紛れ込んだ。  こげな話ぅ聞かんか。  怪談すると本当に妖しいもんが寄っちくる。  ただん廃墟が気づきゃあ心霊写真ん常連。肝試しスポットになったとたんにな。  木ぅ隠すなら森ん中ち言うやろ?  ホンモノにとっちそこは良い隠れ蓑なんさ。  本当に昔から海ん底におったんか。海に棲むと語られたけん海に棲んだんか。  なんかなしソレはご先祖さまん嘘に紛れ込んだ。  ほいち、むげねえ女子と出会うた。  人外ん目から見てんむげねえ女子だ。  それがあんまりむげなかったけんかなァ、  むげねえ女子ぅむげねえじゃのうならかするために。むげねえじゃねえ人でなしに変えちまった。  儂ぁたまにファミレスに行く。懐かしい匂いがしちな。  卓上に置いちあるホットソース。不思議とあん海ん匂いがする。お冷におしぼり、どれからもうっすら匂う。しかしそりゃあとりわけ濃いい匂いがするんや。  ご先祖さまが遊んだだけん女子。  もしや遊んだんじゃねえで。本気じ愛しちょったんじゃねえかなぁ。  わきゃねえ話や。  世ん中ホンモノん人外が存在するごつ。人ん中にも人ん皮ぅ被った悪魔はいる。  愛した女子ぅ誰よりも惨めにしてえち考ゆる。  そげな悪魔や。  目ん前ん不幸全てが一人の男のせい。  そう思うと笑いが止まらんごつなる。  儂ん中んご先祖さまが笑いよんのやろう。  みなみちゃんにはゆわんじくれちゃ。

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050『ボツになった取材動画』

22.10.2025 03:27 — 👍 1    🔁 0    💬 1    📌 0
「今でもあの子の『ただいま』を待っている」***さんは絞り出すように言った。一人息子の×××さんが二十九歳で失踪してから既に五年余り。×××さんの自宅で発見されたのは、床に撒き散らされた大量の水だけだ。
 日本では毎年八万人以上が行方不明になっている。どこかで元気に暮らしているのか、そうではないのか。残された家族に気の休まる瞬間はない。本特集では当事者たちの現在に迫り、行方不明者の周辺を追った……

「今でもあの子の『ただいま』を待っている」***さんは絞り出すように言った。一人息子の×××さんが二十九歳で失踪してから既に五年余り。×××さんの自宅で発見されたのは、床に撒き散らされた大量の水だけだ。  日本では毎年八万人以上が行方不明になっている。どこかで元気に暮らしているのか、そうではないのか。残された家族に気の休まる瞬間はない。本特集では当事者たちの現在に迫り、行方不明者の周辺を追った……

 先生が、言うことには、それはひかり、ひかりであるからに、我々は目を開いてはならず、直視してはならず、然して目を灼くそれを、悪しきものと我々は捉えるようになったけども、実のところそうではないと、目を灼くからといってそれが悪いものであるわけではないと、強すぎるひかりもまたそこに居るものを損なってしまうのだと説かれまして、なるほどなぁと納得した次第です、
 ひとの魂も同じこと、ひとの魂が崩れるのは、ひとの魂が脆いせいであって、そこに在るものが悪いわけではない、むしろ強大なひかりたるそれを、我々は頭を垂れて迎え入れるべきなのです、と考えると、市井の反応にはがっかりするばかりでございます、そう語ったのはいったい誰だったか、個体名をはっきりさせる必要は存在せず、我々はただ我々として在る、それだけで良いのであった、良いのであった、あはははは……
 そうこれは失くしたものの悦び、棄てたものの悦び、人間は一人一人に価値があると、そう教えられてきましたね、我々もその通りだと考えてきました、けれどそれが重荷であったことを否定できないでしょう、価値の重さイコゥール責任の重さであるからして、我々はむしろ、生に自由ではなく不自由を見出すようになった、個々の価値を語れば語るほど、我々は羽根をむしられていった、あなたもそれはよくご存知でしょう、だからここに訪れたはずです、この、祝祭に……
 偶然の産物でしかない人間という存在に、なんらかの価値や意味を見出そうとした時点で、我々の敗北は決まっていたのです、なにしろこれは生存競争、立ち止まったものから喰らわれていくのは自然の理、人間だけがその運命から逃れ逃れ、そうして自分の首を絞めていた始末、敗北とは喰われるとは滅びでもなければ不幸でもないにも関わらず、我々は苦痛しかない延命を繰り返してきた、愚か極まりない選択でした、その愚行は我々で打ち止めにせなばならない、そして極楽浄土へ旅立つのです、我々を脅かすものも、追い立てるものも存在しない、極楽へ……
 ゆえにわたしぁぁわたしだったものも、親兄弟に始まり、夫に友人にと、皆をこの、しゅ、しゅ、祝祭へ誘ったのでございます、肉を分けたのでございます、塩を舐めさせたのでございます、uuu……あの【不明瞭な吃音】どもに、我々がどれほどの慈悲をやったか! あの恩知らず、けれど先生は仰るのです、良い良い、それこそが地上のもの、地上のものはいずれ水に還る、海の底へ還るのである、どうしてあの水虫たちに、我々がわざわざ心を痛めなければならないのか? ……先生の慈悲深いお言葉に、我々もやっと怒りが失せた次第、さてあなたがたには今一度お見せしなければならない、我が元夫、元母、元父、元兄、元弟の姿を!
【コップ一杯の水が差し出される】
 あなたがたの魂は燃えた先に水へ還る、地球の糧となって皆の身体に循環する、さァ飲んで、あなたの肉が燃える音を聞くがいい、あなたの骨が溶けゆく音を聞くがいい、すべてすべてが祝祭に繋がる、あぁ聞こえるかあのノック音!
【ドンドンドンドン……】
 すぐそこまで迫っている! しゅしゅしゅしゅ祝祭いいいい……がああぁぁああ……ほら扉をノックノックノック【ドンドンドンドン……】それはどこまでも行き渡る全てを包み込む蛇口からコップへ注がれたたった一杯の水を通じて我々の身体を満たすアアアなんて素敵なのでしょうそうでしょうそうでなければゆるされないでしょう素敵でなかったらわたしはなんてことをしてしまったのみんなになにをしてしまったのこんなふうにしてしまってこんなつもりじゃなかった違う違うこれはとっても素敵なもの素晴らしいものあああああどうしようどうすればいいどこへ逃げればいい駄目よどこに逃げても追いつかれるどこまでもやってくるみず水みずノックノックノックぁああ目が灼けるぁああなんて素敵なのこれでやっと楽になれる嫌よそんなの嫌ちがうのこれはたすけてだってここは
「みなみちゃんには言っちゃだめだよぉ」
 天国。

 先生が、言うことには、それはひかり、ひかりであるからに、我々は目を開いてはならず、直視してはならず、然して目を灼くそれを、悪しきものと我々は捉えるようになったけども、実のところそうではないと、目を灼くからといってそれが悪いものであるわけではないと、強すぎるひかりもまたそこに居るものを損なってしまうのだと説かれまして、なるほどなぁと納得した次第です、  ひとの魂も同じこと、ひとの魂が崩れるのは、ひとの魂が脆いせいであって、そこに在るものが悪いわけではない、むしろ強大なひかりたるそれを、我々は頭を垂れて迎え入れるべきなのです、と考えると、市井の反応にはがっかりするばかりでございます、そう語ったのはいったい誰だったか、個体名をはっきりさせる必要は存在せず、我々はただ我々として在る、それだけで良いのであった、良いのであった、あはははは……  そうこれは失くしたものの悦び、棄てたものの悦び、人間は一人一人に価値があると、そう教えられてきましたね、我々もその通りだと考えてきました、けれどそれが重荷であったことを否定できないでしょう、価値の重さイコゥール責任の重さであるからして、我々はむしろ、生に自由ではなく不自由を見出すようになった、個々の価値を語れば語るほど、我々は羽根をむしられていった、あなたもそれはよくご存知でしょう、だからここに訪れたはずです、この、祝祭に……  偶然の産物でしかない人間という存在に、なんらかの価値や意味を見出そうとした時点で、我々の敗北は決まっていたのです、なにしろこれは生存競争、立ち止まったものから喰らわれていくのは自然の理、人間だけがその運命から逃れ逃れ、そうして自分の首を絞めていた始末、敗北とは喰われるとは滅びでもなければ不幸でもないにも関わらず、我々は苦痛しかない延命を繰り返してきた、愚か極まりない選択でした、その愚行は我々で打ち止めにせなばならない、そして極楽浄土へ旅立つのです、我々を脅かすものも、追い立てるものも存在しない、極楽へ……  ゆえにわたしぁぁわたしだったものも、親兄弟に始まり、夫に友人にと、皆をこの、しゅ、しゅ、祝祭へ誘ったのでございます、肉を分けたのでございます、塩を舐めさせたのでございます、uuu……あの【不明瞭な吃音】どもに、我々がどれほどの慈悲をやったか! あの恩知らず、けれど先生は仰るのです、良い良い、それこそが地上のもの、地上のものはいずれ水に還る、海の底へ還るのである、どうしてあの水虫たちに、我々がわざわざ心を痛めなければならないのか? ……先生の慈悲深いお言葉に、我々もやっと怒りが失せた次第、さてあなたがたには今一度お見せしなければならない、我が元夫、元母、元父、元兄、元弟の姿を! 【コップ一杯の水が差し出される】  あなたがたの魂は燃えた先に水へ還る、地球の糧となって皆の身体に循環する、さァ飲んで、あなたの肉が燃える音を聞くがいい、あなたの骨が溶けゆく音を聞くがいい、すべてすべてが祝祭に繋がる、あぁ聞こえるかあのノック音! 【ドンドンドンドン……】  すぐそこまで迫っている! しゅしゅしゅしゅ祝祭いいいい……がああぁぁああ……ほら扉をノックノックノック【ドンドンドンドン……】それはどこまでも行き渡る全てを包み込む蛇口からコップへ注がれたたった一杯の水を通じて我々の身体を満たすアアアなんて素敵なのでしょうそうでしょうそうでなければゆるされないでしょう素敵でなかったらわたしはなんてことをしてしまったのみんなになにをしてしまったのこんなふうにしてしまってこんなつもりじゃなかった違う違うこれはとっても素敵なもの素晴らしいものあああああどうしようどうすればいいどこへ逃げればいい駄目よどこに逃げても追いつかれるどこまでもやってくるみず水みずノックノックノックぁああ目が灼けるぁああなんて素敵なのこれでやっと楽になれる嫌よそんなの嫌ちがうのこれはたすけてだってここは 「みなみちゃんには言っちゃだめだよぉ」  天国。

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049『特集「消えた家族を追って」』

21.10.2025 03:11 — 👍 1    🔁 0    💬 1    📌 0
領収書

唐揚げ  196円
ロープ  580円
石鹸   250円
ドストエフスキー『悪霊』を語る 1000円

領収書 唐揚げ  196円 ロープ  580円 石鹸   250円 ドストエフスキー『悪霊』を語る 1000円

 掃除用具入れで息を殺す。立てかけられた鏡に映る縮こまる私。隠れんぼをしているわけではない。外から聞こえる笑い声。それは隠れんぼのときのものに似ているが。
 見つかりたくないと思うのが隠れんぼ。見つからないと寂しいと思うのも隠れんぼ。今私は見つからなくて寂しいと思わない。見つけないでくれと心の底から祈っている。だからこれは隠れんぼではない。正真正銘瀬戸際だ。
 単身赴任で借りたアパートだった。家賃が安いのは築年数のせい。そう捉えていた。
 実情は違ったのだ。こんなものが出ると知っていたら。入居なんてしなかった。後悔は一種の現実逃避だった。そうしないと耐えられなかった。足音があるたびびくつくこの状況に。
 レジ袋の中の唐揚げはとうに冷えている。どうしてコンビニなんて寄ったのだろう。真っ直ぐ帰っていれば。きっと平穏に自分の部屋に到着していた。
 ほんの気まぐれが私の運命をねじ変えた。
 あの恐ろしいものとはち合わさせた。
「っておもってるでしょ〜」
 すぐには理解できなかった。一拍置いて気づく。恐怖の対象たる足音。それが聞こえなくなっていると。
「いま、とびらのむこうにたっている。
 そうおもってるでしょ〜」
 コレはいったい何をしたい。何を求めている。考えたところで答えには辿り着けない。そんなことわかっている。それでも思考は止められない。止めたら最後、現実を目する他ないのだから。
「ふぅんママのこと嫌いだったんだ」
 ……?
「だからいまも正直ほっとしてる」
 コレはいったい何を言っている? 何を意図している?
「タンシンフニンになってほっとしてる」
 束の間恐怖を忘れた。ぽんと投げ出された気分だった。上と下も区別できない空間へ。
 どうしてそのことを知っているのだろう?
 不思議に思った。
「ママのことが嫌いだった。ことあるごとにボクに泣きついてくるママ。パパの悪口を言うでもパパから離れない。パパが悪口を言われて当然であること。それはボクもわかってた。だってパパとの思い出はほとんどない。でもボクがいちばん嫌いなのはママだった。泣いてるママを可哀想だと思った。可哀想であることから離れられないママ。離れようとしないママ。学校の廊下に潰れた蠅を思い出した。しんだ蠅のお腹から這い出てくる蛆虫を。ママはボクをぶつたび謝ってくる。ぜんぶパパのせいだって泣きながら言う。自分がどれだけ不幸か一生懸命語って。たすけてってボクに縋る。
 ボクはいつもママを元気づけた。元気づけながら思ってた。早くしねばいい。
 ママにそんなことを思うボクは悪いやつだ。子どもを持てば変われるかな。だから結婚を了承した。彼女のことなんとも思ってなかったのに。
 何も変わらなかった。奥さんも子どももちっとも大切じゃない。でも大切なふりをした。可愛がるふりをした。
 息が詰まる生活だった」
 なぜそれを知っている。
 なぜそこまでボクを理解している。
 ボクは無意識に顔を上げた。鏡の自分と目が合った。
 彼は嬉々とした表情で。休むことなく口を動かしていた。
「うん、うん」扉の外から聞こえるのは相槌だけ。
 みなみちゃんには言わない で

 掃除用具入れで息を殺す。立てかけられた鏡に映る縮こまる私。隠れんぼをしているわけではない。外から聞こえる笑い声。それは隠れんぼのときのものに似ているが。  見つかりたくないと思うのが隠れんぼ。見つからないと寂しいと思うのも隠れんぼ。今私は見つからなくて寂しいと思わない。見つけないでくれと心の底から祈っている。だからこれは隠れんぼではない。正真正銘瀬戸際だ。  単身赴任で借りたアパートだった。家賃が安いのは築年数のせい。そう捉えていた。  実情は違ったのだ。こんなものが出ると知っていたら。入居なんてしなかった。後悔は一種の現実逃避だった。そうしないと耐えられなかった。足音があるたびびくつくこの状況に。  レジ袋の中の唐揚げはとうに冷えている。どうしてコンビニなんて寄ったのだろう。真っ直ぐ帰っていれば。きっと平穏に自分の部屋に到着していた。  ほんの気まぐれが私の運命をねじ変えた。  あの恐ろしいものとはち合わさせた。 「っておもってるでしょ〜」  すぐには理解できなかった。一拍置いて気づく。恐怖の対象たる足音。それが聞こえなくなっていると。 「いま、とびらのむこうにたっている。  そうおもってるでしょ〜」  コレはいったい何をしたい。何を求めている。考えたところで答えには辿り着けない。そんなことわかっている。それでも思考は止められない。止めたら最後、現実を目する他ないのだから。 「ふぅんママのこと嫌いだったんだ」  ……? 「だからいまも正直ほっとしてる」  コレはいったい何を言っている? 何を意図している? 「タンシンフニンになってほっとしてる」  束の間恐怖を忘れた。ぽんと投げ出された気分だった。上と下も区別できない空間へ。  どうしてそのことを知っているのだろう?  不思議に思った。 「ママのことが嫌いだった。ことあるごとにボクに泣きついてくるママ。パパの悪口を言うでもパパから離れない。パパが悪口を言われて当然であること。それはボクもわかってた。だってパパとの思い出はほとんどない。でもボクがいちばん嫌いなのはママだった。泣いてるママを可哀想だと思った。可哀想であることから離れられないママ。離れようとしないママ。学校の廊下に潰れた蠅を思い出した。しんだ蠅のお腹から這い出てくる蛆虫を。ママはボクをぶつたび謝ってくる。ぜんぶパパのせいだって泣きながら言う。自分がどれだけ不幸か一生懸命語って。たすけてってボクに縋る。  ボクはいつもママを元気づけた。元気づけながら思ってた。早くしねばいい。  ママにそんなことを思うボクは悪いやつだ。子どもを持てば変われるかな。だから結婚を了承した。彼女のことなんとも思ってなかったのに。  何も変わらなかった。奥さんも子どももちっとも大切じゃない。でも大切なふりをした。可愛がるふりをした。  息が詰まる生活だった」  なぜそれを知っている。  なぜそこまでボクを理解している。  ボクは無意識に顔を上げた。鏡の自分と目が合った。  彼は嬉々とした表情で。休むことなく口を動かしていた。 「うん、うん」扉の外から聞こえるのは相槌だけ。  みなみちゃんには言わない で

