ここはシーアン シティ きんもくせい かおる ふるい おうと
14.09.2025 13:33 — 👍 0 🔁 0 💬 0 📌 0@crowingspear.bsky.social
煌めきはあなたのそばに
ここはシーアン シティ きんもくせい かおる ふるい おうと
14.09.2025 13:33 — 👍 0 🔁 0 💬 0 📌 0こうしてみると、量子論的な揺らぎのアナロジーを通してもなお、スピノザが語った理性と自由の意義は現代に息づいている。人の理性が淵へと辿り着くその困難ゆえに稀な地点こそ、自然=神への愛の表現である。そしてこのことは『全ての高貴なるものは、稀であるともに高貴である』という彼の言葉を、決定論が破れた現代においてさえ成立可能であることの証左である。
14.09.2025 04:06 — 👍 0 🔁 0 💬 0 📌 0スピノザ哲学を量子論の文脈に位置付けようとするとき、自由とは自然の外部へと脱出することではなく、自然の最深の本性(その秩序性と不確定性の両義性)を深く理解し、それへと能動的に参与することである可能性を指し示すことができる。理性は、不確定性を消去する冷徹な計算器ではなく、不確定性と如何にして向き合うべきかを教える実践的叡智へと変貌する。量子の淵において「えいや」と決断する我々の姿は、自然の一部たることの謙虚さと、その自然的創造性へ参与する者の誇りとを、等しく象徴しており、これが現代(わずか100数十年前にアップデートされた)における、理性の「倫理」的態度である。
14.09.2025 04:06 — 👍 0 🔁 0 💬 1 📌 0さらに発展的に言えば、「淵へ到達するまでの理性の働かせ方や淵における最後の決断」という概念は、個人の理性や決断に選好の余地を生む。つまり、意思決定のプロセスに還元不能な「淵」(確率的な揺らぎや選好の介入点)が存在するならば、人々が異なる選択をすることは、自然の本質に根ざした「必然的な結果」 となり得る。異なる選択が必然的であれば、個人間で選好が似通ったもの同士、違う傾向もの同士を必然として生じさせることとなる。それはすなわち「多様性」の存在を肯定しており、それが単に無知や誤謬の産物ではなく、世界の構成原理に由来する貴重な性質として説明されることにもつながる。
14.09.2025 04:05 — 👍 0 🔁 0 💬 1 📌 0このような考え方は、あくまで一つの哲学的視座であることを認めねばならない。量子効果が巨視的な意思決定に有意な影響を与えるか否かについては、なお慎重な検討を要する問題である。しかし、本論の核心は特定の物理学的実在性を立証することにはなく、「不還元的な揺らぎ」というメタ概念的枠組みの有効性を探る点にある。この概念が理論的に認容されうるならば、意思決定のプロセスに、決定論的な因果連鎖のみでは回収し得ない「何か」が存在するという哲学的物語は成立し得る。この視座は、自由と責任という古来の難題に対し、新たな光を投げかける一つの基盤を提供しうるのである。
14.09.2025 04:05 — 👍 0 🔁 0 💬 1 📌 0これは単なるランダム性への屈服でも受動的諦観でもない。自然の秩序を最大限度まで把捉した上で、その理解不能な揺らぎの部分を自ら引き受け、次の一歩を「創造」する、能動的かつ自由な参与なのである。この一連のプロセス—理解への希求と、断崖への挑戦—その全体が、現代という時代において「神(自然)への愛としての理性」が採りうる、一つの新たな姿を示唆する。
14.09.2025 04:05 — 👍 0 🔁 0 💬 1 📌 0ここで、この「淵」の存在可能性は、決定論的世界観に立脚し必然性を前提としたスピノザの理性観を否定するものではなく、むしろその意義を深化させる一つの視座を提供する。つまり、理性の役割は、不確定性を排除して唯一の静的な真理へ到達することではなく、自然の法則性を可能な限り明晰に理解し、その理解の果てに現出する「不確定性という自然の本質」を明るみに出すことへと変容する。そして、その淵を目前とした時、淵を乗り越えAまたはBを掴み獲るという、人間に残された真に能動的な行為—それが「えいや」という決断の名に値する所以である。
14.09.2025 04:05 — 👍 0 🔁 0 💬 1 📌 0これ以上考えても、Aという選択肢が正しい確率が70%、Bが30%、さてどちらを取るか。どう考えても、それ以上どうしても詰めることができない」というような「飛び越えるべき淵」に立っているような状態である。人の意思の原因を遡行する営みは、決定論=唯一絶対の「正解」へ至る道程ではなく、揺らぎのこの最終判断を行う「淵」へと至る過程そのものなのである。
