高野山まで歩こう!'s Avatar

高野山まで歩こう!

@yamaka.bsky.social

堺市から高野山まで続く、旧街道を休日ごとに歩いて100回お参りする計画です。 ⛰️🏞️ 2021年から初めて、現在、24回参拝達成です。何年かかるやらですが、気長にやってます。

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法界寺 親鸞聖人誕生の地

幼くして両親を亡くし無常を感じ出家を望んだ親鸞少年は、念願かなって天台宗青蓮院で出家。

法然が説く浄土往生の教えに出会い、政治弾圧も目の当たりしながらも、その教えを守り発展させ浄土真宗を開き、蔑まれ救われなかった人々にも仏の道を示す革命を引き継いだ。

19.09.2024 20:28 — 👍 2    🔁 0    💬 0    📌 0
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鴨長明方丈跡

方丈記の冒頭「 行く川の流れは絶えずして、しかも本の水にあらず。淀みに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとどまることなし。」とあり、ギリシャの哲学者ヘラクレイトスも意味を同じくする言葉を残している。

鴨長明はこの山中で方丈を結び、絶えず流動する世界を見ていた。

18.09.2024 20:16 — 👍 2    🔁 0    💬 0    📌 0
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花の醍醐寺

派手な豪遊を好む豊臣秀吉は、「北野大茶湯」「吉野山の花見」など贅を凝らしらた大宴会を好んだ。

秀吉生涯最期の大宴会は桜の名所醍醐寺で女性ばかりを集め、花見に参加する女性には1人3着の着物が贈られた。

この絢爛豪華な花見で、京の町が好景気に沸くほどの費用が費やされたと言う

17.09.2024 20:36 — 👍 2    🔁 0    💬 0    📌 0
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醍醐寺

醍醐寺は、真言密教とともに修験道も修める真言宗醍醐派の本山。

醍醐寺を開いた聖宝(しょうぼう)は、廃れかけていた吉野山の修験道を再興した事で大峯修験中興の祖と言われ、真言系修験の当山派の開祖としても知られる。

聖宝に影響を受けた宇多天皇は退位後に出家し始めての法皇となる。

16.09.2024 20:40 — 👍 2    🔁 0    💬 0    📌 0
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大岩神社

大岩神社は、荒れ気味で訪れる人も少なく異界的ミステリースポットとして訪れる人が多い。

この異彩を放つ鳥居は、日本画家の「堂本印象」の作品である。

四角い柱の鳥居は、実際に現地で見れば噂と違い美しい物であった。
やはり、実際に足を運び自分の目で確かめる事は大切である。

15.09.2024 20:30 — 👍 2    🔁 0    💬 0    📌 0
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伏見稲荷

伏見稲荷の参道には昔から雀(すずめ)の焼鳥が売られている。しかしその起源は謎との事。

稲荷神は穀物の神様で百姓が豊作願う神社で、神獣の狐は米を食い荒らす鼠は退治してくれるが、どうも雀は退治してくれない。

だったら人が雀を食べてしまおうとこの習慣が出来たのではなかろうか。

14.09.2024 20:04 — 👍 3    🔁 0    💬 0    📌 0
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28回11日目 高野山歩き参り💦

京阪「伏見稲荷」から、京阪「六地蔵」まで歩きました。

伏見まで来ると都から離れたなと言う感覚になります。最近は、米不足と言われますが新米が出て参ります。甘味と弾力のある新米が楽しみです。

27549歩
3時間31分
17.3㎞

14.09.2024 03:56 — 👍 2    🔁 0    💬 0    📌 0
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三十三堂の通し矢

後白河院・崇徳院の間で起こった保元の乱。

崇徳院の呼びかけで馳せ参じた十津川郷士の弓の達人 蕪坂源太は、三十三間堂の廊下の端から端(120m)まで矢を射通し腕前を見せた。

中世の武人は刀より弓の扱いを重視し腕前を競い、射貫く、射切る、号令用など数種の矢を使い分けた

12.09.2024 20:16 — 👍 0    🔁 0    💬 0    📌 0
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千体千手観音立像

平安時代、平清盛が建立したとされる三十三間堂。
長いお堂の中には、千手観音菩薩の千にちなみ千体の黄金の観音像がひしめく。
諸仏一体となり国宝に指定される仏像群は人の心を打つ仏教の荘厳を表している。

千体の仏像の中には会いたいと思う人に似ている仏像が必ずあると言う。

11.09.2024 20:18 — 👍 12    🔁 0    💬 0    📌 0

六波羅蜜寺

六波羅蜜寺は、踊念仏の空也上人が開いた寺を前身とする。
また意外ではあるが、かつてこの辺りは平家の屋敷が立ち並ぶ本拠地であったため、六波羅蜜寺は平家との縁が深く平清盛像が祀られているほどである。
鎌倉幕府が平家滅亡後、あえてこの地に六波羅探題を置いたのではないだろうか。

