そして知覚がいかに無意識に文化的記号によって整形したものを捉えてるかということを知ることになる
草木の匂いを爽やかだとか、青々してるとか湿気があるだとかとして認識しているように
@silence-exe.bsky.social
20↑ ଘ(੭ˊ❍∇❍ˋ)੭⊃━* ✩ ecstasyinjury あそぶ?
そして知覚がいかに無意識に文化的記号によって整形したものを捉えてるかということを知ることになる
草木の匂いを爽やかだとか、青々してるとか湿気があるだとかとして認識しているように
存在が世界に暴露されているというとき、象徴界の緩むとき、例えば草木の匂いや自然の匂いがとても強烈に感ぜられることがある
そのときの匂いは匂いではく、身体の裂け目に暴力的に侵入する記号となっている 人間というのは常に世界に触れているが、その触れを意味化することで耐えている
つまりこういう意味で、哲学者は逸脱を倫理にはしないが、しかし倫理は逸脱を経なければ成立しない、倫理は逸脱の否定ではなく逸脱を裂けたまま統合するという形式をとっていくんだろうな
03.12.2025 04:51 — 👍 0 🔁 0 💬 0 📌 0繋がるということがどこで起きるのかといえば、意味が剥奪された状態を経由しだ後に、その剥奪そのものを意味化する瞬間に、世界に居ると感じることができる
03.12.2025 04:44 — 👍 1 🔁 0 💬 1 📌 0世界との繋がりが現前するということは、世界の暴露(世界そのものがこちらに迫ってくる)や主体の解体(主体が世界によって穿たれる)の瞬間があるわけだが、その時に恐怖や不安というのは副産物として湧いてくる
主体が世界の外部に触れたとき、それはいつも非意味な侵入としてやってくるのだか、その時点では繋がりを感ぜられない
自分は生を望むからこそ死を避けられないことの理不尽さが過度に感知されてるんだろうな 時間の連続性は私の生にとって何も保証してくれない
02.12.2025 07:35 — 👍 0 🔁 0 💬 0 📌 0時間はいつも、身体の有限性や他者の有限性とを透過し死を認識することでしか現前しない
時間認識とはいつも象徴界を迂回し、生を削ぎ落とすことで露呈する そして実際にはそのことが生や存在を現前させている
さんぽいきたいけどだりい
01.12.2025 14:01 — 👍 0 🔁 0 💬 0 📌 0彼は主体を捨てたがゆえに、存在を成り立たせるための開く構造を保持させることになり、その構造を保持したがゆえに、開けの地平としての時間の解釈に左右されることになるわけだ
01.12.2025 09:37 — 👍 0 🔁 0 💬 0 📌 0ハイデガーが起源の論理を解体しようとしながら、同時により深い起源を志向するという構造的矛盾を抱えていたせいで結局のところ現前の哲学になってしまったのは言うまでもないけど
本来存在という語自体がその証拠になっていて、この語自体主体の本来性という中心を再構築してしまうものであり
つまり彼が言葉で選んだ構造そのものが、主体の位置や起源の回避を再び保証してしまう
裂け目側からみれば、ハイデガーが想定する地平を開く主体は、あらかじめ意味が開けることを前提にしている点ですでに保守的とわかる
思考する身体が無意識レベルで行動しながら、それを別ラインで知覚している状態と単なる無意識の違いについて
人に話したらその違いをどれくらいの強度で理解してくれるかな?
