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思索っぽいことを書こうという意思がある

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 マダミスのシナリオを組んでいる時の方が、小説を書いているときよりも圧倒的に楽しく、時間が過ぎていくのが早い。作業効率が良いわけではないが、そもそも応募用の小説に比べると、最低限必要な文字数が少ないため、楽というのもある。これまでに作った物は一万字前後で二、三時間のプレイだった。安直にマダミス製作者になりたいと思いもするが、小説をやりたくないわけではない。色々なことが落ち着いたらミステリ小説にでも手を出してみたいものの、新規に書き始めてばかりいると、今作っているものを疎かにしたり見捨てたりすることになるので、そう易々とは手を出せない。ただ数や量を作れる体力を身につけねばならないのも事実である。

23.02.2026 10:19 — 👍 4    🔁 0    💬 0    📌 0

 ツイッターではブルスカの批判を目にし、ブルスカではツイッターの批判を目にする。所属意識が党派性を生み争いを生む。どんなプラットフォームにも安住していないというつもりで使っているから、私としてはどこ吹く風で過ごしているが、これはこれで身の入った批判も礼賛も出来ないから良くないのかもしれない。とはいえ、私はただ個々のプラットフォームの利用者に過ぎない。かつてユーザー情報を漏洩したディスコードが顔写真か証明書の提出のないユーザーを未成年として扱うことについて嫌気が差さないではないが、ひとまずは受け止めておく。見切りをつけるのは容易に思えるが、私はあまりにも多くのプラットフォームに依存し過ぎている。

10.02.2026 07:24 — 👍 2    🔁 0    💬 0    📌 0

 事務的で無機質な状態を要請され続ける場として役所は耐え難く、用が済むと片時でもそこに居座ろうとは思えなかった。そうであるが故に役所は役所らしく保たれていると言えるのかもしれない。各々に用があることを人質として待たせ、用を済ませるためだけの場としてはあれが丁度いいのかもしれない。用を済ませるだけの場所では誰も安らげないため、用を済ませることに専心せざるをえない。役所を出ればまた暫くは役所に来なくていいし、役所的な場所は少なくとも私の人生にはそう多くないから、耐え難くとも耐えられてしまう。耐える必要がなくなればいつだって叫んでいいのだと、自己暗示をかけることによって、辛うじて叫ばずに済む場所だ。

10.02.2026 07:04 — 👍 1    🔁 0    💬 0    📌 0

「天使たちはピンボールをしない」と題されたその劇の中で、役所には犬の群れが放たれていたのを覚えているが、実際の役所、私が行った役所には犬は一匹もいなかった。今か今かと思いながらだらだらと時間が流れている間、確かに犬の群れが放たられたら爽快だろうと、読んでいた時よりも明確に思った。更に言えば、人間ばかりがいて各々に目的があり、所属や要求を明らかにするという役所の現実が不自然であり得ないものにさえ思えた。いざ呼ばれると私は障害者手帳更新希望者としての役を演じているかのように縮こまって受け答えをしていたが本当は叫びたかった。各々が叫ぶべきところであるにも拘らず誰一人として叫んでいないのが異様だった。

10.02.2026 07:04 — 👍 1    🔁 0    💬 1    📌 0

 障害者手帳の更新のために来た役所では、すべての窓口の呼び出し音がどれも同じでそれが絶えず鳴り響いているため常に気を張らなければならない。そればかりか、当然のことではあるが、職員の人らがハキハキとした喋り方をしてくるのが苦手だ。いつも自分がどれだけヘラヘラふにゃふにゃと会話しているかを思い知らされる。それが辛いというのではなくて、単純にハキハキをこちらにも催促されている感じがして空回りする。しかし、兎角手続きは済んだ。というか、手続きをするために知るべきことを知るという手続きを済ませた。カフカ的不条理を見に染みて感じるかと思ったが、いざ役所に出たときに思い出したのはダリオ・フォーの喜劇だった。

