陽気でいることが、
肉体と精神の最上の衛生法です。
(ジョルジュ・サンド)
(フランスの作家)
1804年―1876年
@shouta07.bsky.social
はじめましてー! Vtuber及び声優さん大好きなshoutaと申します! こちらでもどうぞよろしくお願いいたしますm(_ _)m (※やたら神かわいい&ベリーキュートを連発します 何卒ご了承いただきますようよろしくお願いいたしますm(_ _)m
陽気でいることが、
肉体と精神の最上の衛生法です。
(ジョルジュ・サンド)
(フランスの作家)
1804年―1876年
大いなる安らぎの心は、
賞讃も中傷も気にしない人間のものである。
(トマス・ア・ケンピス)
(ドイツの神秘思想家)
1380年―1471年
財産よりも、もっと尊いものは 「明るい性格」 だ。人間の心も体と同じだ。
日陰にいるのではなく、日光の照る場所に移るべきだ。
困ったことがあっても、笑いでふっとばしてしまおう。
(アンドリュー・カーネギー)
(米国の実業家)
1835年―1919年
に過ごせる場所と時間を大事にしましょう。
『人生はワンモアチャンス! 「仕事」も「遊び」もさらに楽しくなる66の方法』
(水野敬也・長沼直樹、著)より
『ノー天気って、無敵』
(ディオゲネス)
(古代ギリシャの哲学者)
紀元前412年頃―紀元前323年
「狂ったソクラテス」 の異名を持つ哲学者・ディオゲネスは、自由と理性を重んじ、財産を持たなかったので、街中の大きな樽(たる)の中に住んでいました。あるとき、マケドニアの王・アレクサンドロスがディオゲネスを訪ねて 「何か望みはないか」と聞きました。ひなたぼっこをしていたディオゲネスは 「そこをどいてもらいたいです。日が陰(かげ)りますから」 と答えました。王は 「私がアレクサンドロスでなかったら、ディオゲネスになりたいものだ」 とつぶやいたそうです。世間体を気にせず、自由気まま⬇(続き)
人知れず徳を積む者には、必ず誰の目にも明らかなよい報いがあり、
隠れて善行をしている者には、必ずはっきりとした名誉があるものだ。
「『淮南子(えなんじ)』」
陰徳(いんとく)を行え。そしてそれが、
あなたに名声を与えたら赤面しなさい。
(アレキサンダー・ポープ)
(イギリスの詩人)
1688年―1744年
報酬を求めない奉仕は、他人を幸福にするのみならず、
我々自身をも幸福にする。
(マハトマ・ガンジー)
(インドの弁護士・社会運動家)
1869年―1948年
わかりませんでした。実はその紳士こそがモンテスキューで、彼はこの善行を生涯、誰にも語りませんでしたが、死後、日記を調べると、このときの出来事と身代金の金額が記されていたのです。称賛されるためではなく、相手のための行動を起こしましょう。
『人生はワンモアチャンス! 「仕事」も「遊び」もさらに楽しくなる66の方法』
(水野敬也・長沼直樹、著)より
『いいことは覆面で』
(モンテスキュー)
(フランスの法学者・哲学者)
1689年―1755年
フランスのマルセイユで起きた話です。ある紳士が船に乗り、その船頭を務める兄弟と身の上話になりました。兄弟は海賊に捕まった父を助けるために働いていると言ったので、紳士は苦労をねぎらい、多めに船賃を払っていきました。数ヶ月経ったある日、その兄弟の元に父親が帰ってきて言いました 「ありがとう。お前たちが身代金を払ってくれたおかげで助かった」。兄弟は顔を見合わせました。身代金はまだ払えていなかったからです。きっとあのときの紳士が身代金を払ってくれたのではと想像しましたが、結局どこの誰か⬇(続き)
二度と帰らぬものは過ぎ去った歳月である。
二度と会うことができないのは死んでしまった親である。
(孔子) (中国春秋時代の思想家)
紀元前552年―紀元前479年
人間の生き方を決定づけるのも、あるいは、ビジネスの成果を
左右するのも、誰と会えたかという人間関係に基づくことが
おどろくほど多いのです。
(平岩外四) (実業家)
1914年―2007年
常にオープンで正直であれ。コミュニケーションを怠(おこた)らずに。
友人に電話し、同僚の助言を聞き、憧れの人には声をかけろ。
(マーク・ザッカーバーグ)
(フェイスブック創業者)
1984年―
真似たりしました。こうしてあっという間に5分は過ぎたのですが、淀川はチャップリンに船室に招き入れられ、その後40分間、二人きりで話す機会に恵まれました。会いたいと思う人がいれば、怖れることなく会いに行きましょう。
『人生はワンモアチャンス! 「仕事」も「遊び」もさらに楽しくなる66の方法』
(水野敬也・長沼直樹、著)より
『会えるときに、会っておこう。』
(淀川長治) (映画評論家・解説者)
1909年―1998年
日本におけるチャップリン評論の第一人者とされる映画解説者・淀川長治。彼が27歳で大阪の映画会社に勤めていたとき、新婚旅行中のチャップリンが船で神戸港に来ているという情報を得ました。チャップリンの大ファンだった淀川は 「行く」 「行きます」 「行かせて」 と30回も担当者に頼み込み、内密に行く許可を得ます。5分だけという約束のもと船の甲板で待っていると、そこに憧れのチャップリンが現れました。淀川は興奮してありとあらゆるチャップリン映画を見たことを告げ、映画『移民』や『番頭』でのポーズを⬇(続き)
勇気と無謀を混同してはいけない。
(H・ジャクソン・ブラウンJr.)