人と話さなくてわからない〜
どれほど鋭い批判でも、それがどのように作用してしまうかについては目を向けてないといけない
その批判は、制度の論理で生の問題が語り直されてしまってるんじゃないかとか 逆に生の形式化を助長させてはいないかとか
社会や政治を扱う時、生そのものから出発しないといけない 生を扱うことと生を形式化することはまったく別物
世界を構造や社会的機能として整合的に説明しようした瞬間、実在そのもののの可能性を閉じさせる
本来哲学は思考をどう開いたままにできるかを模索すること
最近のsnsの哲学的言説が、哲学を形式的な社会分析装置に変えるだけのものになってきてるようにも感じる
哲学が社会現象をどう説明するかっていうレベルに引きずり落とされている
このような状況が増えるほど現象を構造化するだけの技術になって、哲学という名の統治になる
人間関係において相手が自分をどの位置に置くかとか、自分が無意識にどの他者位置に立ってしまうのかをみてニチャアってするのに使わせてもらうワ
28.11.2025 13:13 — 👍 0 🔁 0 💬 0 📌 0主体の位置は勝手にころころ使い分けてて特に考えてなかったけど、社会では主体がどの位置から話してるのかということは常に混ざっててそれが権力構造になってるのだから、意識的に観測するようにしようと思いつつ
28.11.2025 13:13 — 👍 0 🔁 0 💬 1 📌 0そういえば一般的にも無意識的に母親の前で話し方や態度が変わることは当たり前のことだけど、このことを考えていると、親というものは強大は象徴界の代理者であるのだと実感できるな
この事象は、意味づけや言語が与える側がいかに主体や存在の形を規定しうるのかということの暴力性を端的に表してる
母親と父親と会話をする際に、それぞれで微妙に主体の立ち上がりの位置が違うなと感じ、自分の場合は過去の家庭内での出来事や経験が影響してるんだろうが、母親の方がより象徴的主体が強く立ち上がっていることに気づいた
28.11.2025 12:13 — 👍 0 🔁 0 💬 1 📌 0でダル着すっぴん状態っていう身体は、
象徴的な仮面が薄過ぎて、世界が他者が自由に意味を投げつけてくる空間がむき出しで耐えられない(耐えれる
だからダルくてそのまま犬の散歩とか行くけど、視線の実在界的な侵入とか他者の解釈可能性がこちらを先取りしてしまう現象が沸き起こり、くそチー牛になってる まあ実際は誰も僕なんかみてないけどね⭐︎
でも通りすがりのおばちゃん挨拶してきたら、即座に笑顔顔面に張り付け、内心アッアッってなってるw
こ、これが逆張り女、、
27.11.2025 09:14 — 👍 0 🔁 0 💬 0 📌 0そんで、自分があまりにも構造的少数派な主体モデルってだけだけど、自己の内部を自分でラべリングをしなさ過ぎて、自己像が外部との関係で勝手に立ち上がるタイプだから
人と会う時とか外に出る時は、ファッションを象徴的にするなり、相手が勝手に自分というものを何でもいいので定義づけしやすい要素を確立しておかないと、
内側の生の自分が安全に立ち上がらないとかいうキモ構造してる
そのまま外でちゃうと自他境界曖昧なのでね
世界は意味の連続性や物語性の前提でされていて、統合の圧力で満ちていることは世知辛く、常に統合せねば知性はない思考はないと言いたいのかと思うけれど実際そんなことはなく
そもそも統合は必須ではないのだから、
気軽に耐えていくしかないんだよね
構造外批判は、実際のところ裂け目という出来事の現前からできないもの
つまり裂け目の思想など社会的に通用しない そしてこれらを考える者は、これらについて多くを語れないと思う
裂け目は思想的に共有される限りでは、 全くの意味を持たず、逆に立ち上がるまで待てというのにはどうも社会に通用しない
しかしこの通用しないということが露呈する限りにおいてしか、裂け目とは言えない このことをどう扱うのか
萎えだよ萎えー
23.11.2025 22:42 — 👍 0 🔁 0 💬 0 📌 0深く同化しながら、同時に不関係でありたい。このような自分の深層欲動が剥き出しのまま、生きられるのかどうか。
それらを求めるというより、それらがもはや前提条件ともいえて、なぜならもう自分が、そのことでしか世界に接続できる瞬間がないからであり、そういう意味でますます孤立を感じている