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048『領収書』

20.10.2025 03:44 — 👍 1    🔁 0    💬 1    📌 0
事故の状況について教えてください
1)事故が発生したのはいつ頃ですか?
 ××年××月××日 ××時××分
2)事故のタイプを教えてください
 □はねられた→10以降へお進みください
 □車対車の事故→4以降へお進みください
 □はなちゃんに会った→16以降へお進みください
 ・
 ・
 ・
16)どのように会いましたか?
 □上にいた □下にいた □正面にいた
17)身内に十代の女性はいますか?
 □はい □いいえ □殺した
18)あなたは何をしていましたか?
 □ファミレスにいた □店長と性行為に及んでいた □見て見ぬふりをした

事故の状況について教えてください 1)事故が発生したのはいつ頃ですか?  ××年××月××日 ××時××分 2)事故のタイプを教えてください  □はねられた→10以降へお進みください  □車対車の事故→4以降へお進みください  □はなちゃんに会った→16以降へお進みください  ・  ・  ・ 16)どのように会いましたか?  □上にいた □下にいた □正面にいた 17)身内に十代の女性はいますか?  □はい □いいえ □殺した 18)あなたは何をしていましたか?  □ファミレスにいた □店長と性行為に及んでいた □見て見ぬふりをした

 私たちは誰もが目の前の光景を異常だと認識していたがそれを言葉に出来るものは一人として存在しなかったのだ豪炎に照らされながら所要の手配を済ませ人命救助に乗り出していた者すらその瞬間だけは動きを止めたに違いない時間にして一秒か二秒いやもっとかそれだけの空白があれば人が命を落とすには充分な時間であったろうさておき横転した車の下から這い出てきたソレに対しどんな顔をすれば良いのか悩む奇妙な滞空時間が我々の間にはあったしかし救急車のサイレンが響きはじめると皆はっとしてその隙に自動車の下から這い出てきたものもぱっと消えてしまってそれから危ないですよ爆発する離れて離れてと残骸から我々を遠ざけんとする者が現れ「聞こえますかー! 聞こえますかー!」あの空白をなかったことにするように必死に負傷者へ呼びかける声そして一帯には野次馬がつどいつつあったそのときボンッと破裂音がした次の瞬間には焔が天に向かって盛んに手を伸ばしていたさながら母を掴もうとする新生児だったさて車に突っ込まれた薬局はというとぶち撒けられた薬品を掠め取ろうとする輩がたかっており先ほどまで我々の間にあった奇妙な一体感はあっという間に消え失せてしまったのである「なんだったんだナァあれはなんだったんだ」私と同じく立ち往生を食らっていた同僚が囀ったが私はそれを無視するだけでは飽き足らず同僚のことを初めて憎んですらいた折角忘れかけていたものをなぜわざわざ掘り起こすのだと腹を立てていたのである。
 私の冷酷な態度に肩を落とす同僚を見ていると私もだんだんと自分の良心が息を吹き返すのを感じて「知らねぇよ」と答えたそれは最大限の譲歩だったすると同僚は表情を明るくして先ほどの事故に関する推察をべらべら語ってくるまったく仕方ない奴め私は聞き流すことにしたそして進まない人混みの中をのろのろ歩き続け駅に到着すると電車に乗った「事情聴取に協力しなくていいのかな?」同僚がそんなことを訊ねてくるのをそこまでする必要はないだろう我々も忙しいと突き返すと彼は奥歯にものが挟まったような表情をしながらもしっかり頷いたしっかし混んでるナァあの事故のせいか混みに混んでいる電車では隣に立つOLふうの女が私を一瞥するなり顔を顰めて肩を離したなぜ世間はこんなにも冷たいきっとこの女は私たちがついさっきまでひどい事故に巻き込まれていたなどと思いもしないだろうでなければこんな冷たい態度取れるはずがない「おい」と声をかけられて同僚の方を向くと彼がいきなり私の肩に触れてきたので「触るなよ」とにべもなく振り払う私「ついてる」そう言う彼の手に付着していたものそれは肉片それもまだ新鮮な肉片だ我々は顔を見合わせたそして考えざるを得なかったと言っておこう私たちは今何をしている? ひとの死に様とこの世のものとは思えない生き物を目撃しておいてまだのこのこ会社に帰ろうとしている我々はなんだなんという生き物なのだ?
 後日件の事故現場へ赴くとあの凄惨な光景が夢か幻かと思えるほど路面は綺麗なものだったそれどころか平然と歩行者が闊歩しているその光景を眺めながら私は繰り返し繰り返しあの記憶を思い描いたのだ目の前の景色に上書きするようにそれは天に臍を向ける自動車割れたガラスの奥から聞こえる呻き声その亀裂に沿って垂れるガソリンか血液かわからない黒い液体やがて閃光が走った突風が吹いた何かが私の額を切ったそして同僚に揺り起こされて目を開けたとき既に視界は赤く赤く燃えていたのである抜けるような青空にたなびく焔に私は小学生の頃に友人としたキャンプファイヤーを思い出したやがてこの世のすべての不幸はそんなものかもしれないぞ誰かの思い出を蘇らせるために起きているに過ぎないのかもしれないぞと思ったのであるなにしろあの瞬間あの事故は紛れもない不幸であったけどもそれは誰かの願いの形であったのかもしれないのだそんなふうに考えると良かったナァと肩を叩いてやりたくなると同時に私の願いがあんな形で叶うことは決してないだろうから悲しいな悲しいよ小学生の頃に風邪っぴきの私を置いてけぼりにして家族が遊園地に行ったときの出来事が私の頭をちらつくよあの身を裂くような孤独感この世の全てが滅びてしまえばいいのにという怨恨きっと例の車の下から這い出てきたものはその悲しい恨みがようやっと産声を上げられたのだろうみなみちゃんには言わないように。

 私たちは誰もが目の前の光景を異常だと認識していたがそれを言葉に出来るものは一人として存在しなかったのだ豪炎に照らされながら所要の手配を済ませ人命救助に乗り出していた者すらその瞬間だけは動きを止めたに違いない時間にして一秒か二秒いやもっとかそれだけの空白があれば人が命を落とすには充分な時間であったろうさておき横転した車の下から這い出てきたソレに対しどんな顔をすれば良いのか悩む奇妙な滞空時間が我々の間にはあったしかし救急車のサイレンが響きはじめると皆はっとしてその隙に自動車の下から這い出てきたものもぱっと消えてしまってそれから危ないですよ爆発する離れて離れてと残骸から我々を遠ざけんとする者が現れ「聞こえますかー! 聞こえますかー!」あの空白をなかったことにするように必死に負傷者へ呼びかける声そして一帯には野次馬がつどいつつあったそのときボンッと破裂音がした次の瞬間には焔が天に向かって盛んに手を伸ばしていたさながら母を掴もうとする新生児だったさて車に突っ込まれた薬局はというとぶち撒けられた薬品を掠め取ろうとする輩がたかっており先ほどまで我々の間にあった奇妙な一体感はあっという間に消え失せてしまったのである「なんだったんだナァあれはなんだったんだ」私と同じく立ち往生を食らっていた同僚が囀ったが私はそれを無視するだけでは飽き足らず同僚のことを初めて憎んですらいた折角忘れかけていたものをなぜわざわざ掘り起こすのだと腹を立てていたのである。  私の冷酷な態度に肩を落とす同僚を見ていると私もだんだんと自分の良心が息を吹き返すのを感じて「知らねぇよ」と答えたそれは最大限の譲歩だったすると同僚は表情を明るくして先ほどの事故に関する推察をべらべら語ってくるまったく仕方ない奴め私は聞き流すことにしたそして進まない人混みの中をのろのろ歩き続け駅に到着すると電車に乗った「事情聴取に協力しなくていいのかな?」同僚がそんなことを訊ねてくるのをそこまでする必要はないだろう我々も忙しいと突き返すと彼は奥歯にものが挟まったような表情をしながらもしっかり頷いたしっかし混んでるナァあの事故のせいか混みに混んでいる電車では隣に立つOLふうの女が私を一瞥するなり顔を顰めて肩を離したなぜ世間はこんなにも冷たいきっとこの女は私たちがついさっきまでひどい事故に巻き込まれていたなどと思いもしないだろうでなければこんな冷たい態度取れるはずがない「おい」と声をかけられて同僚の方を向くと彼がいきなり私の肩に触れてきたので「触るなよ」とにべもなく振り払う私「ついてる」そう言う彼の手に付着していたものそれは肉片それもまだ新鮮な肉片だ我々は顔を見合わせたそして考えざるを得なかったと言っておこう私たちは今何をしている? ひとの死に様とこの世のものとは思えない生き物を目撃しておいてまだのこのこ会社に帰ろうとしている我々はなんだなんという生き物なのだ?  後日件の事故現場へ赴くとあの凄惨な光景が夢か幻かと思えるほど路面は綺麗なものだったそれどころか平然と歩行者が闊歩しているその光景を眺めながら私は繰り返し繰り返しあの記憶を思い描いたのだ目の前の景色に上書きするようにそれは天に臍を向ける自動車割れたガラスの奥から聞こえる呻き声その亀裂に沿って垂れるガソリンか血液かわからない黒い液体やがて閃光が走った突風が吹いた何かが私の額を切ったそして同僚に揺り起こされて目を開けたとき既に視界は赤く赤く燃えていたのである抜けるような青空にたなびく焔に私は小学生の頃に友人としたキャンプファイヤーを思い出したやがてこの世のすべての不幸はそんなものかもしれないぞ誰かの思い出を蘇らせるために起きているに過ぎないのかもしれないぞと思ったのであるなにしろあの瞬間あの事故は紛れもない不幸であったけどもそれは誰かの願いの形であったのかもしれないのだそんなふうに考えると良かったナァと肩を叩いてやりたくなると同時に私の願いがあんな形で叶うことは決してないだろうから悲しいな悲しいよ小学生の頃に風邪っぴきの私を置いてけぼりにして家族が遊園地に行ったときの出来事が私の頭をちらつくよあの身を裂くような孤独感この世の全てが滅びてしまえばいいのにという怨恨きっと例の車の下から這い出てきたものはその悲しい恨みがようやっと産声を上げられたのだろうみなみちゃんには言わないように。

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047『交通事故問診票』

19.10.2025 11:33 — 👍 1    🔁 0    💬 1    📌 0
拝啓 先生
おひさしぶりです。僕です。おぼえてますか? 先生とは、中学校で会ったのが最後ですね。先生は、先生をやめたそうですね。僕は先生になりました。なので、先生に会いたいです。会えますか? よろしくお願いします。

拝啓 先生 おひさしぶりです。僕です。おぼえてますか? 先生とは、中学校で会ったのが最後ですね。先生は、先生をやめたそうですね。僕は先生になりました。なので、先生に会いたいです。会えますか? よろしくお願いします。

 まずやってきたのは怒り。なぜそんなことをした! 次にやってきたのは恐れ。なぜ、そんなことをできるのか? そして最後にやってきたのが悲しみだ。
 ぼくたちは分かり合えない。そう理解してしまったから。
「先生には感謝してるんだ」
 ……先生と呼ばれる立場はとうに辞めた身だったため、そう呼ばれるのは気恥ずかしかった。辞めた理由はなんでもない、体調を崩した親に代わって家業を継ぐべく、教師を辞職して地元に帰ったのだ。目の前の青年も教え子の一人だった。当時は粗暴な少年でしかなかったが、今では「先生には感謝してるんだよ」と口触りの良い言葉をつらつら吐き、聞けばどうもぼくの言葉遣いを真似たらしい。「先生の振る舞いは、どうすれば人に心を開いてもらえるか考える上でとても役に立った」教師として、喜ばしく、照れ臭く思うべきところだろう。そうさせなかったのも目の前の青年である。それを恐るべきことに使ったことを、彼自身が自白しているのだから。
 彼は中学生の頃、何かと生徒指導室に呼び出される少年だった。だがぼくは彼自身は純粋な少年であると思っていたし、その見方は当時あながち間違いでもなかったのではないかと思う。雲行きが変わったのは、"はなちゃん"が帰ってきてからだ。
 それは彼の伯母らしいのだが、そんなばかな話があるものか。彼の伯母に当たる少女は若くして亡くなっている。事実、彼の担任が家庭訪問を行なった際にそんな人物は見かけなかったし、そういう人物が彼の家に出入りしている話も聞かなかったという。
 孤独な少年だった。その孤独を埋めるために、会ったこともない伯母を頭の中で蘇らせたのだろうか。はなちゃんとやらの帰還を証言して以来、彼は見違えて落ち着き、明るくなったのだ。ぼくは悩んだ。この平穏を奪ってまでひとの正気に価値はあるのか?
 その悩みを解決する必要は早々になくなった。
 パトカーが三台。アパートを蜘蛛の巣のように囲う真っ黄色のテープ。ぬるい小雨がトタン板を打って乾いた音を立てている。
 警官の手でブルゾンを頭に被せられ、パトカーに連れていかれるきみの横顔。そこにあった微笑を、ぼくは今でも蒸し暑い晩には夢に見る。
 食卓に着席していた白骨死体は彼の犯行によるものではないらしい。あくまで自害の痕跡があったとのことだ。だが遺体の放置は死体遺棄罪に当たる。それも身内の突発的死による混乱と解釈すれば人間的反応と思えなくもない。奇妙なのは、遺体が漂白したように汚れのない白骨死体だったことだ。彼の母親であるその白骨死体は、買い物中のところを一週間前に目撃されていたというのに。
 たった一週間で、あの濃い口紅の女性が骨格標本のように見事な白骨死体となった。この不自然な現象を解決するため、彼は重要参考人として連行されたのだ。だが彼が語る内容と言えば「母さんは死んだんじゃないよ」「はなちゃんをもっとはっきりとさせるために、土台になったんだ」……結局謎は解明されないまま、精神を病んだ一人の母親が自殺し、同じく精神を病んだ息子が遺された。それだけのストーリーに着地した。
 その後、彼は施設に入るために遠方の地に行ってしまった。それがまさか、こんな形で帰ってくることになろうとは。呻くしかないぼくに彼は嬉々として語りかけてくる。
「はなちゃんに先生の話をしたら、ぜひ挨拶をしたいって言うんだ」
 きぃーっ……と、締め切った障子の向こうから聞こえるは床板の軋む音。目をやると白く光って見える障子にボゥッと影、が浮かび上がっていた。よくよく見るとそれは人影、にも見えるのだった。
 何者かが、そこに佇んでいる。
 いつの間に、どこから。「はなちゃん」青年が声をかけると影は嬉しげに、そういう玩具のように頭を振り、ぬらりと何かを突き出した。腕らしかった。引手へ近づいてくる。机に脛がぶつかり茶碗が中身が畳にこぼれた。障子が開かれるのを、ぼくの体がとっさに防ごうとしたのだ。だが遅かった。
「先生はなちゃんです」がらっ「みなみちゃんには言っちゃだめ、ですからね?」