10.09.2024 20:40 — 👍 1    🔁 0    💬 0    📌 0
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みなとや幽霊飴本舗

みなとや幽霊飴本舗の名物「幽霊子育飴」は優しい甘味の素朴な飴だ。

幽霊子育飴は、女の幽霊が生き別れた子供の為に毎晩飴を買いに来た事に由来する。

このお店が創業した450年前はこの辺りから南は広大な葬送地でが広がっていて、本当にあの世とこの世の境目だったのだろう。

09.09.2024 20:59 — 👍 8    🔁 0    💬 0    📌 0
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六道珍皇寺

京には化野、蓮華台、鳥辺野の三つの葬送地があった。
六道珍皇寺は「鳥辺野」の入口に位置し、あの世とこの世を分ける六道の辻と考えられた。京都では、お盆にご先祖様の霊を迎える「精霊迎え」という習慣があり、この当たりの人はお盆前に六道珍皇寺にお参りする事で「精霊迎え」とする

08.09.2024 20:35 — 👍 1    🔁 0    💬 0    📌 0
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崇徳院縁切り安井金比羅宮

崇徳院は、都を追われ寵愛していた阿波内侍がいる「安井金比羅宮(昔は藤寺)」など、京の都での思い出が辛くなり、この世との縁を断ち切る事にした崇徳上皇は、最期に舌を噛み切り血で「日本国の大魔縁となり、皇を取って民とし民を皇となさん」と書き記し呪詛し果てた。

07.09.2024 20:42 — 👍 3    🔁 0    💬 0    📌 0
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28回10日目 高野山歩き参り💦

京阪「祇園四条」から、京阪「伏見稲荷」まで歩きました。

都人は、都中心の華やかかりし平家の時代から、質実剛健の源氏の世への移り変わりを、夏の終わりにも似た物悲しさを感じ、平家物語に想いを重ねてきたのでないかと思いました。

19214歩
2時間5分
11.7㎞

07.09.2024 03:33 — 👍 4    🔁 0    💬 0    📌 0

白川砂

大文字焼きの山あたりが、白川の源流で枯山水に使う白砂の供給地でもある。

水源の地質は花崗岩と砂岩の境目で、ここで接触変性という現象が起こり「ホルンフェルス」と呼ばれる風化しにくい岩石が出来る。この岩石に囲まれた色白の花崗岩に水が流れ風化し、先に黒雲母が流れて白砂が出来る。

05.09.2024 20:34 — 👍 1    🔁 0    💬 0    📌 0

白川

昔、川底に白砂が堆積していたため白川と呼ばれた。

川は五山の送り火の大文字の山周辺を水源流とし、白い川砂もこの辺りから運ばれてきた。

白川の白砂は、室町時代頃から庭砂としてたくさん利用されるようになる。この白砂のおかげで京都では美しい枯山水の庭を眺める事が出来るのである。

04.09.2024 20:51 — 👍 1    🔁 0    💬 0    📌 0
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民間医療

庶民にとって、病気や、雨乞い、悪霊払いは、遊行する聖職者に頼むのが当たり前で、聖職者なら僧侶でも山伏でも変わりなく何でも祈祷を依頼した。

僧侶や山伏は期待に応えれる様に話しを聞き、決まった形の祈祷を行い、僧侶も山伏もある程度の薬学の知識があり薬も処方していた。

03.09.2024 20:29 — 👍 1    🔁 0    💬 0    📌 0
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死の疫病「疱瘡」

奈良時代、北九州で発生した疫病は数年後に平城京に入り猛威を振るう。この疫病の流行で国民の1/3が死亡するという未曽有の大惨事となった。

この疫病とは「疱瘡(ほうそう)」と呼ばれた天然痘の事で、以降、「疱瘡」は大体30年おきに流行し多くの死者を出す死の病とされた。

02.09.2024 20:14 — 👍 0    🔁 0    💬 0    📌 0

藤原北家と「あかもがさ」

「あかもがさ」とは皮膚に小さな赤い発疹が無数に現れ高熱が出る疫病で、今で言う「麻疹(はしか)」である。

摂関政治全盛期、京で「あかもがさ」が大流行した。皇后で藤原道長の娘の嬉子がこの疫病で亡くなり、藤原北家は天皇家との外戚関係を維持出来なくり衰退する。

01.09.2024 20:51 — 👍 0    🔁 0    💬 0    📌 0

霍乱(かくらん)

霍乱とは「鬼の霍乱」の霍乱の事で、普段から元気で丈夫な人でも夏に急に下痢と嘔吐を繰り返す病気の事である。

これは、食中毒の事で、冷蔵庫や浄水された水がなかった頃は、夏場の飲食は当たると言うだけあって、運の様なものであったのかも知れない。
一応胃腸薬などはあった。

31.08.2024 21:37 — 👍 1    🔁 0    💬 0    📌 0
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夏の病「おこり」