10.02.2026 04:54 — 👍 5    🔁 0    💬 1    📌 0

 引き続き『人生と運命』を読んでいる。339ページ、54個目の断片まで読んだ。314ページには、こうある。
 
「ユダヤ人よ、恐るな。恐ろしいことはなにもない。五分間──それで済む!」
 すべて、すべてが従順さを生み出していた──希望のなさも、希望も。同じ運命の人々が性格も同じと言うわけではなかったのだから。

 抵抗する意思を挫かれきってしまうほどの凄惨な世界では、人間は従順になるしかないのかもしれない。断章を経るごとに私は正に「これほどの犠牲が払われたのか」と愕然とする。死に限らず、生までも犠牲のように生きられたことに呆然とする。
 読み易い訳文だが読むことがあまりに重くのしかかってくる。

27.01.2026 23:05 — 👍 2    🔁 0    💬 0    📌 0

『人生と運命』を52ページ、11個目の断章まで読んだ。一章あたりの長さはまちまちだが、総じて短く、モザイクアートのような印象を覚える。相変わらず人名も地名も頻出するので、よく近づいて見るとその細部の克明さに驚く。注釈も少なくない。それらの人名も地名も曖昧な理解のまま読んでいるので、後から事実確認テストのようなものがあっても、私はきっと碌に答えられないだろう。断章ごとに場面が切り替わり、読んでいる間の時間感覚は果てもなく攪乱される。入り乱れる波濤に押し流され、渦に巻き込まれ、溜まりに澱むように読んでいる。いや、「生きて」いるという言葉が大袈裟でなく相応しいのかもしれない。
 幸か不幸か先は長い。

24.01.2026 18:01 — 👍 3    🔁 0    💬 0    📌 0

 ワシーリー・グロスマンの『人生と運命』の一巻を借りた。重いうえに人名やら固有名詞やらがドカドカ出てくる。容易には作中世界に馴染めない。長い時間をかけて、行きつ戻りつしながら読むのが相応しいような本なのだろう。それにしてもこの寒い中また図書館に返しに来るのは面倒だなと思いながらも、一応借りて帰ることにする。巻末にあるM・スミルノーワなる人の「『人生と運命』は読むのではなく、すべてはこんなふうではなかったと──現在あるもののためにこれほどの犠牲が払われなかったと──遠慮がちに願いながら、それを生きてみる本である。」(p.497)という言葉が気に入った所為かもしれない。それを生きてみるとするか……

23.01.2026 01:32 — 👍 2    🔁 0    💬 0    📌 0

 ツイッターアカウントを公開設定にしたためあまりテキトーなことを呟けないが、これ幸いとディスコードの自分のサーバーで好き放題書き込んでいる。新たなチャンネルを作ったり、適宜細かな調整をしたり、やっていることがカフカの「巣穴」の主人公とどこか似ている。八割くらいは私の書き込みなのだが、たまに反応をくれる人がいて嬉しい。
 私と話したことがあって、興味のある人がいればいつでも招待したい。大したことは言っていないし、たまに鬱になっているから、勿論好きに抜けてもらって構わない。
 ここにこう書いているのは、段々とディスコードに隠遁しようという魂胆があるからで、そうなったときに人が多いと嬉しいからです。

08.01.2026 05:10 — 👍 6    🔁 0    💬 0    📌 0

 親戚の集まりがあり、大した発言をしていもいないのにどっと疲れた。複数人がガヤガヤしてきる場所も妙に距離感の近い親戚も苦手だし、家で集まりがあるので安全地帯がなくなるのが嫌だ。数年前はよく祖父と祖母が大喧嘩をしていたが、祖父が我慢するようになったからか、そういうよっぽど酷いことにはならなかったとはいえ、新年早々気の乗らないイベントだった。もう勘弁して欲しいが「年に一度だから」ということで、少なくとも家を出るまでは参加させられ続けるのだろう。もう来年のことが億劫だ。
 寿司とお節を食べ飽きるほど食べ気づいたら寝ていた。時刻は十七時。早めに夕飯を済ませたら、気を取り直してWordファイルを開こう。