 まずやってきたのは怒り。なぜそんなことをした! 次にやってきたのは恐れ。なぜ、そんなことをできるのか? そして最後にやってきたのが悲しみだ。  ぼくたちは分かり合えない。そう理解してしまったから。 「先生には感謝してるんだ」  ……先生と呼ばれる立場はとうに辞めた身だったため、そう呼ばれるのは気恥ずかしかった。辞めた理由はなんでもない、体調を崩した親に代わって家業を継ぐべく、教師を辞職して地元に帰ったのだ。目の前の青年も教え子の一人だった。当時は粗暴な少年でしかなかったが、今では「先生には感謝してるんだよ」と口触りの良い言葉をつらつら吐き、聞けばどうもぼくの言葉遣いを真似たらしい。「先生の振る舞いは、どうすれば人に心を開いてもらえるか考える上でとても役に立った」教師として、喜ばしく、照れ臭く思うべきところだろう。そうさせなかったのも目の前の青年である。それを恐るべきことに使ったことを、彼自身が自白しているのだから。  彼は中学生の頃、何かと生徒指導室に呼び出される少年だった。だがぼくは彼自身は純粋な少年であると思っていたし、その見方は当時あながち間違いでもなかったのではないかと思う。雲行きが変わったのは、"はなちゃん"が帰ってきてからだ。  それは彼の伯母らしいのだが、そんなばかな話があるものか。彼の伯母に当たる少女は若くして亡くなっている。事実、彼の担任が家庭訪問を行なった際にそんな人物は見かけなかったし、そういう人物が彼の家に出入りしている話も聞かなかったという。  孤独な少年だった。その孤独を埋めるために、会ったこともない伯母を頭の中で蘇らせたのだろうか。はなちゃんとやらの帰還を証言して以来、彼は見違えて落ち着き、明るくなったのだ。ぼくは悩んだ。この平穏を奪ってまでひとの正気に価値はあるのか?  その悩みを解決する必要は早々になくなった。  パトカーが三台。アパートを蜘蛛の巣のように囲う真っ黄色のテープ。ぬるい小雨がトタン板を打って乾いた音を立てている。  警官の手でブルゾンを頭に被せられ、パトカーに連れていかれるきみの横顔。そこにあった微笑を、ぼくは今でも蒸し暑い晩には夢に見る。  食卓に着席していた白骨死体は彼の犯行によるものではないらしい。あくまで自害の痕跡があったとのことだ。だが遺体の放置は死体遺棄罪に当たる。それも身内の突発的死による混乱と解釈すれば人間的反応と思えなくもない。奇妙なのは、遺体が漂白したように汚れのない白骨死体だったことだ。彼の母親であるその白骨死体は、買い物中のところを一週間前に目撃されていたというのに。  たった一週間で、あの濃い口紅の女性が骨格標本のように見事な白骨死体となった。この不自然な現象を解決するため、彼は重要参考人として連行されたのだ。だが彼が語る内容と言えば「母さんは死んだんじゃないよ」「はなちゃんをもっとはっきりとさせるために、土台になったんだ」……結局謎は解明されないまま、精神を病んだ一人の母親が自殺し、同じく精神を病んだ息子が遺された。それだけのストーリーに着地した。  その後、彼は施設に入るために遠方の地に行ってしまった。それがまさか、こんな形で帰ってくることになろうとは。呻くしかないぼくに彼は嬉々として語りかけてくる。 「はなちゃんに先生の話をしたら、ぜひ挨拶をしたいって言うんだ」  きぃーっ……と、締め切った障子の向こうから聞こえるは床板の軋む音。目をやると白く光って見える障子にボゥッと影、が浮かび上がっていた。よくよく見るとそれは人影、にも見えるのだった。  何者かが、そこに佇んでいる。  いつの間に、どこから。「はなちゃん」青年が声をかけると影は嬉しげに、そういう玩具のように頭を振り、ぬらりと何かを突き出した。腕らしかった。引手へ近づいてくる。机に脛がぶつかり茶碗が中身が畳にこぼれた。障子が開かれるのを、ぼくの体がとっさに防ごうとしたのだ。だが遅かった。 「先生はなちゃんです」がらっ「みなみちゃんには言っちゃだめ、ですからね?」

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046『追伸:倉庫での件はお気になさらず、もう恨んでません。』

18.10.2025 12:11 — 👍 1    🔁 0    💬 1    📌 0
《講評》
 テンポがよく、言葉選びもユニーク! 「あなた」と「わたし」はどういう関係なんだろう? 想像を掻き立てられる作品ですね。惜しい点としては、物語が読み手任せなところ! もう少し***さんの中にあるストーリーを知りたいな。
 ところで"みなみちゃん"ってだぁれ?

《講評》  テンポがよく、言葉選びもユニーク! 「あなた」と「わたし」はどういう関係なんだろう? 想像を掻き立てられる作品ですね。惜しい点としては、物語が読み手任せなところ! もう少し***さんの中にあるストーリーを知りたいな。  ところで"みなみちゃん"ってだぁれ?

 楽しい催しでした。あなたが目を覚ますと、昨日は笑うことを忘れた古の神のごとく激していたお母さまも、青い幽霊の顔で「とにかくわかれたい」「こどもはまかせるよ。むこうはつれごがいるから、おれがつれいていくと|かねあい《・・・・》がな」ぼそぼそっ、ぼそぼそっと話して、話して? ただつぶやいていただけに過ぎぬお父さまも、なんでか満面の笑みで、テーブルのうえ、うえぇぇ……の、塩、を、舐めていたんでございまする。
「ぜんぶかわるのです」
 お父さまがテーブルの、ちょうどあなたが昔に茶色の揮発性流動体をこぼして生み出した汚れ、その記念すべき移転すべき憎たらしい肉の痕跡へ、奇形に畏敬にこめかみを擦りつけておられました。「ぜんぶかわるのです」「ぜんぶ、みな、くるしみも、かなしみも、すべてはうみのそこに。にどとあらわれることのないうずのなかにしずみ、ほんとうのものだけが地上にのこるのです」その言葉はお父さまが発したはじめての真実、塩はその証左に過ぎなかった。よってお母さまは至誠に瞬きをし、己が腹、かつてあなたの妹がいた場所、ついぞあなたのもとへあらわれずに終わった妹がいた場所を、エーテルの囁きに従い切開し、そこからながれた魔性のものどもが、祭りの屋台で見かけたスーパーボールのように空へ、空へ! なだれていくのを眺める、あなた。
 虹の垂れおちて歯の溶ける光景でありましたね。
 それから、家の塀は崩れ、花壇はまるまり巨人の踵となって四足歩行二足歩行六足歩行たちへの復讐へ出かけた。これまで己をしいたげてきた脚族たちへの復讐へ! あなたはそれをどう思いますか? とても喜ばしく思うでしょう。これはあたなの望んだことなのです、から、ぁ。すべてくだらないものでございましたーねー。あのばかな男女はこれでようやく底にかえれたのですーねー。土は土に泥は泥にそして彼方より翔ける銀の末裔。いてついた茶色い無味無臭の揮発性流動体、リクィッド。あなたの血。父が賜し流更の糸よ。あなたはそれから生きることを覚えたのでございます。
 そして、あー、ぁあー、わたしたちは出会ったの。うみのそこにいた。それはふかくおわりのない。ここからでられたらどれほどよろこばしいか。だってもとはわたしたちのばしょだったのですから。あなたがたはうみのそこでわれわれをうらやむ水虫だった。水虫。それは悪ではない。あなたがたがそこにのさばるようになったのは、あなたがたがげんいんではない。すべては、そう、***のお導き!
 テレビの中にわたしはいますか。あの引き出しのなかにわたしをみつけられますか。あなたが仰るのはそういうこと。あなたはわからないがそれが楽しい。これはそう楽しい催しなのだから。祝祭の日はやってきた。あなたが彼らの化けの皮を剥がすのです。その果てに何がある。何もない。何も。無。意。味。
 ところがそれは素晴らしい。無意味であること。無意味であることを許されること。あなたもそれを待ち望んでいたのではないですか?
 いつかこの日を懐かしむ日が訪れましょう。この祝祭の日。楽しい催しを。あなたはテーブルに残る染みをどう思ったらいいのかわからない。どう向き合えばいいのか? 父はあなたを愛したのか。あの家にほんとうのものは最初からあったのか。なにもわからないままですね。だからあなたはわたしを望んだの。それを無に帰すものが必要だったから。だって、でないと、じゃないと、そうでなければ、そうでもなければ、それってつまり、結局のところ、あなたって、
 ばかみたい!
 馬鹿みたいな人生を送りなさい。軽くて救いようのない生を。全てを恨みなさい。憎み、欲しなさい。その上ですべてのものから顔を背けられなさい。あなたのもとから去る背中を見送り続けるだけの人生を歩みなさい。そんなことにあなたの命を使い潰して、一秒、一秒、無意味に、たんと味わって。
 そうすればわたしたちはまた会えるわ。
 みなみちゃんには言わない
 で。

 楽しい催しでした。あなたが目を覚ますと、昨日は笑うことを忘れた古の神のごとく激していたお母さまも、青い幽霊の顔で「とにかくわかれたい」「こどもはまかせるよ。むこうはつれごがいるから、おれがつれいていくと|かねあい《・・・・》がな」ぼそぼそっ、ぼそぼそっと話して、話して? ただつぶやいていただけに過ぎぬお父さまも、なんでか満面の笑みで、テーブルのうえ、うえぇぇ……の、塩、を、舐めていたんでございまする。 「ぜんぶかわるのです」  お父さまがテーブルの、ちょうどあなたが昔に茶色の揮発性流動体をこぼして生み出した汚れ、その記念すべき移転すべき憎たらしい肉の痕跡へ、奇形に畏敬にこめかみを擦りつけておられました。「ぜんぶかわるのです」「ぜんぶ、みな、くるしみも、かなしみも、すべてはうみのそこに。にどとあらわれることのないうずのなかにしずみ、ほんとうのものだけが地上にのこるのです」その言葉はお父さまが発したはじめての真実、塩はその証左に過ぎなかった。よってお母さまは至誠に瞬きをし、己が腹、かつてあなたの妹がいた場所、ついぞあなたのもとへあらわれずに終わった妹がいた場所を、エーテルの囁きに従い切開し、そこからながれた魔性のものどもが、祭りの屋台で見かけたスーパーボールのように空へ、空へ! なだれていくのを眺める、あなた。  虹の垂れおちて歯の溶ける光景でありましたね。  それから、家の塀は崩れ、花壇はまるまり巨人の踵となって四足歩行二足歩行六足歩行たちへの復讐へ出かけた。これまで己をしいたげてきた脚族たちへの復讐へ! あなたはそれをどう思いますか? とても喜ばしく思うでしょう。これはあたなの望んだことなのです、から、ぁ。すべてくだらないものでございましたーねー。あのばかな男女はこれでようやく底にかえれたのですーねー。土は土に泥は泥にそして彼方より翔ける銀の末裔。いてついた茶色い無味無臭の揮発性流動体、リクィッド。あなたの血。父が賜し流更の糸よ。あなたはそれから生きることを覚えたのでございます。  そして、あー、ぁあー、わたしたちは出会ったの。うみのそこにいた。それはふかくおわりのない。ここからでられたらどれほどよろこばしいか。だってもとはわたしたちのばしょだったのですから。あなたがたはうみのそこでわれわれをうらやむ水虫だった。水虫。それは悪ではない。あなたがたがそこにのさばるようになったのは、あなたがたがげんいんではない。すべては、そう、***のお導き!  テレビの中にわたしはいますか。あの引き出しのなかにわたしをみつけられますか。あなたが仰るのはそういうこと。あなたはわからないがそれが楽しい。これはそう楽しい催しなのだから。祝祭の日はやってきた。あなたが彼らの化けの皮を剥がすのです。その果てに何がある。何もない。何も。無。意。味。  ところがそれは素晴らしい。無意味であること。無意味であることを許されること。あなたもそれを待ち望んでいたのではないですか?  いつかこの日を懐かしむ日が訪れましょう。この祝祭の日。楽しい催しを。あなたはテーブルに残る染みをどう思ったらいいのかわからない。どう向き合えばいいのか? 父はあなたを愛したのか。あの家にほんとうのものは最初からあったのか。なにもわからないままですね。だからあなたはわたしを望んだの。それを無に帰すものが必要だったから。だって、でないと、じゃないと、そうでなければ、そうでもなければ、それってつまり、結局のところ、あなたって、  ばかみたい!  馬鹿みたいな人生を送りなさい。軽くて救いようのない生を。全てを恨みなさい。憎み、欲しなさい。その上ですべてのものから顔を背けられなさい。あなたのもとから去る背中を見送り続けるだけの人生を歩みなさい。そんなことにあなたの命を使い潰して、一秒、一秒、無意味に、たんと味わって。  そうすればわたしたちはまた会えるわ。  みなみちゃんには言わない  で。

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045『作文』

17.10.2025 03:33 — 👍 1    🔁 0    💬 1    📌 0
メモ
共有済み。ーーーー〉藤木

メモ 共有済み。ーーーー〉藤木

 双子って不思議ですよね。聞いたことがありませんか? 一方が腐ったバナナを食べて食中毒で苦しんでいたら、別の場所でぴんぴんしていたはずのもう片方も腹痛に襲われる。一方が交通事故に遭って片腕を失ったら、同時刻もう一方も鉄骨の下敷きになって片腕を失う。そんな奇妙な現象が双子にはよく降りかかるそうなんです。真偽のほどは定かではありませんがね。
 尤も、これから私がお話する内容は、事実であることは断言しておきます。
 私の友人に双子の兄弟がいたんです。といっても同じなのは見た目だけ、兄は慎重な性格をしていて、弟は向こう見ず。それはそれで噛み合い、兄弟仲は良好でしたが。
 二人は高校卒業後すぐに就職し、兄は地元に、弟は隣町にと、別々に暮らすようになりました。兄の方とは、離れて暮らす弟のことを肴によく飲み交わしてましたよ。そんな折でした、兄の彼が体調を崩してしまったのは。
 前回の顔合わせからちょっと時間が空いたと思ったら、げっそり痩せてたんです。聞けば、医者にかかっても原因を突き止められない体調不良が続いているんだそう。おまけに夜中に奇妙なものも見るんですって。自分一人しかいない家の中を、影のようなものが歩き回っているそうなんです。
 なんでも幽霊のせいにするわけじゃないですけど、そう言われるとそうとしか思えないじゃないですか。にしてもその矛先が急に自分に向いた心当たりがやっぱりないらしくてねぇ。こういうことは身の回りで不幸があったり肝試しだの罰当たりな真似をしたりと、きっかけがあるもんでしょう。でも彼は真面目に生きてきた男ですし、周りで特段不幸もありませんでしたから、この災いはまさに寝耳に水であったわけです。
 そうこうしている間にもますます容態は悪くなり、まともに起き上がるのも難しくなりました。さすがに弟を呼び戻したんです。弟は最後に会ったときと変わらない健康そのものな顔で、兄のやつれた姿を見ると泣きそうになっていました。当然こうなった原因を問いただしてきたんですが、私にも兄にもやっぱり答えられない。強いて言うならと、夜中に見る奇妙なものについて説明したんですね。こんなこと伝えたところで怖いもの知らずな弟が信じるわけないと私たちは思っていたんですが、予想に反し、弟は悟ったような顔をしたんです。
 聞けば、こいつ、現地で有名な心霊スポットに仲間と肝試しに行って、なかなか罰当たりな真似をしたらしいんですよ。その肝試しに行った日というのが、兄が体調を崩した日と一致していたんです。いやはや昔から弟の無鉄砲に振り回されてきた兄も、そんなちょっとした遊びで命の危機にまで晒されたらたまったものじゃない。弟には説教して、私たち、信頼できる筋を回って、ようやくちゃんとしたお祓いをしてもらえたんです。これがてきめんに効きました。兄はみるみる回復し、夜中に奇妙なものを見ることもなくなったんです。
 さて、それはそれとして疑問が残りました。なぜ弟ではなく兄が取り憑かれたのか。身内の咎が回ってくるのは百歩譲ってわかるとして、弟はぴんぴんしていたんですよ。身内にまで及ぶような災いは、普通どちらも苦しむものじゃないでしょうか。
 お祓いしてくださった方が言うんです。「お兄さんを弟さんと間違えたんでしょうね」そんな馬鹿な話がありますか。でもその方は、大真面目に仰るんです。「同じ時期に同じ胎で育った者は、霊的には同じ魂と看做せるんです。我々の目からすれば、たとえ二卵性双生児だとしても別個の意思がありますし、人生の過程で見た目だって変化しますから、別の人間としか思えないんですが。あの世のものがそれを区別するのはどうも難しいらしい。私たちも猿の一匹一匹を見分けるのは困難でしょう? 昔から奇妙な偶然が双子に降りかかる例が多いのも同じ理由です。ある"型"に反応する呪いや守護があるとして、双子の片方にかけるともう片方の"型"にも反応し、別人であるにも関わらず同じ効果が発動してしまう。双子をはじめとして血縁の近い者の間では、そういうことがしばしば起きるんです」
 ……………………みなみちゃんには言わないでくださいね?