(米国の作家)
1940年―
もし、木を切り倒すのに6時間与えられたら、
私は最初の4時間を斧(おの)を研ぐのに費やすだろう。
(エイブラハム・リンカーン)
(第16代米国大統領)
1809年―1865年
計画のない目標は、ただの願い事にすぎない。
(サン=テグジュペリ)
(フランスの作家・飛行士)
1900年―1944年
過ごしました。現地では毎朝、氷を溶かして紅茶をいれるのが習慣でしたが、体が疲れているとどんなに砂糖を入れても甘く感じないことから、その味をその日の健康状態のバロメーターにしたといいます。大胆な挑戦をすると決めたら、臆病なまでの徹底した計画を立てましょう。
『人生はワンモアチャンス! 「仕事」も「遊び」もさらに楽しくなる66の方法』
(水野敬也・長沼直樹、著)より
『冒険は計画的に。』
(植村直己) (冒険家)
1941年―1984年
世界初の五大陸の最高峰到達者であり、国民栄誉賞の受賞者である植村直己。冒険家というと勇敢なイメージがありますが、植村は自らを 「人一倍、臆病な性格」 と分析し、「冒険で命を落としては何にもならない。私にとって冒険とは、まず『生きて帰ること』なのだ」 とも言っています。1971年、グリーンランドを縦断したいという目標を持った植村は、まず3000kmという距離感をつかむため、北海道稚内から鹿児島までを徒歩で縦断しました。続いて寒冷地への順応と犬ゾリの操縦技術を学ぶため、グリーンランドで現地のイヌイットと五ヶ月間共に⬇(続き)
今日をよく生きることで、昨日はすべて幸福な夢となり、
明日はすべて希望に満ちあふれて見える。
(レオ・バスカリア)
(米国の作家・教育学者)
1924年―1998年
すべての日が、それぞれの贈り物を持っている。
(マルティアリス)
(古代ローマの詩人)
40年―102年頃
どんな日であれ、その日をとことん楽しむこと。
ありのままの一日。ありのままの人々。
(オードリー・ヘップバーン)
(イギリスの女優)
1929年―1993年
一見価値がないように思える一日にも、喜びは見出せるものです。
『人生はワンモアチャンス! 「仕事」も「遊び」もさらに楽しくなる66の方法』
(水野敬也・長沼直樹、著)より
『日記が楽しい一日を』
(ヘンリー・デイヴィッド・ソロー)
(米国の思想家・詩人)
1817年―1862年
代表作『森の生活』を記し、後の詩人や作家に大きな影響を与えたソロー。彼は人里離れた森の中で一人で生活し、多くの日記を書きました。森での生活は彼にとって居心地がよく、たとえ一日中雨の降る日でも庭の豆畑が潤うことに喜びを感じ、止むことのない風雨の音で精神がやすらいだといいます。ソローはこう語っています 「惨めに時間を過ごさず、その時その時を感謝し、日々がもたらすものを受け入れよう。誠実で思慮深い1ページが書かれていれば、まったく無駄に過ごす一日などないに違いない」。
⬇(続き)
鈍刀(どんとう)の骨を切るは必ず砥(といし)の助けによる。
(空海)
(平安時代の僧・真言宗の開祖)
774年―835年
少数者による静かな着手、地味な労苦、黙々と、そして徐々に
向上しようとする努力、これこそがひとつの事業がしっかりと
根を下ろし、成長していくための地盤なのです。
(フローレンス・ナイチンゲール)
(イギリスの看護教育学者)
1820年―1910年
シンボルが好まれるのはわかっているが、
自分のことを書かれると、心中穏やかではいられない。
たいがいが他の大勢の存在を見落としているからだ。
(自分ばかりがAppleのシンボルとして扱われることについて)
(スティーブ・ジョブズ)
(アップル社創業者)
1955年―2011年
表に出る人だけではなく、裏でそれを支える人たちによって生み出されているものです。
『人生はワンモアチャンス! 「仕事」も「遊び」もさらに楽しくなる66の方法』
(水野敬也・長沼直樹、著)より
『水面下で頑張ろう』
(緒方洪庵) (医師・蘭学者)
1810年―1863年
緒方洪庵は29歳のときから私塾 「適塾」 を運営し、橋本左内、大鳥圭介、大村益次郎など傑出した人物を送り出しました。適塾の教育方針は、自主性を重んじる方式で、それぞれが勝手に勉強し、分からないところは門弟同士で調べたり議論し合って、それでも分からないときだけ洪庵に質問したそうです。そして、その問いに対して洪庵は丁寧に答えました。また、門弟の一人一人をよく観察していて、それぞれの希望や能力が生かせる就職先の世話をしたり、福沢諭吉が熱病にかかったときは何日も眠らずに看病したといいます。素晴らしい業績は、⬇(続き)