昔の手紙を読む勉強会で近衛信尹づくし。準備した内容の半分ごっそり話すのを忘れてしまった。
人前で発表し終えた後は色々と反省点はあるけど、誰かと雑談した後に「あんなこと話さなければ良かった……」みたいにクヨクヨする一人反省会は不思議と起こらない。重荷が下りた解放感のせいかな。
日常生活でもそれくらい「しゃあない!」と受け流せるようになりたい。
昔の手紙を読む勉強会で近衛信尹づくし。準備した内容の半分ごっそり話すのを忘れてしまった。
人前で発表し終えた後は色々と反省点はあるけど、誰かと雑談した後に「あんなこと話さなければ良かった……」みたいにクヨクヨする一人反省会は不思議と起こらない。重荷が下りた解放感のせいかな。
日常生活でもそれくらい「しゃあない!」と受け流せるようになりたい。
こちらの系図では文高女王を女二宮としているので、確かに龍塔院宮というのはどこから出てきたのか不思議ですね🤔
「三さま」の入室について書かれた信尹の手紙に関しても、大聖寺とは別の寺への入室かもしれないので、もろもろ検討し直したいと思います。
dl.ndl.go.jp/pid/3007259/...
前子の娘についてはきちんと調べていなくて、龍塔院宮については、こちらの論文の中で、慶長4年に大聖寺に入室した女二宮と同一視している記述を参考にしましたが、根拠となる史料までは確認が取れていませんでした。
文高女王の生年の根拠についても知らずにいたので、お教え頂けて有り難く思います🙏
dl.ndl.go.jp/pid/12530222...
近衛信尹の手紙で時折見かける「三さま」という人物。
誰なのか分からずにいたけど、三様が尼寺の大聖寺へ入室すると思われる文面を見つけたので、三様とは後陽成天皇の皇女 文高女王のことか。信尹の姪にあたる人物。
文高女王は第四皇女だけど、誕生時に第一皇女が夭折してたので三様と呼ばれたのだろうか。
また、信尹の仮名消息には「一さま」へ宛てたものもある。
いままで、信尹の長子 太郎を指しているかと思っていたけど、「三さま」の例に倣うと皇子や皇女の可能性もあるだろうか。
この手紙が書かれた時期には後陽成天皇の第一皇女・第二皇女は亡くなっているので、事実上の一宮にあたる後水尾天皇 宛てだろうか。
手紬ぎ糸による手織りの生地の良さが分かるようになりたくて、本場結城紬の着物を古着で買った。
絹といえば、扱いに気を使うので敬遠しがちな印象があるけど、実際に紬の生地に触れると、絹が身近な素材に感じられる。
手作業しかなかった時代には日用品だったものが、動力技術が発達した事で生活から遊離した高級品になったという点では、ゾルトラークとは真逆の現象のように思えた。
ここ最近、急に「読める、読めるぞ」状態が来てる。
いままで手が付けられなかった近衛信尹の仮名消息を久しぶりに眺めたら、これまでになく情報が色々と拾え、目にした手紙を片っ端から翻刻したくてたまらなくなってる。
何かのボーナスタイムかもしれないので、やる気のあるうちに読み漁っておきたい。
(ピークを超えたらズドンと落ちそうで怖いけど……)
5年前に見た時には全く読めそうもなかった小さなくずし字。いま見たら「しゆかく院」(修学院)だとパッと気づいた。関心が高まっているとセンサーの感度が上がる。
「次介」が登場する近衛信尹の仮名消息の内容を照らし合わせると、修学院からの収入が「七ツ程」にも届きそうになく気の毒に思い(1408号)、
その後、「六ツ四分」をどうにか受けられそうなことになり(1410-21号)、
次介と一左衛門を派遣したところ、「六ツ五分」を受けられることとなり、紋買いが早くにすんで安堵している。(2758号)
この頃、修学院は近衛家の領地だったのか。それとも、前子の領地だったのか。修学院離宮との繋がりが気になる
近衛信尹の仮名消息に、修学院へ早く使者を送った方が良いと書かれ、別の消息には「六ツ五分」を受ける事になり、早く済んでめでたいとあった。
また西岡にも早く使者を出した方が良いと助言してる。西岡は荘園の桂がある地域。修学院と桂にはこの後に離宮が建てられるので、関係する内容か気になった。
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他方、5年前に入手した近衛信尹の消息切には「次介」という人名が書かれてた。陽明文庫の信尹の仮名消息にも「次介」が時折登場し、いずれも彼を領地へ派遣させる内容が書かれてた。