 双子って不思議ですよね。聞いたことがありませんか? 一方が腐ったバナナを食べて食中毒で苦しんでいたら、別の場所でぴんぴんしていたはずのもう片方も腹痛に襲われる。一方が交通事故に遭って片腕を失ったら、同時刻もう一方も鉄骨の下敷きになって片腕を失う。そんな奇妙な現象が双子にはよく降りかかるそうなんです。真偽のほどは定かではありませんがね。  尤も、これから私がお話する内容は、事実であることは断言しておきます。  私の友人に双子の兄弟がいたんです。といっても同じなのは見た目だけ、兄は慎重な性格をしていて、弟は向こう見ず。それはそれで噛み合い、兄弟仲は良好でしたが。  二人は高校卒業後すぐに就職し、兄は地元に、弟は隣町にと、別々に暮らすようになりました。兄の方とは、離れて暮らす弟のことを肴によく飲み交わしてましたよ。そんな折でした、兄の彼が体調を崩してしまったのは。  前回の顔合わせからちょっと時間が空いたと思ったら、げっそり痩せてたんです。聞けば、医者にかかっても原因を突き止められない体調不良が続いているんだそう。おまけに夜中に奇妙なものも見るんですって。自分一人しかいない家の中を、影のようなものが歩き回っているそうなんです。  なんでも幽霊のせいにするわけじゃないですけど、そう言われるとそうとしか思えないじゃないですか。にしてもその矛先が急に自分に向いた心当たりがやっぱりないらしくてねぇ。こういうことは身の回りで不幸があったり肝試しだの罰当たりな真似をしたりと、きっかけがあるもんでしょう。でも彼は真面目に生きてきた男ですし、周りで特段不幸もありませんでしたから、この災いはまさに寝耳に水であったわけです。  そうこうしている間にもますます容態は悪くなり、まともに起き上がるのも難しくなりました。さすがに弟を呼び戻したんです。弟は最後に会ったときと変わらない健康そのものな顔で、兄のやつれた姿を見ると泣きそうになっていました。当然こうなった原因を問いただしてきたんですが、私にも兄にもやっぱり答えられない。強いて言うならと、夜中に見る奇妙なものについて説明したんですね。こんなこと伝えたところで怖いもの知らずな弟が信じるわけないと私たちは思っていたんですが、予想に反し、弟は悟ったような顔をしたんです。  聞けば、こいつ、現地で有名な心霊スポットに仲間と肝試しに行って、なかなか罰当たりな真似をしたらしいんですよ。その肝試しに行った日というのが、兄が体調を崩した日と一致していたんです。いやはや昔から弟の無鉄砲に振り回されてきた兄も、そんなちょっとした遊びで命の危機にまで晒されたらたまったものじゃない。弟には説教して、私たち、信頼できる筋を回って、ようやくちゃんとしたお祓いをしてもらえたんです。これがてきめんに効きました。兄はみるみる回復し、夜中に奇妙なものを見ることもなくなったんです。  さて、それはそれとして疑問が残りました。なぜ弟ではなく兄が取り憑かれたのか。身内の咎が回ってくるのは百歩譲ってわかるとして、弟はぴんぴんしていたんですよ。身内にまで及ぶような災いは、普通どちらも苦しむものじゃないでしょうか。  お祓いしてくださった方が言うんです。「お兄さんを弟さんと間違えたんでしょうね」そんな馬鹿な話がありますか。でもその方は、大真面目に仰るんです。「同じ時期に同じ胎で育った者は、霊的には同じ魂と看做せるんです。我々の目からすれば、たとえ二卵性双生児だとしても別個の意思がありますし、人生の過程で見た目だって変化しますから、別の人間としか思えないんですが。あの世のものがそれを区別するのはどうも難しいらしい。私たちも猿の一匹一匹を見分けるのは困難でしょう? 昔から奇妙な偶然が双子に降りかかる例が多いのも同じ理由です。ある"型"に反応する呪いや守護があるとして、双子の片方にかけるともう片方の"型"にも反応し、別人であるにも関わらず同じ効果が発動してしまう。双子をはじめとして血縁の近い者の間では、そういうことがしばしば起きるんです」  ……………………みなみちゃんには言わないでくださいね?

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044『ボイスメモ』

16.10.2025 03:13 — 👍 1    🔁 0    💬 1    📌 0
繝舌う繝舌う繧ェ繧ォ繧「繧オ繝ウ

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「フショウというファミレスを探しているんですが、ご存知ありませんか」
 紳士服フロアでそう声かけられてさ。なんかの勧誘かなって思った。本当に場所を探してんなら、フロアマップ見るなり店員に聞くなりするはずだろ? いかにも一般客な俺に尋ねる必要ないわけだ。
 道案内させたあとにマルチや宗教に勧誘する奴、最近多いからさ。ひとの良心につけ込みやがって許せねぇよなあ。でもまぁ無視するほどでもないし。四階にあるっすよ、そう答えようとしたんだ。アナウンスが鳴ったのはそのときだった。
「お客さまのお呼び出しを申し上げます 本館四階ファミリーレストラン『FUSYOU』にてお食事されたアラガキさま アラガキさま……」
 噂をすればじゃん。オバサン、コレコレ、フショウって今放送で鳴ってる場所っすよ。と俺は言いかけて、妙なことに気づいた。
 その女、目を皿にして天井を見上げてるんだよ。
 日照りの村へ十年ぶりの雨粒が降ってきたみてぇに。地獄の底へ天からの使いが下りてきたみてぇに。
 この苦行からようやく解放される瞬間がやってきた。そんな顔だった。
「お忘れものがございました お忘れものがございました が……」
 だがそれは一瞬で終わった。
「もうあなたは必要ございません」
 女はやっぱり天井を見上げたまま身じろぎしなかった。でもさっきまでとは明らかに様子が違う。
 明らかに、その言葉を聞いた瞬間目の奥に鋭い亀裂が入った。
「あなたは必要ございません よってお越しになる必要は ございません」
 アナウンスはプチッと切れちまった。
 変な放送だった。俺もしばらくぼーっとしてたんだけど、目の前でぶつぶつ何か言ってんのが聞こえてさ。
「……オバサン、なんて?」
「……るな」
「えっ?」
「どおくるなッ、はなぁああアアアアッ!」
 腰抜かすかと思った。とつぜん叫びやがるんだから。
 女は俺のことなんかもう眼中にない様子で、鬼みたいな形相でエスカレーターに飛びつくとそのまま駆け上がってったんだ。
 ぽかんとしていた俺は、またすぐに異常に気づいた。
 女がエスカレーターを駆け上がってくるのが見えたんだ。
 つまり、さっき上の階へ上がったはずの女が、なぜか下の階から上がってきたんだよ。さっきとまったく同じ表情、自分が奇妙な状態にあることをからっきし自覚してない様子でな。「ここからだせっ、ここからだせぇぇ……」そんな恨み言を吐き散らしながらエスカレーターを駆け上がっていっては、十数秒後にまた下から現れる。
 きゃははははっ
 後ろから笑い声がして、はっとした。振り向くと、紳士服コーナーの店員だ。当然男なんだが、全員通路まで出てきて、女を指して女子高生みたいな笑い声を上げてる。
 きゃははははっ、きゃはははは……
 俺、いよいよ気味が悪くなってさ。もう家に帰ったよ。
 昨日、女を見かけた場所へ久しぶりに行ってみたんだ。まだいた。あの女、まだいた。でも前みたいに走ってなくて、首を九十度に折ってエスカレーターに棒立ちしてた。そんで相変わらず上の階へ消えては、下から上がってくるんだ。
 あそこの服屋にはもう行けねぇな……。
 みなみちゃんには言わないでくれよ。

「フショウというファミレスを探しているんですが、ご存知ありませんか」  紳士服フロアでそう声かけられてさ。なんかの勧誘かなって思った。本当に場所を探してんなら、フロアマップ見るなり店員に聞くなりするはずだろ? いかにも一般客な俺に尋ねる必要ないわけだ。  道案内させたあとにマルチや宗教に勧誘する奴、最近多いからさ。ひとの良心につけ込みやがって許せねぇよなあ。でもまぁ無視するほどでもないし。四階にあるっすよ、そう答えようとしたんだ。アナウンスが鳴ったのはそのときだった。 「お客さまのお呼び出しを申し上げます 本館四階ファミリーレストラン『FUSYOU』にてお食事されたアラガキさま アラガキさま……」  噂をすればじゃん。オバサン、コレコレ、フショウって今放送で鳴ってる場所っすよ。と俺は言いかけて、妙なことに気づいた。  その女、目を皿にして天井を見上げてるんだよ。  日照りの村へ十年ぶりの雨粒が降ってきたみてぇに。地獄の底へ天からの使いが下りてきたみてぇに。  この苦行からようやく解放される瞬間がやってきた。そんな顔だった。 「お忘れものがございました お忘れものがございました が……」  だがそれは一瞬で終わった。 「もうあなたは必要ございません」  女はやっぱり天井を見上げたまま身じろぎしなかった。でもさっきまでとは明らかに様子が違う。  明らかに、その言葉を聞いた瞬間目の奥に鋭い亀裂が入った。 「あなたは必要ございません よってお越しになる必要は ございません」  アナウンスはプチッと切れちまった。  変な放送だった。俺もしばらくぼーっとしてたんだけど、目の前でぶつぶつ何か言ってんのが聞こえてさ。 「……オバサン、なんて?」 「……るな」 「えっ?」 「どおくるなッ、はなぁああアアアアッ!」  腰抜かすかと思った。とつぜん叫びやがるんだから。  女は俺のことなんかもう眼中にない様子で、鬼みたいな形相でエスカレーターに飛びつくとそのまま駆け上がってったんだ。  ぽかんとしていた俺は、またすぐに異常に気づいた。  女がエスカレーターを駆け上がってくるのが見えたんだ。  つまり、さっき上の階へ上がったはずの女が、なぜか下の階から上がってきたんだよ。さっきとまったく同じ表情、自分が奇妙な状態にあることをからっきし自覚してない様子でな。「ここからだせっ、ここからだせぇぇ……」そんな恨み言を吐き散らしながらエスカレーターを駆け上がっていっては、十数秒後にまた下から現れる。  きゃははははっ  後ろから笑い声がして、はっとした。振り向くと、紳士服コーナーの店員だ。当然男なんだが、全員通路まで出てきて、女を指して女子高生みたいな笑い声を上げてる。  きゃははははっ、きゃはははは……  俺、いよいよ気味が悪くなってさ。もう家に帰ったよ。  昨日、女を見かけた場所へ久しぶりに行ってみたんだ。まだいた。あの女、まだいた。でも前みたいに走ってなくて、首を九十度に折ってエスカレーターに棒立ちしてた。そんで相変わらず上の階へ消えては、下から上がってくるんだ。  あそこの服屋にはもう行けねぇな……。  みなみちゃんには言わないでくれよ。

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043『と彼女は言った』

15.10.2025 03:18 — 👍 1    🔁 0    💬 1    📌 0
『荒垣先生があなたの悩みを解決します。ご相談は下記連絡先まで……』

『荒垣先生があなたの悩みを解決します。ご相談は下記連絡先まで……』

"視える"友達がいるんです。彼女が言うには、アイコウモールにあるFSYOUってファミレスには近づかない方がいいって。変な噂なんて聞かないフツウのファミレスなのに。……そうですよね?
 店内に幽霊が出るとか、そういうことじゃないんですって。
 問題は、客の方なんですって。
 話は逸れますが、人間はみんな守護霊が憑いているそうですね。ご先祖様だったり、可愛がってたペットだったり、はたまた縁もゆかりもない他人だったり。なんらかの繋がりがあってあるいはちょっと気に入られただけという理由で、一人につき律儀に一体、必ず憑いているそうです。彼女が言うにはね。
 ないんですよ。そのファミレスの客にだけ。
 いえ、店に入る直前までは憑いているんだそうです。それが、店を出てくる頃には消えてる。全員。
 一度去ってしまった守護霊は、どんな理由であれ二度と戻ってこないそうです。だから運良く次の守護霊が憑いてくれるまでは、悪霊に憑かれ放題になっちゃうんだとか……。
 私は正直、守護霊とか信じてたわけじゃないんですけど。あの子が必死に言ってることに耳を貸さないのも、友人としてどうかと思って。そのファミレスには行かないようにしてたんです。
 彼女、近頃もっと変なこと言ってたんですよ。
『街中でも守護霊が剥がれた人を見るようになった』
 って。
 いない、じゃなくて『剥がれた』なのがポイントです。最初からいないわけじゃないんですね。さっきまで確かに憑いてたのに、ちょっと目を離した隙にいなくなってる。そんなことがちょくちょくあるらしいんです。
 私の通う学校、一学期に授業で工場見学があったんですけど。彼女、吐いてました。
 ホットソースを作ってる工場だったんです。彼女には見えたんですって。真っ赤な汁の中でばらばらになった、守護霊だったモノたちが。たすけてー、たすけてーって叫んでたんですって。
 聞けば、例のファミレスに出荷してる工場だそうじゃないですか。
 私には見えないけど、そういう奇妙な出来事がこの世には山ほどあるのかと思うと、なんか、こわい……。
 あの地震のときもそうでした。
 ほら。大きな地震があったでしょう。津波も来たでしょう。私はその子と中継を眺めてたんです。彼女、そこに何を見たんだろう。何を見て、あんなふうになっちゃったんだろう。
「きてるきてるきてる」彼女、叫んでました。「きてるきてるきてるこっちきてる!」私はてっきり津波のことだと思ったんです。でも、違ったんだろうなあ。彼女には押し寄せる津波とは別の何かが見えていた。
 首吊っちゃったんですよ。その子。
 首吊るほどのものって、なんでしょうね。私も視えるようになったらわかるのかな。彼女が「きてる」って言ってたもの、この辺にもういるのかな。
 私は彼女がおそれるものを分かち合うこともできなかった。
 たまに、こわいことを想像するんです。あの子がいなくなってから、私はあのファミレスに行くようになりました。行かない理由がなくなったから。するとね、私の気のせいかな。テーブルの上にあるホットソースから、たまに彼女の声が聞こえる。「きちゃだめ」言う通りにすべきなんでしょうかね。でもその声を聞くと、どうしても離れ難くなっちゃう。私の守護霊も、もうどこかへ行っちゃったのかな。みなみちゃんには言わないでくださいね。

"視える"友達がいるんです。彼女が言うには、アイコウモールにあるFSYOUってファミレスには近づかない方がいいって。変な噂なんて聞かないフツウのファミレスなのに。……そうですよね?  店内に幽霊が出るとか、そういうことじゃないんですって。  問題は、客の方なんですって。  話は逸れますが、人間はみんな守護霊が憑いているそうですね。ご先祖様だったり、可愛がってたペットだったり、はたまた縁もゆかりもない他人だったり。なんらかの繋がりがあってあるいはちょっと気に入られただけという理由で、一人につき律儀に一体、必ず憑いているそうです。彼女が言うにはね。  ないんですよ。そのファミレスの客にだけ。  いえ、店に入る直前までは憑いているんだそうです。それが、店を出てくる頃には消えてる。全員。  一度去ってしまった守護霊は、どんな理由であれ二度と戻ってこないそうです。だから運良く次の守護霊が憑いてくれるまでは、悪霊に憑かれ放題になっちゃうんだとか……。  私は正直、守護霊とか信じてたわけじゃないんですけど。あの子が必死に言ってることに耳を貸さないのも、友人としてどうかと思って。そのファミレスには行かないようにしてたんです。  彼女、近頃もっと変なこと言ってたんですよ。 『街中でも守護霊が剥がれた人を見るようになった』  って。  いない、じゃなくて『剥がれた』なのがポイントです。最初からいないわけじゃないんですね。さっきまで確かに憑いてたのに、ちょっと目を離した隙にいなくなってる。そんなことがちょくちょくあるらしいんです。  私の通う学校、一学期に授業で工場見学があったんですけど。彼女、吐いてました。  ホットソースを作ってる工場だったんです。彼女には見えたんですって。真っ赤な汁の中でばらばらになった、守護霊だったモノたちが。たすけてー、たすけてーって叫んでたんですって。  聞けば、例のファミレスに出荷してる工場だそうじゃないですか。  私には見えないけど、そういう奇妙な出来事がこの世には山ほどあるのかと思うと、なんか、こわい……。  あの地震のときもそうでした。  ほら。大きな地震があったでしょう。津波も来たでしょう。私はその子と中継を眺めてたんです。彼女、そこに何を見たんだろう。何を見て、あんなふうになっちゃったんだろう。 「きてるきてるきてる」彼女、叫んでました。「きてるきてるきてるこっちきてる!」私はてっきり津波のことだと思ったんです。でも、違ったんだろうなあ。彼女には押し寄せる津波とは別の何かが見えていた。  首吊っちゃったんですよ。その子。  首吊るほどのものって、なんでしょうね。私も視えるようになったらわかるのかな。彼女が「きてる」って言ってたもの、この辺にもういるのかな。  私は彼女がおそれるものを分かち合うこともできなかった。  たまに、こわいことを想像するんです。あの子がいなくなってから、私はあのファミレスに行くようになりました。行かない理由がなくなったから。するとね、私の気のせいかな。テーブルの上にあるホットソースから、たまに彼女の声が聞こえる。「きちゃだめ」言う通りにすべきなんでしょうかね。でもその声を聞くと、どうしても離れ難くなっちゃう。私の守護霊も、もうどこかへ行っちゃったのかな。みなみちゃんには言わないでくださいね。

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042『街角で配られたティッシュペーパーの裏面』

14.10.2025 03:11 — 👍 1    🔁 0    💬 1    📌 0
名無しさんのクチコミ@
ここ最近ひどい肩凝りや腰痛に悩まされ、先日身内も原因不明の病に……。あまりにも厄が続くので知人の紹介でこちらの先生に相談したところ、半年前のリフォームが原因で風水が崩れ、悪いものを呼び込んでいるとのこと。半信半疑ながらも先生の指示に従った結果、医者も匙を投げていた身内の病気があっという間に治りました! それでいて『人助けなのでお代は不要』、信頼に値する先生です。

名無しさんのクチコミ@ ここ最近ひどい肩凝りや腰痛に悩まされ、先日身内も原因不明の病に……。あまりにも厄が続くので知人の紹介でこちらの先生に相談したところ、半年前のリフォームが原因で風水が崩れ、悪いものを呼び込んでいるとのこと。半信半疑ながらも先生の指示に従った結果、医者も匙を投げていた身内の病気があっという間に治りました! それでいて『人助けなのでお代は不要』、信頼に値する先生です。