02.01.2026 08:42 — 👍 3    🔁 0    💬 0    📌 0

り掛かろう。それからセール中のブックオフへ。
 新しい年になったのだから晴れがましい気分がないではないが、同時に硬い痼りのようなものもないではない。世情も身辺雑事も、すべてが重い予兆めいて見えてくるのは不快だ。儀礼めいた「新年あけましておめでとうございます」という改まった挨拶もなんだか疲れが滲む。単に病気の所為ということでいいのだろうか。単に病気の所為であれば、無視して良いのだろうか。
 まあ、それでも新年は新年で、チャールズ・ラム的な感性で言えば第二の誕生日みたいなものの筈なのだが、『エリア随筆抄』を売り払ってしまったため内容を確認出来ないのが悔やまれる。
 めでたいはめでたいが、それまで。

01.01.2026 04:15 — 👍 3    🔁 0    💬 0    📌 0

 新年に託けて外出を強いられかけたので、慌てて布団を被り石のようになっていたら諦めてくれた。また寝正月である。テレビをつけると「孤独のグルメ」の一挙放送が流れていた。なんとなく見るのに丁度良い。雑煮とお節を食ったのにまた少し腹が減ってくる。
 なんかんだで年が明けてしまったので、貸出期間までに読んでしまおうと『最初の恋、最後の儀式』を読む。最初の短篇以外は今ひとつだった。ゆっくりパラパラと読み直して、次に読む本を選ぶ。『サハリン島』か『まっくら』か。
 思えば良いものも悪いものも前年から持ち越してばかりだ。年が変わったくらいでは、変わらないものが多いということかもしれない。一先ず短篇の続きに取

01.01.2026 04:15 — 👍 5    🔁 0    💬 1    📌 0
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 こちらでも宣伝をします。数年かけて断続的に書いていた日記がこの度、『日記』として刊行されまふ。ここブルスカでの投稿も収録されているので、是非チェックしてみてください!

 この度、佐波長太郎の『日記』が恥露離庵より刊行されます。是非、入手してください!
 1/18(日)の文学フリマ京都で頒布します。
 368ページ、2000円です。
 ブース:恥露離庵【お-36】

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27.12.2025 02:29 — 👍 7    🔁 1    💬 0    📌 0

んでいるという体験は、様々な夾雑物を含み込んだ形ではとは言え面白いと思ってしまう。三人称神視点で客観的に語っているものと思って読んでいた小説がその実、奇妙な移人称的語りになっていることに気づく瞬間のような面白さだ。小説で言えば先程、次第に意識が遠のいていって眠るなり死ぬなりしたいというようなことを書いたはずだが、そのときに丁度、小説ならここで衰弱死してしまってもいいと何故か他人事のように思っていた。
 はなから混乱し錯綜した思考回路の人間なので、こういう飲みと酔いと疲れの話にも色々絡めてしまうのかもしれない。
 私はなんでも私的に物事を解釈してしまうから、それが美点でもあり欠点でもあるはずだ。

27.12.2025 02:20 — 👍 2    🔁 0    💬 0    📌 0

 疲労し何も話せなくなって行くと、次第に場から浮いているような感覚になる。あからさまにこちらへ投げられたボールだけ軽く打ち返すだけのマシン以上の機能は失われてしまう。だが実際には、椅子にもたれ皆と目線が合わなくなるのだから、沈んでいるという表現の方が正しいかもしれない。何にせよ、その状態になると場にいながら場の会話から一歩引いていることになる。しかし、決して客観的な第三者視点などではない。目を瞑るなり上着を頭から被るなりして、遮断された視界は却って聴覚を鋭敏にし、ゴミ屑でも拾い集めるように見えない空間を彷徨う。そうして途切れ途切れの意識の中で大して意識せずに混乱を深め、気づけば気絶して時間が飛

