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パターソンの傘｜teruyasu （2022 年以降 Київ を「キエフ」でなく「キーウ」と表記する習慣にならい，Левченко は「レフチェンコ」でなく「レヴチェンコ」，Геращенко は「ゲラシュチェンコ」でなく「ヘラシュチェンコ」などと表記します。違和感があると思いますが，ご容赦ください。） パターソン（左）とトピッチ 2025 年 9 月 21 日，東京 2025 世界陸上競技選手権大会の最終日。女子走高跳の決勝は...

（このあとすこし長くなりそうなのでノートに移します）
note.com/teruyasu/n/n...

（註）父娘の会話を関西弁で訳したのは，このインスタグラムの投稿のキャプションの雰囲気を反映させるためである。9 月 8 日，世界陸上に備えて練習を「東京」（手賀沼）で順調に行っていますという趣旨の投稿。おそらく父が撮った写真に，アンジェリーナが付けているキャプションは 💢 what if this is the best version? である。「💢これがいっちゃんええ写真てどういうことやねん？」と読める。
（つづく）

アンジェリーナ・トピッチは，のちにインタヴューでこの試合を「人生で最も苛酷な数時間」と評したが，それは彼女の記憶違いである。雨が降りだしたとき，彼女は 1.97 m を 1 回目で成功した 4 人のうちの 1 人であり，雨ガッパのファッション・ショーを楽しんでいた。

それでもアンジェリーナは雨ガッパに袖をとおして，なんなら「かわいいかな？」というポーズさえとってみせた。

ただちに痛感したことだろう。透明の雨ガッパを持ってきた選手はほかにだれもいなかった。

トピッチがバックパックから取りだしたものは，コンビニエンス・ストアで売っているような，透明の雨ガッパだった。前日に雨の予報を聞いて，彼女のコーチが，父が，準備した雨具がそれだった。彼女は観客席にいる父になにかを話した。走高跳の試合中に，フィールドにいる選手が観客席にいるコーチと大声で話しあう，または手でサインを交わすことは，ありふれた光景である。父娘がセルビア語でなにを言ったか正確なところはわからないが，おそらく次のような会話が交わされたはずである。
「お父ちゃん，ほんまにこれ着るんか？」
「そうや，それを着るんや」
父はコーチとしての威厳を保ちながら答えたが，それが失敗であったことを

雨が降ることは前日の予報でわかっていたので，選手たちの手際はよかった。フィールドにマットを敷いて寝袋で寝ていたマフーチクは，トラックの外の屋根がある場所に移動して，そこでマットを敷いて寝袋に入った。他の選手たちも移動して，手持ちの荷物のなかから雨具を取りだした。レフチェンコは，からだが冷えないような分厚い生地の雨具を着た。それは紫色で，大会のシンボル・カラーに合わせたものだった。彼女はおしゃれである。

実際トピッチは好調だった。1.97 m を 1 回目の試技で成功した。それは彼女の今シーズンのベスト記録であり，パリ・オリンピックで骨折して以降の最高記録だった。そして雨が降りだした。

マフーチクは 2.02 m。オリスラーガースは 2.04 m を跳んで，彼女自身のオーストラリア記録を更新。東京世界陸上開始時においてオリスラーガースのランキングが 1 位であることが確定し，大会における試技の順が一番となった。そのことによって彼女は，東京国立競技場でただ一人，雨の影響をほとんど受けずに 2.00 m を跳ぶことができたのだが，そんなことをチューリヒではまだだれも知らない。そしてそのころトピッチは（おそらく手賀沼でカッパの池を見ながら）練習に励んでいた。

ユリヤ・レフチェンコもまた 2.00 m を跳んだ。彼女が 2.00 m を跳んだのは 2020 年以来だった（彼女の自己最高記録は 2019 年の 2.02 m）。彼女は，新人選手が自己記録を更新したかのように両腕を上げて喜びを表し，レークとハグをして祝福しあった。

万達ダイアモンド・リーグの今シーズンをしめくくるチューリヒ大会は，スリリングだった。舞台は，ゼクゼロイテン広場（六時の鐘広場）にあるオパーハウス（オペラ・ハウス）前。走高跳の競技場は他の競技のものより狭くて十分だから，そういった観光名所で競技が行われることがある。そこでモーガン・レークが 2.00 m を跳んで英国記録を更新した。彼女は，東京の世界陸上で 1.93 m の 7 位に甘んじたが，メダルを狙って調整していることをチューリヒで見せつけた。