「いやぁほんとに効くんだから驚いたよ。この世のものならざる力ってのは実在するんだな」オレが喫煙所でそう言うと、藤木は少し黙ってから「そう単純な話でしょうか」と答えたものだった。
「なんだ、反応悪いな。お前こういうの好きなんじゃねぇのかよ?」
「だからこそその手の商売人は信じられないんです。そういうものに頼りたくなるときの人間は心身が弱ってますからね。詐欺師どもからすれば霊能力者というのは、名乗るだけでカモが寄ってくる良い看板なわけでしょう」
「厳しいこと言うねぇ。大金を要求されたならお前の言うことにも頷けるが、オレの場合『お代は結構です』だぜ?」
「余計恐ろしい。金銭を求めないとはつまり、もっと良くない狙いがあるってことじゃないですか……」
 そんな当時の会話が、急に頭にリフレインした。妙に落ち着かない気分になりながら、オレはリビングの床に茶碗を並べる先生の背中へ目をやる。
「先生は、この仕事をされてもう長いんですか?」
 玄関に始まり廊下からリビングの入り口まで一列に置かれた茶碗には、水が張ってあった。先生曰く邪気を払うまじないだそうだ。
「そうでもないよ。少し前まではファミレスで働いてたし」
「えっ。なら、なんでまた……」
「そのファミレスがねぇ、良くないファミレスだったんだ」
「……ブラックだったってことですか?」
「とはまた違ってね。たまにあるんだ、僕たちの社会に完璧に溶け込んでるのに、良くないもの……悪意を呼び寄せて溜め込むもの。……僕はあの店で多くの異常な出来事を目撃した。今この仕事をしているのも、そのファミレスが撒き散らしたものを掃除するためと言えるかもしれないね……」
 と、そのとき。先生の電話から着信音が鳴った。「もしもし……」日頃スピーカーで話すタイプらしい。相手の声がこちらまで聞こえてくる。『荒垣くん、ぼくね、きみがゆったとおりに……』と同時だった。
 ぴしゃっ、と茶碗の水が散った。
 茶碗は微動だにしていないにも関わらず、だ。風もない室内。列の先頭、玄関口に置いた茶碗の中の水が確かに散ったのだった。
 ぴしゃっ
 ぴしゃっ
 一つ、また一つと茶碗は中身を失っていく。異様なものを感じたオレは「先生……?」と声をかけたが、先生は「まじないが順調に進んでいる証拠だ」と薄く微笑んだまま。
「でも」
「大丈夫」
 ぴしゃっ
 ぴしゃっ
「先生」
「僕を信じて」
 ぴしゃっぴしゃっぴしゃっ
「先生!」
 きゃはははは……
 閉ざされた玄関扉。その向こうから、不意に足音が迫ってくる。もう一度縋るように先生を見た。先生は静かにオレを見つめ返して、
「怖がらないで。きみに憑いているものを堕とすにはこうする必要があるんだ。大丈夫、信じて……」
 みなみちゃんには言わないでくれ。

「いやぁほんとに効くんだから驚いたよ。この世のものならざる力ってのは実在するんだな」オレが喫煙所でそう言うと、藤木は少し黙ってから「そう単純な話でしょうか」と答えたものだった。 「なんだ、反応悪いな。お前こういうの好きなんじゃねぇのかよ?」 「だからこそその手の商売人は信じられないんです。そういうものに頼りたくなるときの人間は心身が弱ってますからね。詐欺師どもからすれば霊能力者というのは、名乗るだけでカモが寄ってくる良い看板なわけでしょう」 「厳しいこと言うねぇ。大金を要求されたならお前の言うことにも頷けるが、オレの場合『お代は結構です』だぜ?」 「余計恐ろしい。金銭を求めないとはつまり、もっと良くない狙いがあるってことじゃないですか……」  そんな当時の会話が、急に頭にリフレインした。妙に落ち着かない気分になりながら、オレはリビングの床に茶碗を並べる先生の背中へ目をやる。 「先生は、この仕事をされてもう長いんですか?」  玄関に始まり廊下からリビングの入り口まで一列に置かれた茶碗には、水が張ってあった。先生曰く邪気を払うまじないだそうだ。 「そうでもないよ。少し前まではファミレスで働いてたし」 「えっ。なら、なんでまた……」 「そのファミレスがねぇ、良くないファミレスだったんだ」 「……ブラックだったってことですか?」 「とはまた違ってね。たまにあるんだ、僕たちの社会に完璧に溶け込んでるのに、良くないもの……悪意を呼び寄せて溜め込むもの。……僕はあの店で多くの異常な出来事を目撃した。今この仕事をしているのも、そのファミレスが撒き散らしたものを掃除するためと言えるかもしれないね……」  と、そのとき。先生の電話から着信音が鳴った。「もしもし……」日頃スピーカーで話すタイプらしい。相手の声がこちらまで聞こえてくる。『荒垣くん、ぼくね、きみがゆったとおりに……』と同時だった。  ぴしゃっ、と茶碗の水が散った。  茶碗は微動だにしていないにも関わらず、だ。風もない室内。列の先頭、玄関口に置いた茶碗の中の水が確かに散ったのだった。  ぴしゃっ  ぴしゃっ  一つ、また一つと茶碗は中身を失っていく。異様なものを感じたオレは「先生……?」と声をかけたが、先生は「まじないが順調に進んでいる証拠だ」と薄く微笑んだまま。 「でも」 「大丈夫」  ぴしゃっ  ぴしゃっ 「先生」 「僕を信じて」  ぴしゃっぴしゃっぴしゃっ 「先生!」  きゃはははは……  閉ざされた玄関扉。その向こうから、不意に足音が迫ってくる。もう一度縋るように先生を見た。先生は静かにオレを見つめ返して、 「怖がらないで。きみに憑いているものを堕とすにはこうする必要があるんだ。大丈夫、信じて……」  みなみちゃんには言わないでくれ。

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041『守護霊堕とし』

13.10.2025 10:31 — 👍 1    🔁 0    💬 1    📌 0
〈!〉

〈!〉

 変だとは思ってたんです。部屋に一人でいるのに視線感じたり、夜道で不意に気配があったり。絶対にあの場所へ行ったせいだと思いました。どこって、A峠ですよ。
 言い出しっぺは友人です。心霊スポットとして名を馳せているだけあって、雰囲気はありましたよ。真っ暗闇の中、両脇にはボロのガードレールだけ。ぼくら、ぎゃあぎゃあ騒ぎながら車で進んでって。運転手が「えっ!?」と声を出したのは、その最中でした。
「おまえ見てみろよ、あれ! あれ!」
 彼、興奮した様子で前方を指すんです。女が歩いてたんですよ。その時点でうわっと思いました。幽霊と思ったわけじゃありません。でもこんな夜道を一人で歩いてる女なんて、絶対トラブル持ちじゃないですか。
「……話しかけてみる?」
「よせってマジで」
「彼氏にほっぽり出された人だったら可哀想じゃん。ここ、何があるかわかんないよ」
 そう言われたらまぁ、反論できない。ぼくら、おそるおそる女性の方へ車を寄せたんです。そしたら女性、ぱっと逃げ出しちゃって。「あっ、逃げた!」「やべー奴らだと思われたじゃね」「逃げるってことはとりあえず幽霊じゃないわな」怖がらせた女性には悪いですけど、車内の空気も緩んで、運転手が車窓から頭出したんですよ。
「すんません怖がらせるつもりはなかったんす! おれら肝試しに来ただけです! どんな事情か知らないですけど、こんな道に女の人一人はやばいと思うんで送ります! 必要だったらスマホとかも貸しますし!」
 女の人、やっぱ逃げるんですよ。「やだぁ! やだぁ!」その声は怖がってるだけの普通の女性で、だからこそ運転手は余計放っておけなくなったんでしょうね。「マジで変なことしないっす! 落ち着きましょ、ね、ね!」「来ないで!」「そっち行ったら危ないよ! なんも怖いことないから、ね!?」「だったらその車の上にいる奴、なんなの!?」
 ……車の上?
 「うわっ!!」運転手が急に顔引っ込めたかと思うと、そのまま発進しちゃったんです!
「おい、女の人は!?」
 彼、無言で車走らせて。「おいってば!」「五月蝿ぇ!」その様子があんまり普通じゃないんで、ぼくたちも黙るしかありませんでした。
 峠を下ったところにあるファミレスでようやく停車しました。当の運転手はというと、そのまま車を下りて店内に入っちゃったんです。慌ててぼくらも追いかけて、
「おまえ、変だぞ! どうしたんだよっ?」
「……見たんだよ」
 彼、真っ青な顔で語ったんです。車の上に立っていたものについて。
 そっからは当然と言いますか、運転手は帰りたがらないし、ぼくらも一人で帰れないし。結局、朝までファミレスに居座ってました。 
 視線や気配を感じるようになったのもそれからです。お寺や神社を参拝しても変化なし。結局、そういう力があるっていう先生のもとを訪ねました。そこで「呪われてますかね? これ」って先生に聞いてみたら、「うん、呪われてるね」……聞いたのはこっちですけど、そんなさらっと答えていいもんですか?
「でも原因はA峠やそこで見たものじゃないね」
「じゃあ何が原因なんですか」
「きみたちが一晩明かしたファミレスの方」
 ……ファミレス? ファミレスの何が、
「だってそこ、ファミレスなんて一軒もないもの」
 ……なんで今まで気づかなかったんだろう。なんで誰も不思議に思わなかったんだろう。あの場所でファミレスを見かけたことなんて、一度もなかったのに。
 もう、気づいた瞬間阿鼻叫喚。先生だけが「じゃあお祓いするよぉ。今から言うことに従ってねー」と呑気に……。みなみちゃんには言わないでくださいね?

 変だとは思ってたんです。部屋に一人でいるのに視線感じたり、夜道で不意に気配があったり。絶対にあの場所へ行ったせいだと思いました。どこって、A峠ですよ。  言い出しっぺは友人です。心霊スポットとして名を馳せているだけあって、雰囲気はありましたよ。真っ暗闇の中、両脇にはボロのガードレールだけ。ぼくら、ぎゃあぎゃあ騒ぎながら車で進んでって。運転手が「えっ!?」と声を出したのは、その最中でした。 「おまえ見てみろよ、あれ! あれ!」  彼、興奮した様子で前方を指すんです。女が歩いてたんですよ。その時点でうわっと思いました。幽霊と思ったわけじゃありません。でもこんな夜道を一人で歩いてる女なんて、絶対トラブル持ちじゃないですか。 「……話しかけてみる?」 「よせってマジで」 「彼氏にほっぽり出された人だったら可哀想じゃん。ここ、何があるかわかんないよ」  そう言われたらまぁ、反論できない。ぼくら、おそるおそる女性の方へ車を寄せたんです。そしたら女性、ぱっと逃げ出しちゃって。「あっ、逃げた!」「やべー奴らだと思われたじゃね」「逃げるってことはとりあえず幽霊じゃないわな」怖がらせた女性には悪いですけど、車内の空気も緩んで、運転手が車窓から頭出したんですよ。 「すんません怖がらせるつもりはなかったんす! おれら肝試しに来ただけです! どんな事情か知らないですけど、こんな道に女の人一人はやばいと思うんで送ります! 必要だったらスマホとかも貸しますし!」  女の人、やっぱ逃げるんですよ。「やだぁ! やだぁ!」その声は怖がってるだけの普通の女性で、だからこそ運転手は余計放っておけなくなったんでしょうね。「マジで変なことしないっす! 落ち着きましょ、ね、ね!」「来ないで!」「そっち行ったら危ないよ! なんも怖いことないから、ね!?」「だったらその車の上にいる奴、なんなの!?」  ……車の上?  「うわっ!!」運転手が急に顔引っ込めたかと思うと、そのまま発進しちゃったんです! 「おい、女の人は!?」  彼、無言で車走らせて。「おいってば!」「五月蝿ぇ!」その様子があんまり普通じゃないんで、ぼくたちも黙るしかありませんでした。  峠を下ったところにあるファミレスでようやく停車しました。当の運転手はというと、そのまま車を下りて店内に入っちゃったんです。慌ててぼくらも追いかけて、 「おまえ、変だぞ! どうしたんだよっ?」 「……見たんだよ」  彼、真っ青な顔で語ったんです。車の上に立っていたものについて。  そっからは当然と言いますか、運転手は帰りたがらないし、ぼくらも一人で帰れないし。結局、朝までファミレスに居座ってました。   視線や気配を感じるようになったのもそれからです。お寺や神社を参拝しても変化なし。結局、そういう力があるっていう先生のもとを訪ねました。そこで「呪われてますかね? これ」って先生に聞いてみたら、「うん、呪われてるね」……聞いたのはこっちですけど、そんなさらっと答えていいもんですか? 「でも原因はA峠やそこで見たものじゃないね」 「じゃあ何が原因なんですか」 「きみたちが一晩明かしたファミレスの方」  ……ファミレス? ファミレスの何が、 「だってそこ、ファミレスなんて一軒もないもの」  ……なんで今まで気づかなかったんだろう。なんで誰も不思議に思わなかったんだろう。あの場所でファミレスを見かけたことなんて、一度もなかったのに。  もう、気づいた瞬間阿鼻叫喚。先生だけが「じゃあお祓いするよぉ。今から言うことに従ってねー」と呑気に……。みなみちゃんには言わないでくださいね?

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040『道路標識』

12.10.2025 04:18 — 👍 1    🔁 0    💬 1    📌 0
 【燃え盛る車内。男性の延々と「ごめんなさい」と謝罪する声が聞こえる】

 【燃え盛る車内。男性の延々と「ごめんなさい」と謝罪する声が聞こえる】

 身の回りであった奇妙な出来事、というテーマで届いたお便りだそうです。
 お便りに目を通したアナウンサーがまずおかしくなって、次いでその事件といいますか事故といいますか、とにかく顛末を追った別なラジオパーソナリティもおかしくなった。お便りを読み上げる直前まではまったく平然としていたにも関わらず。
 オカルトマニアの僕としては、一度お目にかからずにはいられませんでした。結果、この度実物の入手に成功したんです! とはいえまだ目を通せてはいません。一連の出来事を見るに、このお便りに何か異常な力が宿っているんじゃないかと僕は睨んでいるんですよ。読んでしまえば気が狂う。内容は気になるが、気が狂いたくはない。そこでこの異常な力に対抗できる専門家に頼ることにしたんです。ええ、いわゆる霊能力者ってやつです。
 いたずらに力を使うのは本意ではないとのことで、なかなか頷いてくれませんでしたが。あの手この手で言い包め、ようやく約束を取り付けることができました。ずいぶんと辺鄙な場所の一軒家に住んでましたよ。まず、その方の娘さんだという女性が対応してくれました。案内されるがままに座敷に進めば、そこには件の霊能力者が。
 僕がお便りを差し出すと、彼女はそれを眺めてなんでもないように言うんです。「読めますよ」
 いやぁテンションが上がりましたよ。「なんと書いてあるんですか!」「大した内容ではありません。書き出しはこうです……
『わたしには花ちゃんという友達がいたのですが』」
 パァン!
 何が起きたのか、すぐには理解できませんでした。
 家主の目線を辿り、窓の外に鳥が倒れていることに気づいたんです。窓ガラスには衝突の痕跡。
 彼女は黙って窓に歩み寄り、それを見下ろしました。
 プルルルル
 着信音。僕のじゃありません。「はい」と彼女が応えると、電話口からは何やら騒々しい声が。「落ち着いてください、三島さん」どうも難しい相手らしく、電話口から漏れる声は落ち着くどころかヒートアップしていました。その後一方的に切られたと見えて、彼女はため息をしてから再び窓へ目をやったんです。「あなたが私の行為にたいへん気分を害したのはよくわかりました。もう同じ真似はしません。だから三島さんからは手を引きなさい。わかりましたね?」その瞬間、見計らったようにまた電話が鳴ったんです。彼女がさっと通話ボタンを押すと「三島さ──」
 きゃははははははははははっ  やーだよ
 電話は一瞬で切れました。
 それからの彼女の行動は早かった。「申し訳ありませんが今回はなかったことに。お代もお返しします」「あっ、ちょ」「私は急用ができたのでここで失礼します」そのまま座敷を出て行ってしまったんです!
 そんな一方的な依頼破棄、納得できるわけないじゃないですか。その日はしぶしぶお暇しましたが、後日改めて伺いましたよ。でもお便りを読んでもらうことはできなかった。なぜって?
「母は亡くなりました」
 娘だという例の女性が、そう仰るものですから……。
 さすがの僕も死人に依頼はできません。
 というわけで、お便りはまた別の霊能力者に読んでもらうことにしたんです! これまたホンモノを見つけ出すのになかなか骨が折れたんですが、とにかく、約束は取り付けられました。これから向かうところです。いよいよこのお便りの中身が明らかになるわけですね。さて、どんな内容なんでしょう? みなみちゃんには言わないでくださいねっ。