27.12.2025 02:20 — 👍 2    🔁 0    💬 1    📌 0

 今はただ身を横たえて安らぎたい、いやそれ以上のものだ。このままゆっくり意識が遠のいて眠るので死ぬのでもいいから、安らぎきりたいとさえ思う。ただ、安らぐほどに安らぎきることなど、少なくとも生きている内は不可能だと知る。なので、という接続もおかしいかもしれないが、どうせもう眠れないので、少し書き繋ぐ。
 錯綜する身体感覚と疲労のことを書いたが、書いてからぼんやりと思い起こしたのは後藤明生の「笑い地獄」である。この奇妙な題の短篇小説の主人公は半睡半覚、或いは半酔半覚とでも言うべき状態に陥って飲み会の最中にダウンしてしまうのだが、昨日の私は正にそれだった。浅い意識の中で外界の音を掻き集める避雷針だ。

27.12.2025 02:20 — 👍 2    🔁 0    💬 1    📌 0

 忘年会が終わり、続けて行ったカラオケも済んで帰る段になると、友人の一人が「いやー、沢山飲んだ」と言った。朝5時を過ぎて体力の消耗が激しかった私はその場で何の反応出来なかったが、「沢山飲んだ」というよりも、「沢山の時間を過ぎて行った」と思っていた。目を瞑れば、長い時間の中であった幾つもの刺激──カレーの辛味、移動する際の体のだるさ、カラオケの音響、寒い外気、会話の波など──がバラバラに想起されるという状態で、感覚が何重にも折り重なりすぎたあまり、ただ疲労としてしか捉えられなくなりかけていた。だが、家に帰り着いてみるとそれは心地よい疲労感とも別な錯綜する身体感覚として良く思えるようになっていた。

27.12.2025 01:54 — 👍 6    🔁 0    💬 1    📌 0

 最低でも三百字は書かねばならないという意識が働いて、ブルスカに書き込む機会が減っている。言うほどのことは殆どない。言うことがあってもブルスカ以外の場所(Twitterや Discordでの書き込みや小説)で言うことが多い。書く場所が変わっただけではあるのだが、このままフェードアウトしていくのに一抹の寂しさを覚えもする。頭の中のノイズが減ったと考えれば良いことのような気もするが、単純に何も考えずに生きていくのはどうなんだ……? 人がそうである分には構わないが、自分は色々考えていたい。というより、色々益体もないことを考えるのが私だと私は思い込んでいるので、ただ変わりたくないだけなのかもしれない。

25.12.2025 07:09 — 👍 4    🔁 0    💬 0    📌 0

 妹の誕生日祝いということで、先日家族で馬肉を食べに行った。大変美味しかった。食べ始めてから気づいたが、来年は午年なので縁起が良いのかもしれない。それに、午年ということは、私は年男だ。縁起が良い気もするが、二十を超えてからというもの、歳を食うのはあまり嬉しくない。それこそ馬齢を重ねるというものだ。
 一年はあっという間に過ぎてしまう。その割には夏と冬はやたら長く、中々去っていかない。暖房をつけないこいことには何も出来ない寒さだ。早く春が来てほしいが、春と秋はどうせすぐ去ってしまう。桜はすぐに散るし、きっも午年もぼーっとしてるとすぐに過ぎてしまうだろう。そういえば馬肉のことを桜肉とも言うらしい。

09.12.2025 10:05 — 👍 5    🔁 0    💬 0    📌 0

 ホットケーキの上でバターを溶かし、生クリームとラムレーズンも少し乗せた。普段は渋みが強くてあまり飲まない紅茶と合わせて食べた。当然美味しい。
 Spotifyが私のために作ったプレイリストを流し、ぼーっと聴きながら過ごしていた。KIRINJI、笹川真生、ミツメ……。
 母親に対して『海辺のカフカ』を朗読するのがここのところの習慣だ。欠ける日もそれなりにあったが、一日一章を読むペースだから、次で最後。
 友人らとPodcastの収録をした。テーマのある会話をする機会はたまにしかないから、これはこれで楽しい。普段する、テーマのない雑談も勿論楽しい。
 明日から師走、十二月で、明日は妹の誕生日だ。

