人間の数は増えた。それに伴って思想の縄張りは増えたが、緩衝地帯は減った。移民などによる物理的な混合に、SNS等情報空間による撹拌。どこもかしこも容易に思想の外側へアクセスできてしまい、自己の存立を脅かすかもしれない情報と触れる機会が与えられる。その恐怖は忌避感となり、攻撃性を喚起、攻撃は反発を呼ぶ。
思想生物は氾濫し、少しでも優位に在ろうとしているのかもしれない。赤潮にならなければ良いのだけれど。
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使用感を確認中。 アイコンは @yorozun.bsky.social からのいただき物。 生物化学から心理を通って不思議な所に迷い込んだ変質電波受信者。 青き鳥の墓標より出で胡蝶舞う。
人間の数は増えた。それに伴って思想の縄張りは増えたが、緩衝地帯は減った。移民などによる物理的な混合に、SNS等情報空間による撹拌。どこもかしこも容易に思想の外側へアクセスできてしまい、自己の存立を脅かすかもしれない情報と触れる機会が与えられる。その恐怖は忌避感となり、攻撃性を喚起、攻撃は反発を呼ぶ。
思想生物は氾濫し、少しでも優位に在ろうとしているのかもしれない。赤潮にならなければ良いのだけれど。
そのため「書」が同一性を保っても、見出すものの違いで宗派が分かれていく。分かれた宗派でも時代や構成する人々によって差異が生じ、変遷していく。
そして宗教は、信者数とその活動を保たねば存続できない。仮に祖の言動を正確に残せたとして、支持者がいなければ消える。
だからこそ宗教は人々の生きる土地や時代背景、文化基盤や支配構造等と適合するようカスタマイズされていき、その歩みは生物的になる。
主食が競合する生物種同士は基本的に住み分けるか、争う。どの思想も支持者の心を縄張りとし、その活動を糧とする。
聖書やコーラン、仏教経典などもそれに近いものと言えると思う。
開祖の言動を生で浴びた人はその体感を取り入れられるが、没後は伝言ゲーム。同じ開祖を体感しても、重視する部分の濃淡や意味付けは個々人で異なり、形成される理も差異が生じる。
だから開祖や歴代重要人物の言動を切り取り、体感よりも長期保存性能の高い文字列として「書」を成す。それがセーブポイントの如く機能するのは間違いない。
ただ、どうしても伝えられる情報量は少なくなり、解釈による影響は大きくなる。
例えばある事件そのものに対し、事件について書かれた書物があったとする。
200年後にその書物が保存されていても、それはあくまでその筆者視点で事件を切り取った記事。当時の人々にとってわざわざ記す必要もない大前提や空気感は多く欠落するし、筆者が重視していない情報は残らない。他の書物にも残っていない情報はどうしようもない。
200年後の人々は、自分たちの時代に由来する己の推測等を基に、残っている資料から雰囲気を想像するしかない。だからこそ、歴史作品はどんなに史実に忠実にしても幅が出る。
そうしてスパイラルを辿る人は、尺の区切りが特にないものでも楽しめるようになる。
例えばそれは、歴史小説から入り、同じ時代を別の切り口で書いたものや前後を描いたもの、現代や自分との繋がりを知るうちに、「歴史」そのものを楽しめるようなこと。その中で膨大な"おいしい所"を見つけられるようになっていく。
ある人物をうまく描くために始めた絵が、ある曲を弾きたくて始めた音楽が、そういう最初は一つの点だったものから広がっていく。
言い変えれば、それらはある体系を持つ「学び」そのものかもしれない。
短尺でおいしい所だけを切り抜いたものだけでなく、のりしろのあるものも摂取した方が、後々楽しくなるかもしれない。
これはある裏技も示す。それは"おいしい所"をクライマックスまで点在させられれば、不満干渉容量が少なくても離脱を防げる事。
コンテンツ提供側のそれは営業努力。受け手は経験によって"おいしいと感じられる所"が増やせる。そのための経験は、時に勉強や別のコンテンツに使った時間だったりする。
つまり知識経験が積み重なる程、おいしく感じる所が増え、長尺のコンテンツも摂取しやすくなるという事。そうなるとより難易度の高い新たな知識経験も得やすい。
知識経験の量という下地 → 摂取・吸収難易度の高いコンテンツの取り込み → 知識経験の量の増加 → 他のコンテンツへ
というスパイラルが作られるわけだ。