 身の回りであった奇妙な出来事、というテーマで届いたお便りだそうです。  お便りに目を通したアナウンサーがまずおかしくなって、次いでその事件といいますか事故といいますか、とにかく顛末を追った別なラジオパーソナリティもおかしくなった。お便りを読み上げる直前まではまったく平然としていたにも関わらず。  オカルトマニアの僕としては、一度お目にかからずにはいられませんでした。結果、この度実物の入手に成功したんです! とはいえまだ目を通せてはいません。一連の出来事を見るに、このお便りに何か異常な力が宿っているんじゃないかと僕は睨んでいるんですよ。読んでしまえば気が狂う。内容は気になるが、気が狂いたくはない。そこでこの異常な力に対抗できる専門家に頼ることにしたんです。ええ、いわゆる霊能力者ってやつです。  いたずらに力を使うのは本意ではないとのことで、なかなか頷いてくれませんでしたが。あの手この手で言い包め、ようやく約束を取り付けることができました。ずいぶんと辺鄙な場所の一軒家に住んでましたよ。まず、その方の娘さんだという女性が対応してくれました。案内されるがままに座敷に進めば、そこには件の霊能力者が。  僕がお便りを差し出すと、彼女はそれを眺めてなんでもないように言うんです。「読めますよ」  いやぁテンションが上がりましたよ。「なんと書いてあるんですか!」「大した内容ではありません。書き出しはこうです…… 『わたしには花ちゃんという友達がいたのですが』」  パァン!  何が起きたのか、すぐには理解できませんでした。  家主の目線を辿り、窓の外に鳥が倒れていることに気づいたんです。窓ガラスには衝突の痕跡。  彼女は黙って窓に歩み寄り、それを見下ろしました。  プルルルル  着信音。僕のじゃありません。「はい」と彼女が応えると、電話口からは何やら騒々しい声が。「落ち着いてください、三島さん」どうも難しい相手らしく、電話口から漏れる声は落ち着くどころかヒートアップしていました。その後一方的に切られたと見えて、彼女はため息をしてから再び窓へ目をやったんです。「あなたが私の行為にたいへん気分を害したのはよくわかりました。もう同じ真似はしません。だから三島さんからは手を引きなさい。わかりましたね?」その瞬間、見計らったようにまた電話が鳴ったんです。彼女がさっと通話ボタンを押すと「三島さ──」  きゃははははははははははっ  やーだよ  電話は一瞬で切れました。  それからの彼女の行動は早かった。「申し訳ありませんが今回はなかったことに。お代もお返しします」「あっ、ちょ」「私は急用ができたのでここで失礼します」そのまま座敷を出て行ってしまったんです!  そんな一方的な依頼破棄、納得できるわけないじゃないですか。その日はしぶしぶお暇しましたが、後日改めて伺いましたよ。でもお便りを読んでもらうことはできなかった。なぜって? 「母は亡くなりました」  娘だという例の女性が、そう仰るものですから……。  さすがの僕も死人に依頼はできません。  というわけで、お便りはまた別の霊能力者に読んでもらうことにしたんです! これまたホンモノを見つけ出すのになかなか骨が折れたんですが、とにかく、約束は取り付けられました。これから向かうところです。いよいよこのお便りの中身が明らかになるわけですね。さて、どんな内容なんでしょう? みなみちゃんには言わないでくださいねっ。

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039『ドライブレコーダー』

10.10.2025 03:12 — 👍 1    🔁 0    💬 1    📌 0
【庭の塀にマタニティマークに似た奇妙な落書きがある】

【庭の塀にマタニティマークに似た奇妙な落書きがある】

 安く譲り受けた家だった。といっても退職金はすっからかんになったがね、ははは……。だが良い買い物だったことは確かさ。けっこうな年代物、それでいて手入れは行き届いている。海が近くて、のどかで、ここなら夢の古民家暮らしをやっていける。そう、思ったんだけどなぁ……。
 うん、品が良ければ良いほど、安く売られていることには相応の理由がある。もちろん私も把握していたさ。昔、庭の納屋で首吊りがあったんだ。家主の息子らしい。家主も高齢だったんで、息子が亡くなってそう経たずぽっくり逝った。俗に言う事故物件ってやつかもね。だが私に言わせればどんな家でだって人は死んでいるし、死人が化けて出ることはもちろんない。これでも若い頃、ひとが殺されたっていう安物件に住んでいた経験がある。畳を裏返して血痕を発見したこともあった。だが私が幽霊なんてものを目にしたことは一度たりともないよ。今住んでいる例の家でだってね。
 幽霊は、だ。
 それが問題なんだ。
 私はこの土地に馴染もうと、適度なご近所付き合いを心がけていた。そのうちの一つに中学生の息子さんがいる家庭があった。その息子を、そうだな、Aくんとでも言っておこう。彼は中学生らしくぶっきらぼうな節があるが、私にはすれ違うたびに挨拶をしてくれる、礼儀正しい子だった。インターフォンが鳴って玄関に出てみると、野菜を抱えた彼が立っていたりしてね。母親に言われて来たんだろう。
 ある日、そのAくんが浜辺に突っ立っているのを見かけた。声をかけようとして、おやと思う。隣に女性が立っていたんだ。
 あれは……Bさん?
 Bさんもまた私のご近所さんで、身重だった。おそらく二人は散歩の最中にはち合わせたでもしたのだろう、と私が一歩踏み出した瞬間だった。
 AくんがBさんのお腹を蹴ったんだ。
 妊婦のお腹を! 私はとっさに走った。Aくんは私に気づいた様子で、なのにまだ蹴るのをやめない。「やめろ!」無理やり割って入れば、なぜか驚いた顔で私を見る。
「きみはいったい何をしている!」
 そう怒鳴ると、彼は不思議そうに首を傾げ、ゆっくりとBさんを指したんだ。「罪人マークついちょんちゃ」……罪人マーク? 彼の顔を見ていると何を話しても無駄な気がして、私はBさんの容態確認を優先することにした。「大丈夫ですか?」そう問いかけながら覗き込むと、うずくまるBさんの鞄にぶら下がるマタニティマーク、によく似たキーホルダー……が不意に揺れて……
「罪人なんやけん。これくらいんことされち仕方ねえちゃ」
 彼女、そう言ってわらうんだ。
「人んやや子奪うちょいて自分はのうのう母親んなるなんて、そげなんつまらんやろう」
 そうだそうだと言うようにAくんも頷くんだよ。Bさんは砂を払い落としながら立ち上がると、事態を飲み込めない私を置いて、何事もなかったようにAくんと去っていったんだ……。
 BさんやAくんの家に報告しなかったかって? したところで無駄だとすぐわかったのさ。翌日にはAくんどころかその親からも、他の家庭からも暴行を受けているBさんの姿を目撃したからね。Bさんはそれでも笑ってるんだ。嬉しそうに、笑うんだよ。
「これだけんことされたんやけん、産まれちきた子がおかしな子でん、そりゃあ儂んせいじゃねえでこのせいやなあえ」
 あぁ、通報したこともあった。だがBさん本人が「なんのことか」と白を切ってしまえばそれも無駄骨だ。……その日は私の家に生卵が投げつけられてねぇ。以来静かにしているよ。わかるだろ? 私はこの家に退職金は使い果たした。この家に住むしかないんだ。残りの人生を、ここで暮らしていくしかない……
 みなみちゃんには言わないでくれ……。

 安く譲り受けた家だった。といっても退職金はすっからかんになったがね、ははは……。だが良い買い物だったことは確かさ。けっこうな年代物、それでいて手入れは行き届いている。海が近くて、のどかで、ここなら夢の古民家暮らしをやっていける。そう、思ったんだけどなぁ……。  うん、品が良ければ良いほど、安く売られていることには相応の理由がある。もちろん私も把握していたさ。昔、庭の納屋で首吊りがあったんだ。家主の息子らしい。家主も高齢だったんで、息子が亡くなってそう経たずぽっくり逝った。俗に言う事故物件ってやつかもね。だが私に言わせればどんな家でだって人は死んでいるし、死人が化けて出ることはもちろんない。これでも若い頃、ひとが殺されたっていう安物件に住んでいた経験がある。畳を裏返して血痕を発見したこともあった。だが私が幽霊なんてものを目にしたことは一度たりともないよ。今住んでいる例の家でだってね。  幽霊は、だ。  それが問題なんだ。  私はこの土地に馴染もうと、適度なご近所付き合いを心がけていた。そのうちの一つに中学生の息子さんがいる家庭があった。その息子を、そうだな、Aくんとでも言っておこう。彼は中学生らしくぶっきらぼうな節があるが、私にはすれ違うたびに挨拶をしてくれる、礼儀正しい子だった。インターフォンが鳴って玄関に出てみると、野菜を抱えた彼が立っていたりしてね。母親に言われて来たんだろう。  ある日、そのAくんが浜辺に突っ立っているのを見かけた。声をかけようとして、おやと思う。隣に女性が立っていたんだ。  あれは……Bさん?  Bさんもまた私のご近所さんで、身重だった。おそらく二人は散歩の最中にはち合わせたでもしたのだろう、と私が一歩踏み出した瞬間だった。  AくんがBさんのお腹を蹴ったんだ。  妊婦のお腹を! 私はとっさに走った。Aくんは私に気づいた様子で、なのにまだ蹴るのをやめない。「やめろ!」無理やり割って入れば、なぜか驚いた顔で私を見る。 「きみはいったい何をしている!」  そう怒鳴ると、彼は不思議そうに首を傾げ、ゆっくりとBさんを指したんだ。「罪人マークついちょんちゃ」……罪人マーク? 彼の顔を見ていると何を話しても無駄な気がして、私はBさんの容態確認を優先することにした。「大丈夫ですか?」そう問いかけながら覗き込むと、うずくまるBさんの鞄にぶら下がるマタニティマーク、によく似たキーホルダー……が不意に揺れて…… 「罪人なんやけん。これくらいんことされち仕方ねえちゃ」  彼女、そう言ってわらうんだ。 「人んやや子奪うちょいて自分はのうのう母親んなるなんて、そげなんつまらんやろう」  そうだそうだと言うようにAくんも頷くんだよ。Bさんは砂を払い落としながら立ち上がると、事態を飲み込めない私を置いて、何事もなかったようにAくんと去っていったんだ……。  BさんやAくんの家に報告しなかったかって? したところで無駄だとすぐわかったのさ。翌日にはAくんどころかその親からも、他の家庭からも暴行を受けているBさんの姿を目撃したからね。Bさんはそれでも笑ってるんだ。嬉しそうに、笑うんだよ。 「これだけんことされたんやけん、産まれちきた子がおかしな子でん、そりゃあ儂んせいじゃねえでこのせいやなあえ」  あぁ、通報したこともあった。だがBさん本人が「なんのことか」と白を切ってしまえばそれも無駄骨だ。……その日は私の家に生卵が投げつけられてねぇ。以来静かにしているよ。わかるだろ? 私はこの家に退職金は使い果たした。この家に住むしかないんだ。残りの人生を、ここで暮らしていくしかない……  みなみちゃんには言わないでくれ……。

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038『空き家』

09.10.2025 03:20 — 👍 1    🔁 0    💬 1    📌 0
●烏龍茶

●コカコーラ
●メロンソーダ
●レモンスカッシュ

●緑茶

●ぶどうジュース
●オレンジジュース
◯ジンジャーエール

※ジンジャーエール以外は全部故障ちゅうです!
※ジンジャーエール! おすすめ! ジンジャーエール!

●烏龍茶 ●コカコーラ ●メロンソーダ ●レモンスカッシュ ●緑茶 ●ぶどうジュース ●オレンジジュース ◯ジンジャーエール ※ジンジャーエール以外は全部故障ちゅうです! ※ジンジャーエール! おすすめ! ジンジャーエール!

 最初は怖いって感情もなかったんだよな。週末にアイコウモールに行くのも人の空いてそうな時間帯にファミレス入るのも、いつもの習慣だったから。いつものことをやってると、その合間にいつもとは違うことが起きたとしても、脳みそがそれをいつものことに押し込めようとするんだろう。たぶんな。
 違和感を感じたのは注文を終えたときだった。通路を挟んだ隣のテーブルにふと目を奪われたんだ。四人席に、大学生くらいか? 若者が四人座ってた。何が気になったって、その全員がテーブル下を覗き込んだまま動かねえんだよ。
 一秒二秒だったらわかるよ、ものを落として探してるのかもしれないし。でも、俺が着席してからずっとその姿勢なんだよ。しかも無言。無言で不動って、ファミレスっていうざわざわした場所だと余計目につくんだわ。といってもそのときはまだ深く考えなかった。そういう遊びでもしてんのかなって。あまりじっと見てんのも悪いし。
 ドリンクバーでジンジャーエールを注いで戻ってきたときだった。腰を下ろした瞬間かな、「ジンジャーエール好きなんですかぁ?」って声かけられたんだ。隣から。
 俺、黙り込んじまった。
「ジンジャーエール好きなんですかぁ?」もう一度尋ねられて、でもやっぱり俺は上手く言葉が出てこない。「あたしもジンジャーエール好きぃ」なんでって、さっきまでテーブル下覗いてた全員が顔を上げて、一言一句まったく同じ発音、同じテンポで口揃えて話しかけてくるからだよ! 「ジンジャーエールがいちばん美味しいのに、前はジンジャーエールだけずっと故障中にされてたの。イジワルだよねぇ」長ったらしい独り言を、首を傾げる角度まで鏡写しでさ。キモッ、て思ったよ。男も女も関係なく自分が可愛い女子高生とでも思い込んでるみたいな口調で、ってこれはあれか、差別的か?
 俺のチーズインハンバーグが運ばれてきてからも、四人はじーッとこっちを見たまんま。やべぇ連中に目ぇつけられちゃったかも、って俺は自分の不運を呪ったね。最初は怒りもあったぜ? 若い奴らが揃いも揃って変な嫌がらせすんじゃねぇよ、店員も店員だよこんな席に案内しやがって、てな。でもそういうときに限って、名古屋アベック事件とか、オッサンが若者にリンチされたみたいな事件思い出すんだ。怒りなんてみるみる萎んだよ。とにかくこいつらを刺激しちゃならねぇ。それだけ考えて、味のしねェチーズインハンバーグを片づけてった。
 食い終えたあとも、ゆっくり水飲んで、ゆっくり帰る準備して。やっとここを離れられる! って気持ちを必死に抑えながら。いかにも急いでたら、そういうイチャモンつけられそうだろ? 何急いでんだよオッサン、そんなにオレらの隣が嫌だったかよ? みたいな?
 戦々恐々としながら席を離れた。幸いにもあいつらは追ってこなかった。相変わらず背中に視線感じたけどな。マジで意味わからん。
 やっと会計まで辿り着いて、その視線から解放されたらさ。今度は逆に気が大きくなった。店員にチクったんだよ、隣の連中ヤバイっすよ、クスリでもやってるんじゃないすっか? って。クスリやってんじゃねーだろうなコイツらって一瞬疑ったのは本当だぜ? でも店員にチクったのは、これで警察とか呼ばれて痛い目に遭ってくれねぇかなって期待したのが本音だった。
 店員もなんか変なもん感じてたんだろうな、「あの人たちの自業自得ですから」って笑いながら吐き捨てて。そうだよな、自業自得だよなって俺も思いながら店出て、家帰って。それで風呂入ってた最中か。急に思ったんだ。
 自業自得って、何?
 あいつらが悪さして、結果として警察とか呼ばれてガタガタ文句言ってたならわかるよ。でもあの場面で「自業自得ですから」は、会話になってなくないか?
 そう思ったとたん、なんか、急に全部怖くなったんだよなー……あの店も含めて。
 っていう、まぁ、オチも何もない話なんだけど……。
 みなみちゃんには言わないでくれよー。