平安時代の都では、初夏に流行る「おこり」と呼ばれる病があった。

これは、マラリア原虫を持つハマダラカに媒介されて人に感染する「三日熱マラリア」の事で当時は治療法がない致死率の高い病気で加持祈祷と神仏に祈る事しか出来なかった。

後の蚊帳の普及が病の抑制に寄与する。

30.08.2024 20:13 — 👍 4    🔁 0    💬 0    📌 0
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八坂神社

その昔、疱瘡(天然痘)は高い致死率と、完治しても跡が残る恐ろしい疫病であった。
疱瘡は、インドで牛が媒介する伝染病と認知されたため、仏教の聖地「祇園精舎」の守護神 牛頭天王を疫病神として 祀る事で疫病の発生を防ごうとした。
また、牛頭天王を祀る八坂神社は別名「祇園社」と呼ぶ

29.08.2024 20:52 — 👍 2    🔁 0    💬 0    📌 0
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岡崎神社

平城京から長岡京に続き平安京への遷都に際して、日いずる東の方角に都の鎮護する社を建立した。

これは陰陽道の思想に基づく方位学で、東は卯の方角となるのでウサギが岡崎神社の神獣とされている。

岡崎神社は兎に因みに、方除け、厄除けと、兎の多産から安産に御利益があるとされる。

28.08.2024 20:38 — 👍 4    🔁 1    💬 0    📌 0
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永観堂 みかえり阿弥陀

永観が百万遍の念仏を唱え阿弥陀像の廻る行道を行っていると、いつもと違う永観に気づいたのか阿弥陀像が突然降りて来て先導する様に歩き出した。
驚いた永観に、阿弥陀は「永観、おそし」と優しく、そして厳しく声をかけられ左肩越しに振り返り永観を見たまま固まってしまった

27.08.2024 20:39 — 👍 2    🔁 0    💬 0    📌 0
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哲学の道

哲学の道とは、京大教授の哲学者西田幾多郎が、水路沿いの小径を逍遙(しょうよう:散歩)する事を日課とていたのでそう呼ばれる様になった。
ソクラテスやプラトンが歩き考え、アリストテレスが歩き弟子に講義を行った。
この歩く哲学を逍遙学派と言うが、西田もまた同じ水の一滴と言える。

26.08.2024 20:14 — 👍 8    🔁 0    💬 0    📌 0
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金戒光明寺

幕末の京は、尊王攘夷の過激派による暗殺が頻発し、京都所司代だけでは町の治安維持が困難な状況となった。
幕府は新たに京都守護職を設置し会津藩の松平容保をに京の治安維持を命じた。

松平容保は、金戒光明寺に本陣を構え京都所司代も指揮下にし、新撰組も設立し治安維持に努めた。

25.08.2024 20:41 — 👍 5    🔁 0    💬 0    📌 0
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吉田神社

吉田神社は、室町時代に吉田兼倶が開いた新しい神道思想「吉田神道」の本拠地である。

その思想は、森羅万象の根源の宇宙神を祀る事で、八百万の神を祀るに等しいとする。また、仏教優勢の神仏習合の流れに、一石を投じ以降に成立する神道を重視した国学や、尊王攘夷論に影響を与えた。

24.08.2024 20:04 — 👍 1    🔁 0    💬 0    📌 0
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28回9日目 高野山歩き参り💦

京阪「出町柳」から、京阪「出町柳」まで歩きました。

京都は本当に見るべきと事が多い。それだけでなく、美術館もあったりと、なかなか前へ進めないです。
その分、楽しみが多くて、いい時間を過ごせています。

16927歩
2時間31分
10.4㎞

24.08.2024 02:44 — 👍 1    🔁 0    💬 0    📌 0

百萬遍知恩寺

後醍醐天皇が京にいた時代、天然痘が流行し空円に疫病封じの百万回の念仏を唱えさせたところ立ちどころに病が収まった。
後醍醐天皇は喜び、五百四十顆の念珠と「百萬遍」と言う名を寺に贈った。
以来、念仏系の寺院や念仏講で大きな念珠を皆で回す「大念珠繰り」の行事が広がった。

22.08.2024 20:48 — 👍 1    🔁 0    💬 0    📌 0
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室町幕府は力を失い終焉を迎えつつあるなか将軍足利義政は再建に努めるが「応仁の乱」を起こしてしまう。
自信を失った足利義政は、京都の東山に山荘を造営し戦乱の中でも芸術家を保護し東山文化を大成させた。

銀閣寺は足利義政が育んだ東山文化の集大成として今に残されている。

21.08.2024 21:14 — 👍 0    🔁 0    💬 0    📌 0

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