雨のローザンヌで行われた万達ダイアモンド・リーグの競技会が 8 月 20 日。多くの選手は，その後 8 月 28 日に同リーグのチューリヒ大会で最後の仕上げをして東京に向かう手はずだった。しかしトピッチ父娘は，それを回避して，8 月の暑い日本で練習にとりくんだ（インスタグラムの写真によると手賀沼だったようだ）。

東京 2025 世界陸上に向けて，コーチは早めに日本に入ると決めた。今回の走高跳の参加標準記録は 1.97 m であり，アンジェリーナは足を骨折したあとその高さを跳んでいなかった。だから彼女が世界陸上に出場するにはセルビア陸連の推薦が必要だったが，コーチはその決定が下される前に日本に着いた。その時点で彼女の世界ランキングは 8 位だったから，推薦されることは確実だった。

彼女のコーチは父である。走高跳の選手は，技術面でも精神面でもコーチに頼ることが多い。長期的な目標設定でも，次の跳躍をパスするかどうかという目先の戦術でも。アンジェリーナは十代のうちにオリンピック大会にも世界陸上選手権大会にも出場したから，父は彼女のコーチとして優れていたと証明されている。

父は走高跳の選手で，バルセロナ，アトランタ，シドニー，アテネ，北京，ロンドンと 6 大会連続で出場した。最高位はアトランタで 4 位。東京 1991 世界陸上や大阪 2007 世界陸上にも出場。一方，母は，はじめ短距離走の選手であり，のちに三段跳びで北京，ロンドンのオリンピックに出場した。ベルリン 2009 世界陸上で三段跳び 4 位。エリート・アスリートを両親に持つアンジェリーナは，走り幅跳びにおいて屋内の国内記録を持っている。上述のとおり，2023 年から万達ダイアモンド・リーグに走高跳で参加している。

アンジェリーナ・トピッチは，2005 年セルビア生まれ。ユーゴスラヴィア分裂にともなう戦争もコソヴォ戦争も，生まれるまえに終わっていた。彼女の出世時の母国名はセルビア-モンテネグロ連合で，途中でセルビアに変わったが，その分裂は平和裏に行われたものだった。

マラソンの高橋尚子選手が，練習で走りすぎて肋骨を骨折したと報じられたとき，アスリートは全身を極限まで駆使していることをあらためて思いしらされた。トピッチは，感触を確かめるために走高跳のマットに乗って骨折した。パリ・オリンピック大会の予選（大会の正式日程で 2 日設定されているうち 1 日目）の練習中の出来事だった。まだバーが架けられていない競技場で，助走してマットのうえを駆けぬけたとき右足首を骨折したという。幸いそれは跳躍時の軸足でなく，まさかそんなことで骨折するとはだれも思わないから，彼女はそのまま競技に臨んで 1.92 m を跳び，予選を通過した。そのあと骨折と診断されて，決勝を辞退した。

トピッチには，それができなかった。彼女は昨年パリ・オリンピックで骨折していたからである。
（つづく）

その試合結果をすでに知っている目で見ると，上の見通しは取らぬ狸の皮算用であったとわかる。しかし，あの中断のあとジョジックが雨のなかで自己記録を更新すると，だれが予想しただろう。28 歳のジョジックは，選手生命をかけて 2.00 m を跳んだ。ベラルーシの陸連がドーピングについて曖昧な姿勢を貫いたために，彼女は東京オリンピックに出場できなかった。業を煮やしてポーランド国籍を取得し，裏切り者とののしられながらポーランド代表として出場したパリ・オリンピックで，彼女は予選を通過できなかった。東京の世界陸上で 2.00 m のバーを目の前にして，彼女は足の一本や二本折れてもかまわなかったのかもしれない。

2.00 m に失敗したら，1.97 m を 1 回目でクリアした自分が二人より上位となる。マリヤ・ジョジックは 1.97 m を 1 回目でクリアしていたが，彼女の自己最高記録は 1.97 m で，雨のなかで記録を更新するとは考えにくい。もしかしてアンジェリーナ（トピッチ），ジョジックと並んで 3 位タイいけんじゃね？