30.11.2025 08:34 — 👍 4    🔁 0    💬 0    📌 0

用事もないが、出てみようか。いや……どうしようか。靴を履いているところを想像しただけで疲れた気になってしまう。
 取り立てて面白いことはない。
 面白い気がする本を読んだが、まともに向き合うのには集中力というか気力というのか、とにかくその類いの力が必要で、なんとなく諦めてしまう。その本の真の魅力を取りこぼしてしまうようで、勿体無いが、仕方ない。
 出来ないものは出来ないと諦めてしまう他ない。そんなことはなく、ちゃんと向かっていくべきではないか?とも思うが葛藤するのも疲れる。何も出来ない日は何も出来ない。日の問題なのだろうか?
 まあ、両親が旅行中だから、外へ出て何か惣菜でも買ってくるとしよう。

14.11.2025 03:59 — 👍 1    🔁 0    💬 0    📌 0

 何も出来ない気分で、新シナリオが更新されたらしいブルアカに一先ずログインだけでもしようかと思ったが、一喜一憂するためにガチャを引いてるような友人を見ると、アプリを開く前から疲れてしまって、先延ばしにしてしまう。どうせ今やらねばならないことではないし、別にいいのだが、それはそうと疲れる。何に疲れているわけでもないだろうから、ただ体力がなく、無気力なだけという気もする。
 複雑なことを語ろうとすると「だが」や「気がする」が増える。単純なことを「だが」や「気がする」で複雑に考えているだけ、なのかもしれない。
 部屋の窓から、初冬の割には陽光が入ってきて温かい。少し眩しすぎるくらいだ。特段外に出たい

14.11.2025 03:59 — 👍 2    🔁 0    💬 1    📌 0

 無限にほぼ近い有限回、同じような言葉を繰り返し続けている気がする。まったく同じではないだろうが、ほぼ同じようなことを、有限の人生で何回も繰り返しているとそれはもう軸みたいになってくるし、無限の世界になってくる。
 有限の世界からどれだけ飛躍して見せるかというのに関心がある。天井のある部屋を宇宙に見せる、みたいな。今の自分に限界を感じるからこそ、そういう夢想を抱くのかもしれない。夢想でも現実観でもいいが、そういうの。
 反復の持つ催眠あるいは暗示効果に惑わされていく。言っている内に私の中では本当になる。それが良いのか悪いのかは分からない。成長でも退化でもない、ただの変化という気がする……。

12.11.2025 08:15 — 👍 1    🔁 0    💬 0    📌 0

重ね続けるしかない。自分の小説について眼高手低になっても、まあ一先ずやるしかない。手が止まりそうになるほど下手で、実際に手が止まる。それでも、書く。「これがいいのだ」という言い訳を半分くらい本気で思いつつも、かつもう半分は本気にしない。マナーや技術的な何かに則らない形で書いてしまっても、取り敢えず書く。それは前身かは分からない。或いは後退。或いは旋回運動。或いは停止。或いはその全てを交互に繰り返している(こんな感じの章題が『酔いどれ草の仲買人』にあった)。
 型通りのことを出来ないのが煩わしい、まだ型を破る段階にないのに。良かれ悪しかれ、自分には癖があるということらしい。
 結局刀を手に取る。

12.11.2025 08:03 — 👍 2    🔁 0    💬 0    📌 0

に後退の余地もないような議論は恐ろしい。歯止めの効かない近代合理主義は大規模な公害を生んだ。無論、アナロジーで語ることには危うさがある。というか、殆ど誤っているのだが、ここは直感の問題だ。直感が大事だという話だったかもしれない。
 そう、きっと時と場合によってどんな党派性にも流されうるほど、私の芯は弱い。好きなことにだけ意見があることは結局、何にも意見がないことになる、時と場合によって。どんな好きなものと、好きなものの外との関係なしには流通しえない。私は流通自体を愛しているわけではないから、それが一番大事なわけではないのだが、勿論……。
 だから、出来る範囲で出来る範囲を広げつつ、妥協と断念を