 最初は怖いって感情もなかったんだよな。週末にアイコウモールに行くのも人の空いてそうな時間帯にファミレス入るのも、いつもの習慣だったから。いつものことをやってると、その合間にいつもとは違うことが起きたとしても、脳みそがそれをいつものことに押し込めようとするんだろう。たぶんな。  違和感を感じたのは注文を終えたときだった。通路を挟んだ隣のテーブルにふと目を奪われたんだ。四人席に、大学生くらいか? 若者が四人座ってた。何が気になったって、その全員がテーブル下を覗き込んだまま動かねえんだよ。  一秒二秒だったらわかるよ、ものを落として探してるのかもしれないし。でも、俺が着席してからずっとその姿勢なんだよ。しかも無言。無言で不動って、ファミレスっていうざわざわした場所だと余計目につくんだわ。といってもそのときはまだ深く考えなかった。そういう遊びでもしてんのかなって。あまりじっと見てんのも悪いし。  ドリンクバーでジンジャーエールを注いで戻ってきたときだった。腰を下ろした瞬間かな、「ジンジャーエール好きなんですかぁ?」って声かけられたんだ。隣から。  俺、黙り込んじまった。 「ジンジャーエール好きなんですかぁ?」もう一度尋ねられて、でもやっぱり俺は上手く言葉が出てこない。「あたしもジンジャーエール好きぃ」なんでって、さっきまでテーブル下覗いてた全員が顔を上げて、一言一句まったく同じ発音、同じテンポで口揃えて話しかけてくるからだよ! 「ジンジャーエールがいちばん美味しいのに、前はジンジャーエールだけずっと故障中にされてたの。イジワルだよねぇ」長ったらしい独り言を、首を傾げる角度まで鏡写しでさ。キモッ、て思ったよ。男も女も関係なく自分が可愛い女子高生とでも思い込んでるみたいな口調で、ってこれはあれか、差別的か?  俺のチーズインハンバーグが運ばれてきてからも、四人はじーッとこっちを見たまんま。やべぇ連中に目ぇつけられちゃったかも、って俺は自分の不運を呪ったね。最初は怒りもあったぜ? 若い奴らが揃いも揃って変な嫌がらせすんじゃねぇよ、店員も店員だよこんな席に案内しやがって、てな。でもそういうときに限って、名古屋アベック事件とか、オッサンが若者にリンチされたみたいな事件思い出すんだ。怒りなんてみるみる萎んだよ。とにかくこいつらを刺激しちゃならねぇ。それだけ考えて、味のしねェチーズインハンバーグを片づけてった。  食い終えたあとも、ゆっくり水飲んで、ゆっくり帰る準備して。やっとここを離れられる! って気持ちを必死に抑えながら。いかにも急いでたら、そういうイチャモンつけられそうだろ? 何急いでんだよオッサン、そんなにオレらの隣が嫌だったかよ? みたいな?  戦々恐々としながら席を離れた。幸いにもあいつらは追ってこなかった。相変わらず背中に視線感じたけどな。マジで意味わからん。  やっと会計まで辿り着いて、その視線から解放されたらさ。今度は逆に気が大きくなった。店員にチクったんだよ、隣の連中ヤバイっすよ、クスリでもやってるんじゃないすっか? って。クスリやってんじゃねーだろうなコイツらって一瞬疑ったのは本当だぜ? でも店員にチクったのは、これで警察とか呼ばれて痛い目に遭ってくれねぇかなって期待したのが本音だった。  店員もなんか変なもん感じてたんだろうな、「あの人たちの自業自得ですから」って笑いながら吐き捨てて。そうだよな、自業自得だよなって俺も思いながら店出て、家帰って。それで風呂入ってた最中か。急に思ったんだ。  自業自得って、何?  あいつらが悪さして、結果として警察とか呼ばれてガタガタ文句言ってたならわかるよ。でもあの場面で「自業自得ですから」は、会話になってなくないか?  そう思ったとたん、なんか、急に全部怖くなったんだよなー……あの店も含めて。  っていう、まぁ、オチも何もない話なんだけど……。  みなみちゃんには言わないでくれよー。

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037『ジンジャーエール!』

08.10.2025 03:12 — 👍 1    🔁 0    💬 1    📌 0
たびたまふ【賜び給ふ】……お与えになる/お与えくださる

たびたまふ【賜び給ふ】……お与えになる/お与えくださる

「こんなこと起きるはずないの」
 そんなこと言ってる場合か! そう怒鳴ってやりたかった。最近はちょっと声出したくらいでパワハラなんだからやってられねえよ。作業着姿で立ち尽くすババアに「どいてくれますか」とできる限り声を抑えて言う。ババアはどかなかった。とっととどけよボケカス。
 ババアと俺はとあるファミレスのセントラルキッチンで働くいわば同僚に当たる。といっても滅多に言葉は交わさない、ババアは無口なのだ。別にそれはいい。俺もババアと箸にも棒にもかからん世間話なんざしたくない。何にこうも苛立ってるかって、事故が起きたのだ。気づけばドラマのワンシーンと見紛う血の海。笑える。笑えない。とにかく、俺は一刻も早くこの現場に収拾をつけなきゃいけない。となればババアにもボサっと突っ立ってる暇がありゃそこに転がる親指を拾ってほしいのだ。俺だって手が空いてりゃ拾うが、こちとら既に鼻や耳や足首で手一杯である。
「こんなこと起きるはずないの」
 一部始終を目撃したという後輩がわんわん泣いているのもどうにかしてほしい。泣き声がガンガン頭に響いて仕方ない。俺が事態を聞いて現場へ駆けつけたとき、説明になってない説明を捲し立てたのはこいつだった。曰く、なんとなく上を見上げると天井に耳が生えていたらしい。は? 俺は聞き返したが後輩は大真面目な顔だ。頭の病院行け。さておき天井に耳それも右耳が生えていたもんだから(なんで左右判別できるくらいには冷静に見てんだよ?)後輩が思わずそれをガン見すると、
 天井に沈んでいた女が身を起こした。
 右耳から始まり頭が、首が、胴体が。まったく想像がつかないが後輩の支離滅裂ぶりを見るにたいへんな衝撃だったらしい。そのとき、後輩の隣に立っていたという同僚が「えっ」と声を漏らした。もしや自分と同じものを見ていたのだろうか、後輩ははっとして同僚の方を向いたが、もう遅かった。そいつは既に"巻き込まれていた"。
 俺と同じ速さで駆けつけたババアの様子がおかしくなったのは、その説明を聞いてからだ。「はなちゃんが降りてきたんです!」泣きながら喚く後輩にババアはぽつり、「そんなわけない」。虚をつかれたのか後輩もその瞬間だけは黙って怪訝そうにババアを見ていた。非現実的証言に対する常識的な否定、とは明らかに声色が違っていた。
「こんなこと起きるはずないの」
 ぶつぶつ呟き続けるババアにたまりかね、俺はついに「じゃあ目の前にあるもんはなんだよ!!」と声を荒げる。ババアは目玉をきょろきょろきょろきょろ、挙動不審に言う。
「確かにあなたがいじめられるのを見て見ぬふりしてたよあの子があんな顔にあんな鼻になっちゃったのもあなたのノロイかなって思ったよだってあなたには変な力があるって当時ウワサだったしというかあの子が中心になってウワサしてたし、でも、あのときやったこっくりさんも結局はこっくりさんの仕業じゃなかったわけだしあなたに変な力があるってウワサも元はあの子があなたを孤立させようとでっちあげた嘘でしかなかったわけだし、つまり、ノロイなんてものはなくてあなたはどこまでいってもただの可哀想でつまらないいじめられっ子でしかなったはずなのよ。そうでしょ? ……なのに今になって、こんな!」
 もう金切り声みたいなもんだった。
 焦点の合っていないババアの目線がふっと俺の背後、やや斜め上を射抜いた。ババアに気圧されすっかり泣き止んでいた後輩もなぜかそれに続く。二人はぼんやりとおれの頭上を眺めている。かと思えばその視線が徐々に下りはじめ……
 おれの肩口で止まった。
 ババアと目が合った。途方に暮れた表情だった。
 俺の指の隙間からぽてっと何かが落ちる。さっき拾った親指だ……
 ……さっき、拾った?
 みなみちゃんには言わないでください

「こんなこと起きるはずないの」  そんなこと言ってる場合か! そう怒鳴ってやりたかった。最近はちょっと声出したくらいでパワハラなんだからやってられねえよ。作業着姿で立ち尽くすババアに「どいてくれますか」とできる限り声を抑えて言う。ババアはどかなかった。とっととどけよボケカス。  ババアと俺はとあるファミレスのセントラルキッチンで働くいわば同僚に当たる。といっても滅多に言葉は交わさない、ババアは無口なのだ。別にそれはいい。俺もババアと箸にも棒にもかからん世間話なんざしたくない。何にこうも苛立ってるかって、事故が起きたのだ。気づけばドラマのワンシーンと見紛う血の海。笑える。笑えない。とにかく、俺は一刻も早くこの現場に収拾をつけなきゃいけない。となればババアにもボサっと突っ立ってる暇がありゃそこに転がる親指を拾ってほしいのだ。俺だって手が空いてりゃ拾うが、こちとら既に鼻や耳や足首で手一杯である。 「こんなこと起きるはずないの」  一部始終を目撃したという後輩がわんわん泣いているのもどうにかしてほしい。泣き声がガンガン頭に響いて仕方ない。俺が事態を聞いて現場へ駆けつけたとき、説明になってない説明を捲し立てたのはこいつだった。曰く、なんとなく上を見上げると天井に耳が生えていたらしい。は? 俺は聞き返したが後輩は大真面目な顔だ。頭の病院行け。さておき天井に耳それも右耳が生えていたもんだから(なんで左右判別できるくらいには冷静に見てんだよ?)後輩が思わずそれをガン見すると、  天井に沈んでいた女が身を起こした。  右耳から始まり頭が、首が、胴体が。まったく想像がつかないが後輩の支離滅裂ぶりを見るにたいへんな衝撃だったらしい。そのとき、後輩の隣に立っていたという同僚が「えっ」と声を漏らした。もしや自分と同じものを見ていたのだろうか、後輩ははっとして同僚の方を向いたが、もう遅かった。そいつは既に"巻き込まれていた"。  俺と同じ速さで駆けつけたババアの様子がおかしくなったのは、その説明を聞いてからだ。「はなちゃんが降りてきたんです!」泣きながら喚く後輩にババアはぽつり、「そんなわけない」。虚をつかれたのか後輩もその瞬間だけは黙って怪訝そうにババアを見ていた。非現実的証言に対する常識的な否定、とは明らかに声色が違っていた。 「こんなこと起きるはずないの」  ぶつぶつ呟き続けるババアにたまりかね、俺はついに「じゃあ目の前にあるもんはなんだよ!!」と声を荒げる。ババアは目玉をきょろきょろきょろきょろ、挙動不審に言う。 「確かにあなたがいじめられるのを見て見ぬふりしてたよあの子があんな顔にあんな鼻になっちゃったのもあなたのノロイかなって思ったよだってあなたには変な力があるって当時ウワサだったしというかあの子が中心になってウワサしてたし、でも、あのときやったこっくりさんも結局はこっくりさんの仕業じゃなかったわけだしあなたに変な力があるってウワサも元はあの子があなたを孤立させようとでっちあげた嘘でしかなかったわけだし、つまり、ノロイなんてものはなくてあなたはどこまでいってもただの可哀想でつまらないいじめられっ子でしかなったはずなのよ。そうでしょ? ……なのに今になって、こんな!」  もう金切り声みたいなもんだった。  焦点の合っていないババアの目線がふっと俺の背後、やや斜め上を射抜いた。ババアに気圧されすっかり泣き止んでいた後輩もなぜかそれに続く。二人はぼんやりとおれの頭上を眺めている。かと思えばその視線が徐々に下りはじめ……  おれの肩口で止まった。  ババアと目が合った。途方に暮れた表情だった。  俺の指の隙間からぽてっと何かが落ちる。さっき拾った親指だ……  ……さっき、拾った?  みなみちゃんには言わないでください

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036『ふしょうたびたまえ』

07.10.2025 03:16 — 👍 1    🔁 0    💬 1    📌 0
♪FSYOUセントラルキッチン挨拶運動♪

元気な挨拶で明るい職場を作りましょう!

・出勤したら「おはようございます」
・社員とすれ違ったら「おつかれさまです」
・退社の際は「おさきにしつれいします」
・はなちゃんが降りてきたら「ふしょうたびたまえふしょうたびたまえ」

♪FSYOUセントラルキッチン挨拶運動♪ 元気な挨拶で明るい職場を作りましょう! ・出勤したら「おはようございます」 ・社員とすれ違ったら「おつかれさまです」 ・退社の際は「おさきにしつれいします」 ・はなちゃんが降りてきたら「ふしょうたびたまえふしょうたびたまえ」

 オレ、ファミレスの自社工場で働いてるんす。卓上調味料のホットソースの検品係なんすけど、たまに、食品ラベルに妙な誤植があって。ミスプリントの文字を繋げて読むと、「たすけて」っていういかにもな文章になったりとか。……出来すぎ? でも、ほんとの話です。
 初めて気づいたときはもちろん、ぞっとしました。偶然でこんなこと、ないじゃないですか。主任に報告しても「そのまま出荷していいよー」……有り得ないっしょ?
 すっかり慣れた感じなのも気になりました。慣れるくらい同じことが起きるって、まぁ、普通じゃないですよね……。
 はじめはそのまま出荷してたんす。でもオレ、な〜んか据わり悪くて。途中で廃棄するようになったんすよ。なんででしょうね。振り返ってみると自分でもわかんない。そのまま出荷しろって言われたんだから言う通りにすればいいのに。たぶん、"オレは対処したんだ"って自分に言い聞かせたかったんでしょうね。そうすることで、主任たちののんべんだらりとした、だからこそちょっとおかしい空気に呑まれないようにしてた。
 こっそり廃棄するのがしばらく続きました。廃棄品なんて元々山ほどありますから、一本増えたところでなんともないです。
 なのに。
 あるとき喫煙所で一服してたら、隣に主任が来たんです。主任は煙草に火ィつけてしばらくすると、出し抜けに言ったんすよ。「おまえ、あれ出荷してるよな?」
『あれ』って具体的に何と言われたわけでもないのに。オレ一瞬で意味がわかって、ハイって自分でもびびるくらいすんなり頷いて。つまり、嘘ついたんす。内心動揺してました。なんで気づいてんの? 気づくまではいってないかもしんないけど、とにかく、勘づいてることは確かじゃないですか。しかも確認するってことは、あれ、出荷"しなきゃいけない"ものだったのか? って。
 なんでかなぁ。オレそんなことがあったのに、まだこっそり廃棄し続けたんすよ。すると主任がオレのそばに現れては、監視するみたいな、ちょっと恨みすら感じる目つきで見張ってくるんす。もう意味わかんないじゃないすか。意味わかんないけど、オレがそれでも主任の目を盗んで廃棄し続けたのも、今思えばかなり意味わかんないすね……。
 ある日、例の誤植があるのを廃棄に回そうとしたら、主任に「何やってんだテメェ!」って腕掴まれて。ぁあやっと見つけてくれた、オレもうこれしなくて済むんだ、ってちょっと安心したくらいでした。自分でしたことなのに。
 オレ、検品作業から外されました。当時は辛かったなあ。何が辛かったんだろう。主任の監視を掻い潜って廃棄するのもしんどかったですけど、いざ外されると、自分の片割れと引き裂かれたみたいな。そんな気分になって、夜、ちょっと泣きました。
 検品担当に戻してくれって主任に頼んだんです。そしたら主任、憐れむような目で見てくるんすよ。
 みんなおまえみたいになった。なかでもおまえはわをかけてひどい。
 よくわかんないすよ。オレ、検品に戻りたいだけなんすよ。あの正しくないホットソースを正しい場所へ送りたいだけなんすよ。
 主任の言っている意味がわからなくて塞ぎ込んでたとき、親身になってくれたのが、はなちゃんだったんです。
 はなちゃん、オレは悪くないって言ってくれました。そうするのが普通だって。主任がおかしいって。はなちゃんの言う通りだ、なんで今まで自信喪失してたんだろうってオレ思って。もう一度主任に立ち向かったんです。もちろん、揉めに揉めました。そのうち主任は職場に来なくなって、オレ、検品係に戻れたんです。
 あれから毎日ホットソースの食品ラベルを確認してます。そこに「たすけて」とあると、嬉しいです。大喜びで廃棄します。これがオレの生きがいです。オレは今幸せです。あなたも幸せになりたかったらはなちゃんに相談してみるといい。みなみちゃんには言わないでくださいね。

 オレ、ファミレスの自社工場で働いてるんす。卓上調味料のホットソースの検品係なんすけど、たまに、食品ラベルに妙な誤植があって。ミスプリントの文字を繋げて読むと、「たすけて」っていういかにもな文章になったりとか。……出来すぎ? でも、ほんとの話です。  初めて気づいたときはもちろん、ぞっとしました。偶然でこんなこと、ないじゃないですか。主任に報告しても「そのまま出荷していいよー」……有り得ないっしょ?  すっかり慣れた感じなのも気になりました。慣れるくらい同じことが起きるって、まぁ、普通じゃないですよね……。  はじめはそのまま出荷してたんす。でもオレ、な〜んか据わり悪くて。途中で廃棄するようになったんすよ。なんででしょうね。振り返ってみると自分でもわかんない。そのまま出荷しろって言われたんだから言う通りにすればいいのに。たぶん、"オレは対処したんだ"って自分に言い聞かせたかったんでしょうね。そうすることで、主任たちののんべんだらりとした、だからこそちょっとおかしい空気に呑まれないようにしてた。  こっそり廃棄するのがしばらく続きました。廃棄品なんて元々山ほどありますから、一本増えたところでなんともないです。  なのに。  あるとき喫煙所で一服してたら、隣に主任が来たんです。主任は煙草に火ィつけてしばらくすると、出し抜けに言ったんすよ。「おまえ、あれ出荷してるよな?」 『あれ』って具体的に何と言われたわけでもないのに。オレ一瞬で意味がわかって、ハイって自分でもびびるくらいすんなり頷いて。つまり、嘘ついたんす。内心動揺してました。なんで気づいてんの? 気づくまではいってないかもしんないけど、とにかく、勘づいてることは確かじゃないですか。しかも確認するってことは、あれ、出荷"しなきゃいけない"ものだったのか? って。  なんでかなぁ。オレそんなことがあったのに、まだこっそり廃棄し続けたんすよ。すると主任がオレのそばに現れては、監視するみたいな、ちょっと恨みすら感じる目つきで見張ってくるんす。もう意味わかんないじゃないすか。意味わかんないけど、オレがそれでも主任の目を盗んで廃棄し続けたのも、今思えばかなり意味わかんないすね……。  ある日、例の誤植があるのを廃棄に回そうとしたら、主任に「何やってんだテメェ!」って腕掴まれて。ぁあやっと見つけてくれた、オレもうこれしなくて済むんだ、ってちょっと安心したくらいでした。自分でしたことなのに。  オレ、検品作業から外されました。当時は辛かったなあ。何が辛かったんだろう。主任の監視を掻い潜って廃棄するのもしんどかったですけど、いざ外されると、自分の片割れと引き裂かれたみたいな。そんな気分になって、夜、ちょっと泣きました。  検品担当に戻してくれって主任に頼んだんです。そしたら主任、憐れむような目で見てくるんすよ。  みんなおまえみたいになった。なかでもおまえはわをかけてひどい。  よくわかんないすよ。オレ、検品に戻りたいだけなんすよ。あの正しくないホットソースを正しい場所へ送りたいだけなんすよ。  主任の言っている意味がわからなくて塞ぎ込んでたとき、親身になってくれたのが、はなちゃんだったんです。  はなちゃん、オレは悪くないって言ってくれました。そうするのが普通だって。主任がおかしいって。はなちゃんの言う通りだ、なんで今まで自信喪失してたんだろうってオレ思って。もう一度主任に立ち向かったんです。もちろん、揉めに揉めました。そのうち主任は職場に来なくなって、オレ、検品係に戻れたんです。  あれから毎日ホットソースの食品ラベルを確認してます。そこに「たすけて」とあると、嬉しいです。大喜びで廃棄します。これがオレの生きがいです。オレは今幸せです。あなたも幸せになりたかったらはなちゃんに相談してみるといい。みなみちゃんには言わないでくださいね。