消息切でも年貢の納入について書かれてたので、次介は近衛家や女御の荘園管理を任されていたのかもしれない。地道に調べてると色々と繋がる。
このくずし字が書かれてたのは、陽明文庫デジタルアーカイブに公開されている近衛信尹の仮名消息(1779号文書)。
重箱入りの食べ物を贈られた事への礼を述べ、甥の信尋を呼び出せないか尋ね、生まれて間もない九宮(一条兼遐)の様子を気に掛けている事から、妹で後陽成天皇の女御 近衛前子宛てと思われる。
近衛信尋が中将だった慶長10〜12年(1605-07)の筆ヵ。
信尋が信尹の養嗣子となったのは慶長10年なので、信尋が養子入りして間もない7〜9歳の時期。
「急を召され候て給い候事はなるまじく候や」「雇い申したく候」と尋ねているということは、この時にはまだ信尋は前子の許で暮らしていたのだろうか。
趣味でダラダラと続けている程度なので、いつまでも牛歩のままです😅
私は史学科を出てないので、史料批判にあまり自信がなく、文字が読めるだけでは片手落ちとも感じています。
人を指導できるような能力でもないですので、お互いに切磋琢磨できましたら嬉しく思います。
(そして、「みんなで翻刻」が手つかずのままで申し訳ありません。。。
読み慣れていない字ですと、間違いだらけの翻刻をしてしまいそうで、いま一歩踏み出せずにいます)
「なんだこれは?」と、しばし頭を抱えたくずし字。前後の繋がりから「しやうくハん」(賞翫)だとわかった。ふとした瞬間にパッと読みがひらめくと嬉しくなる。
地道に翻刻を続けていると、同じ人物の筆跡なら少しずつ癖がつかめてきて、徐々にスムーズに読めるようになってくる。
ここ数年は、自分の手が及ばない範囲の広さに打ちひしがれていたけど、数年前につまずきながら読んでいた文字が、多少は読めるようになっている感じはする。
8年半もやっていてまだこの程度か、という気もするけど。
(古書店の方は、「10年くらい経って、ようやく線が見えるようになった」と話していたので、まだまだ道のりは遠い)
以前よりも少しずつ字が読めるようになってきたので、いずれ本腰を入れて、たとえば「陽明文庫デジタルの近衛信尹の手紙を全て翻刻する」みたいな事に取り組んだ方が良いのかもしれない。
ものすごく面倒だけど、だからこそ誰も手をつけてなさそうな作業だろうから。
研究者の方の著作を読むと、数十年分の日記に全て目を通したりしていて驚愕するので、ひたすら地道にこなしていく事の重みを痛感する。
年次比定の条件
1.手紙が書かれた26日以降の月内に大坂へ下向している。
2.手紙が書かれた前日の25日に後陽成天皇に拝謁している。
条件1に当てはまる年:豊臣秀頼への諸礼
・慶長6年1月29日(三藐院記)
・慶長9年1月28日(時慶記)
・慶長10年1月29日(慶長日件録)
条件2に当てはまる年
×慶長6年1月25日:北野社へ参詣(三藐院記)
〇慶長9年1月25日:連歌御会のため参内(お湯殿)
×慶長10年1月25日:近衛邸で連歌会興行(時慶記)
スッキリと定まってくれると気持ち良い。但し、「手紙の宛所は近衛前子である」という仮定が成立している必要があるけど。
宛所に「申給へ」とだけ書かれた近衛信尹の仮名主体の手紙。信尹の妹で、後陽成天皇の女御 近衛前子 宛てヵ。慶長9年(1604)筆ヵ。
『狭衣物語』の抄本と絵図が届いた事を報告し、昨日は後陽成天皇から色々と話を聞かせてもらえた事へのお礼を深々と述べ、これから大坂城へ年頭の挨拶に向かい、月末には戻る予定であると伝えている。
陽明文庫には、宛所「申給へ」の信尹の仮名消息が多数あり、実子 太郎、父 前久、女御の女房 中納言といった身内への連絡をしているため、妹の前子宛てと思われた。
慶長9年1月25日に信尹は参内して連歌御会に出座しているため、「昨日ハ色〻仰きかさせられ候」という文面とも一致する。
「せんしやうし」とは、日秀尼が建立した「善正寺」のことだった。
09.02.2026 23:12 — 👍 0 🔁 0 💬 0 📌 0
陽明文庫デジタルで近衛信尹の手紙を読み漁っていたら、いつまでも止まらずに疲れ果てた。
きちんと読んで情報を整理すれば、かなりの研究材料になりそう。
秀吉の姉で秀次の母 日秀尼(瑞龍院)の知行の二割を東山の「せんしやう寺」に充てること、という覚書を見かけ、どういう繋がりがあったのかと気になった。
そして、信尹の子 太郎が「すい様」(瑞龍院ヵ)へ宛てた手紙の案文(信尹が書いた手本)もあり、そこも繋がっていたのかと驚いた。
信尹は高台院と手紙で交流をしていたので、豊臣家の女性と繋がっていても不思議ではなかったけど。