2.00 m の試技の途中で，一度目の，1 時間近くにおよぶ中断があった。その段階でトピッチから見た試合経過は次のようなものだっただろう。1.97 m をクリアしたのは，6 人。その時点までは，雨が降っていなかった。トピッチ自身の自己最高記録は 1.98 m であり，それを跳んだのは昨年の春だった。今年はその高さを跳べていないし，雨が降っているから，2.00 m は無理かもしれない。オリスラーガース，マフーチクの 2 人は，悪条件下でも 2.00 m をクリアするだろう。パターソン，レフチェンコは 1.97 m を 2 回目でクリアしていたので，もし彼女たちが自分と同じように

その結果，女子走高跳のマットを拭くタオルは残っていなかった。おそらく競技前から準備されていた数枚のタオルで，係員はマットを拭こうと試みたが，それはなんの役にも立たなかった。係員たちは，モップとグラウンド・レーキ（とんぼ）とを用いて人力で助走路の水たまりを駆逐したが，選手たちはバーの向こうのマットで水浸しになった。

トラックでリレーが行われ，フィールドの一方の半円で走高跳が行われていたとき，もう一方の半円とフィールドの長方形部分を用いて，男子円盤投げの決勝が行われていた。走高跳の選手が雨で足を滑らせると選手生命にかかわるが，円盤投げの選手が手や足を滑らせると，選手本人と周囲の人命にかかわるおそれがあった。円盤投げの審判は，運営本部が調達できるすべてのタオルを持ってくるように命じ，実際，係員が手押しの台車いっぱいの白いタオルを運んできた。円盤投げの係員たちは，すべての円盤をタオルで拭くとともに，雨が弱まるごとに，選手の足場となる部分の水たまりをタオルで吸いとった。

真剣にやっているのかと彼女に詰めよった。ローザンヌ（スイスのフランス語圏）の記者とウクライナ人選手とが英語でやりとりしたので，マフーチクが「ローザンヌのお客さんは素晴らしい」と見当違いの返事をしてことなきをえたが，彼女の怪我は深刻ではないかと思われた。それにしても，それはスイスの雨だった。東京の夏の雨は，彼女たちの予想外だったかもしれない。彼女たち 6 人全員はその条件のもとで，2.00 m に挑んだ。

雨の国立競技場に残った 6 人は，ひと月前，8 月 20 日にローザンヌ（スイス）で行われた万達ダイアモンド・リーグの競技会で，雨のなかの跳躍を行ったばかりだった。そのころすでに選手たちは東京へ向けての調整を心がけていたので，彼女たちは無理をしなかった。ローザンヌ大会の優勝記録は，1.91 m。ふだんなら予選落ちする高さである。それを跳んだのは，オリスラーガース，ジョジック，パターソン。レフチェンコ，トピッチは 1.86 m。マフーチクは，2 回跳んですべて失敗した時点で棄権した。マフーチクが試合で一度も跳躍に成功しなかったのは，彼女が十代の新人だったとき以来の出来事だったので，地元の記者は，

競技再開を宣言しても，雨で足が滑らないと保証してくれるわけではない。

しかしフィールド競技は事情が異なる。走高跳選手は，助走で得た運動エネルギーを利用してバーを越える。ジャンプする瞬間に運動の方向が変わるので，選手はそのとき，物理学用語で言う「力積（impulse）」を受ける。そのさい運動エネルギーの損失を最小にするには「弾性衝突」を起こすといい。硬いほどエネルギーのロスは小さい。選手は，踏切足の踵から頭の先，指先までを，一本の棒のように硬くしてフィールドを蹴り，その反作用の「力積」を片足で受ける。走高跳選手は，前方のみならず踵にもスパイクの付いた専用の靴をはいている。瞬間に大きな力を受けるので，そのとき意図せず足の位置がずれると怪我の原因となる。審判が

その日は選手権大会の最終日で，トラックでは各種のリレー決勝が行われていた。4 × 100 m リレーで小池（日本）が『One Piece』のポーズをとったのを見て，ライルズ（米国）が大ウケした，あの時間帯である。トラック競技は雨のなかでも行われていた。

やがて審判が小雨になったと判断して競技が再会されたが，中断のあいだ雨のかからない場所で寝ていたマフーチクが，フィールドに戻って一度試技を行っただけで，三つ編みを絞ったら水が滴った。だれがメダルを穫るかわからない状態で，審判は二度目の中断を宣言した。

それは，最近の日本の夏に見られる，水煙を上げる大粒のスコールだった。競技は一時停止され，おそらく審判が雨雲レーダーを見て決めたのだろうが 30 分間の中断が告知され，その時間が過ぎるころにあと 10 分，さらにあと 10 分と中断が 1 時間近く継続した。