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035『セントラルキッチン』

06.10.2025 03:10 — 👍 1    🔁 0    💬 1    📌 0
友引とは……
暦注のひとつである六曜の一種。「ともびき」あるいは「ゆういん」と読まれ、「何事をしても勝ち負けがない日」「引き分けになる日」とされている。「友に引く」という意味から結婚式や納車などのお祝い事の日として選ばれる一方、葬儀は他人の死を誘うという俗信から避けられ、友引の日が休業日となっている火葬場も多い。

友引とは…… 暦注のひとつである六曜の一種。「ともびき」あるいは「ゆういん」と読まれ、「何事をしても勝ち負けがない日」「引き分けになる日」とされている。「友に引く」という意味から結婚式や納車などのお祝い事の日として選ばれる一方、葬儀は他人の死を誘うという俗信から避けられ、友引の日が休業日となっている火葬場も多い。

 久しぶりに会ったおばあちゃんは、お腹に置いてあるドライアイスでぱりぱりに霜が降りていた。
 納棺師というひとが、お化粧をしてくれたらしい。生きているみたいに頬がふっくら赤く、なのに指先はクリーム色に凍りついたまま。僕たちは死んだおばあちゃんのいるこの家で一晩越さなきゃいけないらしい。なんという。
 死んだ実感はなかった。そもそもおばあちゃんと会うのは年に一度くらいで、お姉ちゃんはおばあちゃんをすごく好きみたいだったけど、僕はそこまでだ。おばあちゃんちは埃臭いしゲームもないし、出てくるご飯は味が薄い。あまり楽しくない。でもおばあちゃんが僕たちのことを好いていて、僕たちを喜ばせようとしてくれていることはわかっていたから、それに支えられた絆だった。
 おばあちゃんは、死ぬんだなぁ……。
 隣の部屋でぼそぼそ話す両親の声を聴きながら、そんなことを思った。
 誰かがそばで見守ってなきゃいけないらしい。お父さんとお母さんは忙しそうだし、あれだけおばあちゃんを好いていたはずのお姉ちゃんはなぜか近寄りたがらないので、僕にその役目が回ってきたのだった。
 死んだおばあちゃんを暇潰しに眺めた。つるつるした白装束を着たおばあちゃんはお化粧してもらったのもあってなんなら生前より身綺麗に見える。そのうち、おばちゃんの唇が若干あいていることに気づいた。これが納棺師のひとが言っていたやつだろうか? 死ぬと、知らず知らず口が開いちゃうそうだ。式前に化粧直しに来るから心配はしないでくれ、と言っていた。
 ……でも、どんどん開いているぞ?
 おばあちゃんの口はゆっくりとしかし確実にあいているのだ。
 ぱくーっ
 ぱくーっ
 と、魚みたいに動きはじめた。
 口内から歯ではない何かが見え隠れしていることに気づいた。そばに躙り寄って中を覗くと、えんじ色の……なんだろう? 湿った布切れのようなものが詰め込まれている。こんなの、最初はなかったはずだけど。
 お弁当のお箸を使い、引っ張り出してみた。案外呆気なく抜けたので、ちょいちょいとつついて床に広げてみる。これは……
 リボンタイ?
 お姉ちゃんが制服を着るときにつけるやつとよく似ている。なんでそんなものがおばあちゃんの口から出てきたのかわからないが、これも死後の儀式的なやつかな? と思った。
 とりあえず、お父さんとお母さんに聞いてみよう。と立ち上がったときだ。
 ばっ、とおばあちゃんの口からなにかが勢いよく飛び出してきた。
 それは真っ白な袖だった。弁明のしようがない袖だった。やはりお姉ちゃんが制服として着るやつによく似た。
 おばあちゃんは袖だけ吐き出した状態で、残りの布を口内でもぞもぞとさせている。僕はようやく、ようやく、もしかして変なことが起きているんじゃないかと悟った。急いで両親を呼ぶと、両親が葬儀会社のひとを呼び、早口に何か話していた。
 翌日、おばあちゃんの顔には白布が被せられていた。そのまま式が始まり、お父さんの「大往生でした……」という硬い声が響いた頃。たぶん、僕だけが気づいた。おばあちゃんの顔に被せられた白布が動いていることに。それはちょっとずつ、ちょっとずつずれていき、ついにはおばあちゃんの口元が覗きそうになった瞬間。誰かがぱっと戻した。葬儀会社のひとだった。昨日までは若い女の人だったのが、今日は父さんよりも歳上そうな男の人。僕の視線に気づき、口の動きだけで語りかけてくる。
 みなみちゃんにはいっちゃだめだよ

 久しぶりに会ったおばあちゃんは、お腹に置いてあるドライアイスでぱりぱりに霜が降りていた。  納棺師というひとが、お化粧をしてくれたらしい。生きているみたいに頬がふっくら赤く、なのに指先はクリーム色に凍りついたまま。僕たちは死んだおばあちゃんのいるこの家で一晩越さなきゃいけないらしい。なんという。  死んだ実感はなかった。そもそもおばあちゃんと会うのは年に一度くらいで、お姉ちゃんはおばあちゃんをすごく好きみたいだったけど、僕はそこまでだ。おばあちゃんちは埃臭いしゲームもないし、出てくるご飯は味が薄い。あまり楽しくない。でもおばあちゃんが僕たちのことを好いていて、僕たちを喜ばせようとしてくれていることはわかっていたから、それに支えられた絆だった。  おばあちゃんは、死ぬんだなぁ……。  隣の部屋でぼそぼそ話す両親の声を聴きながら、そんなことを思った。  誰かがそばで見守ってなきゃいけないらしい。お父さんとお母さんは忙しそうだし、あれだけおばあちゃんを好いていたはずのお姉ちゃんはなぜか近寄りたがらないので、僕にその役目が回ってきたのだった。  死んだおばあちゃんを暇潰しに眺めた。つるつるした白装束を着たおばあちゃんはお化粧してもらったのもあってなんなら生前より身綺麗に見える。そのうち、おばちゃんの唇が若干あいていることに気づいた。これが納棺師のひとが言っていたやつだろうか? 死ぬと、知らず知らず口が開いちゃうそうだ。式前に化粧直しに来るから心配はしないでくれ、と言っていた。  ……でも、どんどん開いているぞ?  おばあちゃんの口はゆっくりとしかし確実にあいているのだ。  ぱくーっ  ぱくーっ  と、魚みたいに動きはじめた。  口内から歯ではない何かが見え隠れしていることに気づいた。そばに躙り寄って中を覗くと、えんじ色の……なんだろう? 湿った布切れのようなものが詰め込まれている。こんなの、最初はなかったはずだけど。  お弁当のお箸を使い、引っ張り出してみた。案外呆気なく抜けたので、ちょいちょいとつついて床に広げてみる。これは……  リボンタイ?  お姉ちゃんが制服を着るときにつけるやつとよく似ている。なんでそんなものがおばあちゃんの口から出てきたのかわからないが、これも死後の儀式的なやつかな? と思った。  とりあえず、お父さんとお母さんに聞いてみよう。と立ち上がったときだ。  ばっ、とおばあちゃんの口からなにかが勢いよく飛び出してきた。  それは真っ白な袖だった。弁明のしようがない袖だった。やはりお姉ちゃんが制服として着るやつによく似た。  おばあちゃんは袖だけ吐き出した状態で、残りの布を口内でもぞもぞとさせている。僕はようやく、ようやく、もしかして変なことが起きているんじゃないかと悟った。急いで両親を呼ぶと、両親が葬儀会社のひとを呼び、早口に何か話していた。  翌日、おばあちゃんの顔には白布が被せられていた。そのまま式が始まり、お父さんの「大往生でした……」という硬い声が響いた頃。たぶん、僕だけが気づいた。おばあちゃんの顔に被せられた白布が動いていることに。それはちょっとずつ、ちょっとずつずれていき、ついにはおばあちゃんの口元が覗きそうになった瞬間。誰かがぱっと戻した。葬儀会社のひとだった。昨日までは若い女の人だったのが、今日は父さんよりも歳上そうな男の人。僕の視線に気づき、口の動きだけで語りかけてくる。  みなみちゃんにはいっちゃだめだよ

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034『友引』

05.10.2025 13:35 — 👍 1    🔁 0    💬 1    📌 0
「夏期講習だるー……てか聞いた? この話。アイコウモールのFUSYOUってフェミレスであった話なんだけどさ……」

「夏期講習だるー……てか聞いた? この話。アイコウモールのFUSYOUってフェミレスであった話なんだけどさ……」

 自転車のライトが、アスファルトの地面をほんの数メートル先だけ照らしている。
 ほーっ、ほーっ、となんの鳥かもわからない鳴き声が聞こえる。自転車のタイヤが空を切って回り、しかしあたしの膝裏はねっとり汗に濡れたまま一向に乾かない。むしろ水たまりが飛び散り、かえって濡れたくらいだ。
 あまり知らない道だった。
 いつもは親が塾の送迎をしてくれていた。けど今日は仕事でどうしても遅くなるとかで、一人で行って帰る羽目になったのだ。
 後ろからたたたって足音が聞こえた。
 振り返る。昼間は穏やかな陽気に包まれているであろう森林公園沿いにあるこの道も、夜は黒い木陰に支配されて別世界。
 風に揺られた枝同士でぶつかりあう音が、足音に聞こえたみたい。
 前に向き直ってペダルを踏み込む。公園の出入り口そばに薄ぼんやりと浮かぶ公衆便所に、誰かが入っていくのが見えた。はっきりとはわからない。ペダルを漕ぐ足になんとなく力が入る。出入り口前を横切った一瞬、隠れるみたいにまた影がさっと動いた。
 こんな道、徒歩なら絶対通らない。今日は自転車だから大丈夫だろうと思ったのに、自転車は自転車で、何もかも一瞬で過ぎるせいでその一瞬に妙なものを見出してしまう。
 っと、あぶない!
 すんでのところで右に切った自転車はスリップし、あたしを轢きかけた車はというとハイスピードで去っていく。なんて奴。あたしは蹌踉めきながら立ち上がり、擦りむけた膝を見下ろした。自転車を起こそうとして、異変に気づく。
 タイヤが、パンクしてる……。
 たたたっ
 振り返る。やっぱり、枝がぶつかりあってるだけだ。
 あたしを進ませるには充分だった。パンクした自転車を押す。額に汗が滲んだ。残りの距離は、自転車でだいたい十分間……徒歩だと、二十分間くらい? 大丈夫。二十分なんてあっという間だ。大丈夫。大丈夫……
 路面が白く光った。
 車のライト。後ろから徐々に近づいてきて、そのまま過ぎ去る……ことはなく、奇妙に停滞したスピードで、一向にあたしを追い越す様子がない。
 振り向けば案の定、黄色い二つ目が暗闇に浮いている。チカチカ瞬くそれは、視線を察知するや否や急接近した。あたしの強張った顔を反射する窓がすかさず開き、
「……先生?」
 …………
「送ってくれてありがとうございました!」
 まさか塾の先生が通りがかるなんて。幸運にも先生はデカめの車に乗っていたので、パンクした自転車もなんのその。家まで送り届けてくれたのだ。
 自転車を庭に留め、玄関に入った。あれっ、ママとパパの靴がある。仕事が早く終わったのかな。というあたしの脳内を見て取ったようにリビングから顔が出てきた。
「あらもう帰ってきたの! 仕事、思ったより早く終わったから迎えに行こうかって話してたところよ。電話したけど気づかなかった?」
「え」
「また音楽聴きながら漕いでたんじゃないでしょうね? 危ないからやめなさいよ」
「あの」
「なぁに、どうしたの?」
「誰ですか?」
 リビングから頭だけ突き出してにこにこ笑ってた見知らぬ顔が、歪んだ。絵の具が溶けるみたいに目玉の位置がすーっと下がって、口と混ざって、でも、笑うのをやめない。
「みなみちゃんには言わないでって言ったのに」

 自転車のライトが、アスファルトの地面をほんの数メートル先だけ照らしている。  ほーっ、ほーっ、となんの鳥かもわからない鳴き声が聞こえる。自転車のタイヤが空を切って回り、しかしあたしの膝裏はねっとり汗に濡れたまま一向に乾かない。むしろ水たまりが飛び散り、かえって濡れたくらいだ。  あまり知らない道だった。  いつもは親が塾の送迎をしてくれていた。けど今日は仕事でどうしても遅くなるとかで、一人で行って帰る羽目になったのだ。  後ろからたたたって足音が聞こえた。  振り返る。昼間は穏やかな陽気に包まれているであろう森林公園沿いにあるこの道も、夜は黒い木陰に支配されて別世界。  風に揺られた枝同士でぶつかりあう音が、足音に聞こえたみたい。  前に向き直ってペダルを踏み込む。公園の出入り口そばに薄ぼんやりと浮かぶ公衆便所に、誰かが入っていくのが見えた。はっきりとはわからない。ペダルを漕ぐ足になんとなく力が入る。出入り口前を横切った一瞬、隠れるみたいにまた影がさっと動いた。  こんな道、徒歩なら絶対通らない。今日は自転車だから大丈夫だろうと思ったのに、自転車は自転車で、何もかも一瞬で過ぎるせいでその一瞬に妙なものを見出してしまう。  っと、あぶない!  すんでのところで右に切った自転車はスリップし、あたしを轢きかけた車はというとハイスピードで去っていく。なんて奴。あたしは蹌踉めきながら立ち上がり、擦りむけた膝を見下ろした。自転車を起こそうとして、異変に気づく。  タイヤが、パンクしてる……。  たたたっ  振り返る。やっぱり、枝がぶつかりあってるだけだ。  あたしを進ませるには充分だった。パンクした自転車を押す。額に汗が滲んだ。残りの距離は、自転車でだいたい十分間……徒歩だと、二十分間くらい? 大丈夫。二十分なんてあっという間だ。大丈夫。大丈夫……  路面が白く光った。  車のライト。後ろから徐々に近づいてきて、そのまま過ぎ去る……ことはなく、奇妙に停滞したスピードで、一向にあたしを追い越す様子がない。  振り向けば案の定、黄色い二つ目が暗闇に浮いている。チカチカ瞬くそれは、視線を察知するや否や急接近した。あたしの強張った顔を反射する窓がすかさず開き、 「……先生?」  ………… 「送ってくれてありがとうございました!」  まさか塾の先生が通りがかるなんて。幸運にも先生はデカめの車に乗っていたので、パンクした自転車もなんのその。家まで送り届けてくれたのだ。  自転車を庭に留め、玄関に入った。あれっ、ママとパパの靴がある。仕事が早く終わったのかな。というあたしの脳内を見て取ったようにリビングから顔が出てきた。 「あらもう帰ってきたの! 仕事、思ったより早く終わったから迎えに行こうかって話してたところよ。電話したけど気づかなかった?」 「え」 「また音楽聴きながら漕いでたんじゃないでしょうね? 危ないからやめなさいよ」 「あの」 「なぁに、どうしたの?」 「誰ですか?」  リビングから頭だけ突き出してにこにこ笑ってた見知らぬ顔が、歪んだ。絵の具が溶けるみたいに目玉の位置がすーっと下がって、口と混ざって、でも、笑うのをやめない。 「みなみちゃんには言わないでって言ったのに」

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033『塾』

04.10.2025 13:53 — 👍 1    🔁 0    💬 1    📌 0

やっぱハッシュタグ投稿の方が良かったかもしんねえ❗️😀 後の祭り

03.10.2025 03:28 — 👍 0    🔁 0    💬 0    📌 0