文中に出てくる人名が誰なのかを特定するのが難しい。
雪の日は、窓からさす光の色が均一になるのが良い。掛軸の本紙がきれいに撮れる。
09.02.2026 12:05 — 👍 1 🔁 0 💬 0 📌 0
毎年立春の時期に京都の須賀神社で売られる「懸想文」(けそうぶみ)は「結び文」という形をしている。
ただ不思議なのは、懸想文の結び方をよく見ると、一般的な結び文とは逆向きになっていること。
一枚目の写真で、左側は懸想文の結び方、右側は一般的な結び文の結び方。
右利きの人が結び文をする時、左手で手紙を支えて持ち、右手で手紙の上端を折り曲げるので、写真の右側の結び方になる。
一方、懸想文売りの絵を見ると、普通とは逆向きの結び方をしている。
昔からこの向きの結び方なのか、この向きには理由があるのか、些細な違いではあるけど、どうにも気になっている。
(左:近衛信尹の手紙/右:小堀遠州の手紙)
カタログの写真だけを見て注文した消息を受け取ってきた。自筆かどうか心配だったけど、現物の筆跡は印刷よりずっと良くて一安心。写真だけで判断するのは、やっぱり勇気が要る。
07.02.2026 07:41 — 👍 0 🔁 0 💬 0 📌 0今日は、松屋浅草で開催中の古書の市へ。雪で電車が止まらないことを祈りながら。
07.02.2026 01:42 — 👍 2 🔁 1 💬 0 📌 0
おめざの一服。抹茶で薄茶を点てたら、三日月形の池が珍しくきれいにできた。
たいてい、池がふたつに分かれたり、時には真ん中に「島」ができたりして、なかなか上手くいかない。
仕上がりが不安定なので、点てるたびに泡の形で占いをしているような気分になる。
健康診断で胃を空っぽにする必要があり、空腹に耐え忍ぶ。ヨーグルト味のバリウムを早く飲みたい。。。
03.02.2026 14:59 — 👍 0 🔁 0 💬 0 📌 0
昔の手紙に書かれた人物の候補を挙げながら執筆年を絞り込んでいたけど、肝心の筆跡が自筆ではなさそうだと分かってお蔵入りに……。
寛文元年〜二年(1661-62)に書かれたと思われる内容だった。
去年か一昨年あたりから、ある門跡宛ての手紙が色々と出回っているけど、偽物がけっこう混じっているようでなかなか厄介。
自分が持っているその門跡宛ての手紙も、自筆かどうか怪しい気がしてきた。
寺社からまとまって出てきたものだとしても、安易に信用してはいけないのかな。
本当に、失敗と勉強を繰り返して成長するしかない。。。
数年ぶりに国会図書館へ。いつも訪れるたびに、芋づる式に気になる本が出てきて、あっという間に時間が溶けていく。
たまにしか来れないので、ここぞとばかりに目に留まった論文のコピーをとる。
ネットで調べられる範囲もだいぶ増えてきたけど、ネットだけでは辿りつけない情報もまだまだ沢山あるのだと改めて実感する。
雑誌「墨」(66号)に載っていた近衛信尋の和歌の筆跡(左)と、ネットオークションで見かけた模本の筆跡(右)
江戸時代に何点か模本が作られているようで、筆跡の比較の勉強材料になる。(左側の筆跡も、自筆ではなく臨書されたものかもしれない)
インパクトがあるので思わず写真に収めたら、阿仏尼のやぐらと伝わる場所だった。すぐ近くはシン・ゴジラのロケ地だった。
27.01.2026 10:21 — 👍 0 🔁 0 💬 0 📌 0
小早川秀秋の養子入りについて記された近衛前久の書状を発見した遠藤珠紀さん、新出の「三藐院記」(近衛信尹の日記)についても論文を発表していて気になりすぎる。国会図書館に行って調べないと。
新出近衛信尹「三藐院記」の紹介
cir.nii.ac.jp/crid/1522837...
見逃していた年末の豊臣サミットを再放送で見ていたら、近衛前久が小早川秀秋の養子入りについて書いた信尹宛ての書状が出てきて目を見張った。あの書状は陽明文庫デジタルで公開されているのかな。ひとまず論文をあたってみたい。
遠藤珠紀「羽柴秀俊の小早川入嗣について」
cir.nii.ac.jp/crid/1520303...
冬のあんたさ、どこの猫かね。
24.01.2026 12:21 — 👍 1 🔁 0 💬 0 📌 0
出典をお示し頂いた上ご教授くださり大変ありがたく思います。
皇子・皇女の例ではありますが、この時期は男女問わずにお歯黒をしていたんですね。
論文名を検索したら、成人の儀式についてまとめられたページを見つけることができました。
どのような資料をあたれば良いか考えていた所でしたので感謝いたします。