ドリジャ二連撃くん
30.11.2025 02:09 — 👍 0 🔁 0 💬 0 📌 0@kyoshun-hibiya.bsky.social
連句人 「いぶき」所属 「楽園」同人 「銀竹」代表 現代俳句協会青年部 https://note.com/hibiya_kyoshun/ 思考を書き留めるために使います
ドリジャ二連撃くん
30.11.2025 02:09 — 👍 0 🔁 0 💬 0 📌 0◤ドリームジャーニー モデル◢
クリアレンズとブルーレンズの2種ご用意致しました。
どちらも、度付きレンズ対応可能で御座います。
ec.eyemirror.jp
◆男女兼用/度付対応可能
「鶻」←こいつ〈日の鷹が飛ぶ骨片となるまで飛ぶ〉すぎる
22.11.2025 19:26 — 👍 0 🔁 0 💬 0 📌 0品字様で新しい漢字を作りましょうと言われて「䆐」を出せる気がしない
22.11.2025 19:23 — 👍 0 🔁 0 💬 0 📌 0馬が好きなんだからなんぼ馬詠んだっていい
20.11.2025 07:22 — 👍 0 🔁 0 💬 0 📌 0実際に童貞聖マリア無原罪の御孕りの祝日を祝っているところどこ
20.11.2025 07:11 — 👍 0 🔁 0 💬 0 📌 0植物の名前で「南蛮煙管」って何???????
20.11.2025 06:14 — 👍 0 🔁 0 💬 0 📌 0寒猿
こいつ季語になってるのマジでわからん
youtu.be/P_sBALzyd9k?...
俳句をアホほど作らねばならんがもうこれである
「㜻」意味が「見目良い」で音読みが「レン」らしい
カレンチャンの香港表記これだろ
kanji.jitenon.jp/kanjiy/19249
「てんこい!」は私もわからないです。記憶違いでしたかね……。
FF外の方から助けられるという経験が初めてだったのでとても嬉しかったです。ありがとうございました!
AもすなるBといふものを我もしてみむとてするなり構文使いたいのだがうまいものが閃かない
09.11.2025 14:36 — 👍 1 🔁 0 💬 0 📌 0ありがとうございます!すけ式のレミリアがソフトクリームを食べるシーンだったと思います。「食べてるのに減ってなくない?」と他のキャラに突っ込まれてモデルをいじることの大変さを語りだす……という内容だったと記憶しているのですが、前後の文脈も忘れてしまっていて……
08.11.2025 06:04 — 👍 0 🔁 0 💬 1 📌 0苦しさと楽しさが同居している。
06.11.2025 16:12 — 👍 0 🔁 0 💬 0 📌 0今書いていることでMMDの話をしたいなと思った結果、高校生の時に死ぬほど見ていた東方MMDを記憶を頼りにニコニコから探すということをしている。
06.11.2025 16:11 — 👍 1 🔁 0 💬 2 📌 0いや俳句を読む力が戻ってきたと喜ばしいことなのかもしれない
04.11.2025 20:03 — 👍 0 🔁 0 💬 0 📌 0ヤバイ!!!!!今どんな句を読んでもめっちゃいいと思ってしまう!!!!!俺の美の標準が壊れた!!!!!!!!
04.11.2025 20:02 — 👍 0 🔁 0 💬 1 📌 0我愛你ってほぼ我愛羅だな
02.11.2025 13:44 — 👍 0 🔁 0 💬 0 📌 0口頭で句を読み上げたら「『われ』ってどの『われ』?」と聞かれたことを思い出した。俳人特有の悩みだなと思いつつ、そのとき「我愛你の我です」と返してしまった反省がある。通じたけどもっとあるだろという。
02.11.2025 13:39 — 👍 0 🔁 0 💬 1 📌 0「你」日本語でも意味が「あなた」なのなんか嬉しいな
kanji.jitenon.jp/kanjiy/12412
そのうちビッグマムも「シャーロットリンリンの通り名なんだっけ…」って言ってる
02.11.2025 13:26 — 👍 0 🔁 0 💬 0 📌 0ウーパールーパーですわ!
02.11.2025 13:25 — 👍 0 🔁 0 💬 1 📌 0メキシコラサマンダーの有名な方の名前が思い出せない
02.11.2025 13:25 — 👍 0 🔁 0 💬 1 📌 0「佐保姫」とか「龍天に登る」とか平句でバチクソ使いやすい季語を柳人に詠んでもらいたい願望がある
俳句じゃなくて川柳の中で使われる言葉として
藝術だと思っているものに対して「藝術ではないよ」と言われるとあたかも無価値のように感じるけど、日本のカレーとインドのカレーにはそれぞれの良さがあって、カレーの近くにビリヤニという料理もあって、藝術だと思い込んでいただけで藝術以外の尊い価値があったのでは?というのが最近の課題意識です。
31.10.2025 13:14 — 👍 2 🔁 0 💬 0 📌 0自身を犠牲にするような利他的な行動は「仲良くなりたい」のランナウェイの一つだと思っているし、陰謀論や薬物使用が寂しさから来るものであることを考えれば、人の営みを考えるときに「寂しさを遠ざけたい」「仲良くなりたい」といった感情を無視することの愚かさというか、
西洋ではキリスト教の教えと融合しながら発展してきた歴史があるけど、日本にそれはないわけで、となれば神と人との関係ではなくどこまでいっても人と人との連句だったのではないか。神社に奉納する連句とかあるけど。
例えば短連歌から連歌成立の過程。
身内同士で殺し合いをする世の中で連歌がどう機能していたか。
芭蕉以前は。芭蕉はなぜ藝術的領域にまで至れたのか。
などなど考えることは多い。
最近、自分の中で連句は藝術ではなくコミュニケーションツールだったのでは、という考えが大きくなりつつある。
藝術という概念は西洋からやってきたこと。
藝術伝来以前の日本には藝術以外の価値観があったこと。
以上二点を踏まえれば、連句を藝術として取り組む、藝術として捉えるというのは新しい試みで、原初の形や伝統的に行われてきた形を無視しているのではないか。
人間の様々な営みが「仲良くなること」に起因しており、連句にもその側面はある(本歌取りや捌きの働きなど)。であれば連句がこれまでの歴史においてどのように機能してきたか。それを知らずして連句は語れないのではないかとも思う。
子規の著作の中で俳句を句じゃなくて首で数えてること全然あるんよな。
いつからこんな句と首を使い分けるようになったんだろう。
「蟻の眉間」って存在する慣用句だとずっと思ってた。ヤソップの台詞の中にしか登場しないと知ってめちゃくちゃ凹んでる。
28.10.2025 18:22 — 👍 0 🔁 0 💬 0 📌 0