不満緩衝容量とでも言ったらよいのかしら。
あるコンテンツの"おいしい所"まで"待て"を要求された時、満たされない感覚をどの程度の尺までなら許容できるか。その容量がないと、おいしい所に至るまでノータイムでなければ耐えられず離脱する。長ければ長編モノのクライマックスまで楽しめる。
また、おいしい所の摂取に至るまでに摂取側が保管&補完しなければならない情報量も容量を食う。
適当に式っぽくするなら、
その人の不満干渉容量 - (おいしい所までの所要時間 × そこまでに要する情報保管&補完量) > 0
のとき、コンテンツを楽しめるという感じだろうか。
知らない選択肢は選びようがないし、経験の少ない子供は選択肢を知らないのが普通。どこかで親身になってくれる大人と繋がる事で、自分では思いつかない選択肢を得られる。
選択肢と、それの現状でのメリット/デメリットがわかれば、不登校以外にもっと良い結果を得られる方法があるかもしれない。
まぁ、まず「自分を大切にしてくれて、助けてくれる人」が存在すると信じてもらわなければ、学習性の無気力に陥ってしまうのも仕方ない。大切にされる、助けてもらうを一切知らなければ、それをそれと感じられないのだから。
親子関係の濃淡が極端になりやすい現代社会がこれをさらに難しくしている所もあるんだよなぁ。
小学生だった頃の自分もそうだったけど、「自分が何を忌避して学校に行きたくないのか」なんてわからなかった。状況の情報や子供の微細な反応や変化を元に仮説を立てて、それが表に出せるよう水を向けるとかしないと、子供の自覚も解決も難しい。
だから、クラスが主原因なら基本的にはまず親に相談する。次に担任や学年主任、保健室の先生、教頭や校長。その中に原因がいそうだったり、そういう人達が"誰もあてにならないと感じる"なら「子供の人権110番」や「児童相談所」への電話してみると良い。
少なくとも、そういう人たちを狙っているかもしれないSNSで好き勝手言う人を信るよりは、行政の相談窓口の方が安全だろう。
さらにそういう人が存在するとして、その人を選べるか、選べたとして繋がれるか、信頼できるか。正直これを未成年に判断させるのは酷だろう。ろくでもないのにそのタイミングで助けを求めてしまうと、はした金で体を売らされたり犯罪に巻き込まれたりしてしまう可能性が極端に高まる。組織的にそういう戦略を取る輩もいるから。
大人も騙される詐欺的な救いに向かってしまうのを「自己責任」と言うのは無理があるだろう。
だからせめて、善悪功罪で二元論的に不登校を論じるより、ケースごとにどこにどう相談するかを示すのが大人のすべきことではないかと思う。
根本原因が家庭に強くある場合。例えば親が子供の人間関係を支配しようとしていたり、家での常識があまりに特殊で学校に適応不能に陥っていたり、家に心配の種があって子供が「自分が何とかしなければ」となっている時。
この時、不登校は子供の持つ限られた社会との繋がりを一つ奪い、その子の人生を困難へ向かわせる可能性を高める。この時必要なのは児童相談所などの行政支援と繋がる事であり、不登校ではない。
ただ、そういう対応を子供が自分で気づくのはまず無理だし、そもそもできるならやっているだろう。運が良ければそういう事を相談すると適切な助言をくれる大人が環境にいるかもしれない。それは本当に運。
不登校の良し悪しが論じられてたみたいだけど、必要なのは現状理解と出口戦略じゃないかなぁ。まず「学校へ行きたくない」の原因は何か。これが正確に理解・言語化できると適切な行動を選択しやすくなる。
例えば学校原因の場合。「クラス内いじめ」でも、特定の数人のみ関与、クラスの大半が関与、先生も関与かで必要な対処範囲は変わる。学校の体質にもよるが、いじめの程度や広がり、不和の因子等次第で不登校でなくとも他の分離方法を取れる可能性はある。
いじめでなくとも、先生やクラスメイトに苦手な人がいるとか、家と学校で求められることが相反すとか、そういうものも解釈や意味、落とし処を見いだせば大丈夫になる事もある。
「女性に奢るのを基準とする男性」「奢らないのを基準とする男性」、「男性に奢られるのを基準とする女性」「奢られないのを基準とする女性」、みんないていいと思うんだよね。
互いの基準に対する理解を通じて、その中で合う人たちが付き合えばよいし、納得できたら鞍替えしても良い。納得できない人はその相手をあきらめる。諦め切れないなら自分が変わる。