12.11.2025 08:03 — 👍 2    🔁 0    💬 1    📌 0

 一人で幾つかの立場を取って自分の発言に対してまた自分で反駁することを繰り返していると、何でも言えてしまう気がする。どの立場にも一面的な正当性はあり、その中からどれか一つを断乎として選び取れるほどの素地が自分にはない、と。
 以前、村上春樹の小説か何かで「一般論ではどこへも行けない」だか「一般論だけではどこにも行けない」というような文を見て、引っかかりを覚えるか感心するかして、兎に角覚えているのだが、最近になってそれが身に染みて響いてくる。何でも切れる刀であらゆる物を切ってもそれぞれに対して適切な切り方を出来ているとは言い難いように、一般論と一般化は時に議論を後退させる。
 しかしながら、同時

12.11.2025 08:03 — 👍 2    🔁 0    💬 1    📌 0

さを味わうしかない。
 どうしようもないこと、分からないことを考えない方が鬱にはならないのだろう。考え過ぎが良くない、とも言う。とはいえ、考えてしまうように私は生まれたし、そうである以上は、自らのその性質を加味して過ごすしかない。(まるでもう済んだことのように聞こえるが、疑いようもなく進行形の問題なので)折り合いをつけるという言い方はしたくないので、しない。
 組織と対決する個人という構図だけ抜き取ると、リョサの名前も思い浮かぶ。確かノーベル賞の受賞理由には「敗北の鮮烈なイメージ」というような言葉が入っていた気がする。敗北せざるを得ないのだろうか?
 首を傾げ、頭を抱えながらでも、生きられる。

28.10.2025 01:05 — 👍 1    🔁 0    💬 0    📌 0

取った作品だが、不思議と似た心性を認めらる気がしないでもない。不条理な社会に対して、なんとかその規範から逸脱しないように努めてばかりいると、やがてやむを得ず逸脱した時にはどうしようもなくなっている。自らの受難に幾つもの他人の受難が乗っかってくる感覚がある。或いは、他人の受難に自らの受難を幻視してしまう感覚が。
 フィクションから顔を上げ、「ああ怖い話だ」とだけ言って済ませられる世ではない。そんな世は今まで来たことがないのではないだろうか。すぐに行動を起こせるかと言われたら、少なくとも私には何も出来ない。何も出来ないことに居直るのではなく、暫く滞留し、このどうしようもなさ、世界への対処の分からな

28.10.2025 01:05 — 👍 1    🔁 0    💬 1    📌 0

て歪んだ形で解釈して教義としてしまった国家で、確かに抗っている人間はいる。しかし、それはこの小説の主軸ではなく、むしろ抗えず、物語ることを諦め、遠くの痛みに(そうならざるを得なかっただろうが)鈍感になりきってしまった人間の話だ。
 少なくともとも私は、他人の苦しみを想像することを人に強制は出来ない。しかしそうであるなら、どうやってかの混迷の世界を抜け出ればいいのだろう。
 無論フィクションだが、誰もフィクションの声に耳を澄ませない世界はかなり暗澹としたものになっているだろう。
 この小説を結末部へ向けて読みながら彷彿としたのは溝口健二の「近松物語」という映画だった。あれは未来でなく過去に題材を

28.10.2025 01:05 — 👍 1    🔁 0    💬 1    📌 0

 巨大な組織や社会体制に勝てっこないと思いながらも反感を抱く者は多い。個人では太刀打ち出来ないと思いつつも、それらに抗う人間の物語には心を打たれる。
 アトウッドの『侍女の物語』は、社会体制が(悪い方向へ)進むところまで進んでしまった世界の話で、主人公は抗うことをしない。どんな種類の抗いも「危険すぎる」と考えざるを得なくなってしまっている。どうしようもなさの中を彷徨う読書を終え、どっと疲れる。存在を忘れていた、本来私が持つべき重い物を急に持たされたかのような、読後感だ。
 果てのない迷路のような社会体制の中で、地図を読むことも、探すことも許されない。
 言葉も声も封じられる。聖書内の文言を極め

28.10.2025 01:05 — 👍 1    🔁 0    💬 1    📌 0