14.09.2025 04:04 — 👍 0 🔁 0 💬 1 📌 0そこで問題は、人間の意思や意識の営為に移る。脳内の神経活動、シナプスにおける伝達物質の放出—これらの過程を分子・原子レベルへと還元してゆくとき、その記述はやがて量子論的挙動を無視し得ない領域に接近するかもしれない。しかし、今回、量子効果の生物学的実在性という物理学的な現象ではなく、これをアナロジーした哲学観を根幹に据えて以下の主張を展開することにする。重要なのは、「なぜ」という問いを繰り返し無限後退させた果てに到達する還元的説明には限界が存在するというメタファーとして量子論が機能することである。端的に喩えるとこうだ。「
14.09.2025 04:04 — 👍 0 🔁 0 💬 1 📌 0ここに、二十世紀に登場した量子論は、一つの示唆に富む視座を提供する。スピノザの時代を規定した機械論的自然観においては、ビリヤードの球がどこに弾かれるか予測できるような、決定論的な因果連鎖によってイメージ可能であった。対して量子論は、微視的レベルにおける現象が本質的に確率的性格を帯び、不確定性原理が根源的な制約として作用する可能性を示した。粒子の振る舞いは、厳密な因果性によっては記述し尽くすことが難しい側面を持ち、確率波動として記述される面を持つ。この「量子論的ランダム性」は、認識主体の無知に由来する不完全性を示すものではなく、自然の構成原理そのものに内在する性質の一側面である可能性を開く。
14.09.2025 04:03 — 👍 0 🔁 0 💬 1 📌 0スピノザの哲学体系の根幹は、「神即自然」という徹底した一元論に置かれている。ここでいう神は、人格的な意志を持つ存在ではなく、宇宙を貫く永遠不変の法則そのもの、すなわち秩序立てられた全体としての自然なのである。彼は人間の認識を三段階に区分し、その最高位に「直観知」を位置付けた。これは個別の現象を出発点としながらも、それを生成する神の本質へと直接遡及する認識であり、同時に「神への知的愛」という能動的かつ至福の感情を必然的に伴う。理性とは、世界を部分的な誤った認識(想像)からではなく、神的な全体性とその必然性の観点から観照する能力の謂いに他ならない。
14.09.2025 04:02 — 👍 0 🔁 0 💬 1 📌 0量子“倫理学”(エチカ)
「神への知的愛」— バールーフ・スピノザがその主著『エチカ』において提示したこの概念は、理性の到達しうる最高の境地を示すものと解されてきた。それは神、すなわち自然の必然的秩序を理解し、それと融和一体となることによる至福の認識である。しかしながら、「自然の必然的秩序」は、スピノザが生きた時代の決定論的自然観に立脚している。もし彼が現代に転生したとするなら、量子論が明らかにする原理的な不確定性と確率的法則に貫かれることを前提とした哲学観を持っていても不思議ではない。そのレンズから見た世界観において、理性と自由の意義は如何なる再定義を迫られるだろうか。
不確定性倫理|Pman(ぴーまん) @crowingspear #note
12.04.2025 18:35 — 👍 0 🔁 0 💬 0 📌 0お?
09.04.2025 10:25 — 👍 0 🔁 0 💬 0 📌 0crowingspear.hatenablog.com/entry/2025/0...
#エイプリルフール
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早く消えてえ
27.10.2024 10:27 — 👍 0 🔁 0 💬 0 📌 0なんでもないわ
18.10.2024 08:19 — 👍 0 🔁 0 💬 0 📌 0うるうる
17.10.2024 10:28 — 👍 1 🔁 0 💬 0 📌 0例によって休暇明け初出勤でバッド来た
07.10.2024 22:57 — 👍 0 🔁 0 💬 0 📌 0@silane2744.bsky.social だよね
30.08.2024 16:09 — 👍 0 🔁 0 💬 0 📌 0ワイヤレスイヤホンとどいたら朝散歩はじめるわ
09.07.2024 07:36 — 👍 0 🔁 0 💬 0 📌 0🐦⬛
09.07.2024 07:35 — 👍 1 🔁 0 💬 0 📌 0まじでずっと頭に血流いってない
05.06.2024 11:04 — 👍 0 🔁 0 💬 0 📌 0しんど
05.06.2024 11:04 — 👍 0 🔁 0 💬 0 📌 0粗品の笑い
28.05.2024 10:10 — 👍 2 🔁 0 💬 0 📌 0俺本読め本
08.04.2024 02:11 — 👍 0 🔁 0 💬 0 📌 0にほんかえりたくないよ〜
26.03.2024 04:17 — 👍 0 🔁 0 💬 0 📌 0blueskyでRR-ワイルド・ヴァルチャーと言った初めての男、Pman
07.03.2024 02:37 — 👍 0 🔁 0 💬 0 📌 0起きた
07.03.2024 02:36 — 👍 2 🔁 0 💬 0 📌 0