結構単純な話だと思うんだけど、「どっちが正しい」ってするからややこしい事になってしまうんじゃないかなぁ。
いずれにせよ、私にはそんな金も人間関係もないので無縁だがね。
「女性に奢る」が標準装備の男性は既婚者となってもその行動基準は変化しないんじゃないか。仮にそうだとすると、最終的に家計を共にするなら「この人には奢る」を選ぶ人の方が重宝する事になるのじゃなかろうか。未婚→既婚とか何らかのタイミングで切り替える人もいるかもしれんけど。
モテるというのは入口戦略ではあるけど、継続・出口戦略ではないからなぁ。
男女関係なく言える事だけど、自分の重点評価項目で相手のスタンスが決定的に合わないなら、次を探した方が大概の場合は効率的だとは思う。望み薄の高望みとかでなければだけど。
いくらその相手の文句や悪口を言っても、相手は納得しなければ変わらない。むしろ逆効果だろう。
自分が何を求めているのかもわからないままお金や時間を使い続ければ、相当に運がよくない限りはいつまでも満たされない。
これは、訳も分からずランダムにさまよって数十km先の目的地に着く確率が極めて低いのと似たようなものだ。
満たされたいなら、自分に空いている穴をきちんと知る。これ重要。
足るを知るというのは、自分に空いた穴を理解して受け入れ、丁度よい大きさや形で上手く塞げるものを見つけて取り入れ、自分となじませていく技能とも言える。
ただ諦めてやせ我慢するのと、足るを知るというのはそういう意味で根本的に違うと思う。
儲けを目的に宝くじを手段として選ぶ人には……ってなるけど、わくわく感や妄想で楽しむ時間をたった300円~で当選発表を見るまで感じられるのは安い。
当たらないと嬉しくないなら、それは楽しむ事自体が下手か、宝くじを楽しむのに向いてないということ。高いと思う額は出さなければ良い。
同じ商品を買うにしても、「どういう目的に対してその金を使うか」を決めるのは自分。
これはとても大事なこと。
「買う」の意味は、それのもたらす体験にある。従って、「買う」の意味を大きく積み上げられるなら、商品が同じでも満足のコスト・タイムパフォーマンスは上がる。
そのためにも、まずは己を知り、昔と今の時代の違いや流れを理解していきたいところではある。
まぁ精々精進するとしましょ。
例外は有れど、基本的に人間は自分と近い属性や思想を持つ者に安心感を覚えやすいようにできている。そうなるのは仕方ない。
しかし、同質なものばかりで身の周りを固めてしまえば、心の固着化を招き、異質な者をどんどん受け入れにくくなっていってしまう。歳を取るほど新しいものに対して過度に拒絶的になって行ってしまう人が増えるのもその一つだ。青春時代過ぎくらいに最適化する事で一旦仮の完成となった個人のシステムは、時々アップデートを刻んでいかないと時代の要求するものとの解離が大きくなりやすいので。
まぁ、先入観をよけて自分の範囲外に視線を向けようとする試みは、生きやすさの観点で有益なのではないかと思う所。
チームでなければ対人スキルより機体性能・操縦能力が比較的評価されやすいだろうが、性能と能力だけで上下を決める者は恨みを買ったり足を引っ張られたりしやすく、大切な仕事を任せるには依頼主も躊躇するだろう。
そういうやり取りが積み重なると「正当に評価されない!」というフラストレーションに陥る。
こんな感じでIQに固執してしまえば、IQの性能が高かろうが自分の意見に固執し、聞く耳を持ちにくくなる。当然、その事関連の話はまともにできなくなるだろう。ただ、そういう事態と関係なければ問題なく能力を発揮しやすい。まぁ本当にIQが万能なら、どう振舞ったら評価されやすいか計算し、それを実行すれば良い話だがね。
もちろん『ハイエンド機の扱いも巧く、前現場からも太鼓判を押される仕事ぶり』はまず間違いなく早い者勝ちだし、『旧式量産機しか扱えないうえに、ギスギス&トラブルメーカー』は人員が足りていなくても入れるか議論が必要だろう。とまぁ、同じ機体性能なら人間関係を良好に保てる者を選ぶだろう。
仮にそうして入った者が突飛な行動をしたとして、その理由を説明して納得させられたり、チームリーダーとしての行動の裁量を部分的に委任しても良いほどメンバー全員が信頼していれば、チームは崩れない。裏を返せば、それが抜けた独断行動はチームを崩していく。
逆に、非常に近い文化背景でも野球原理主義者vsサッカー原理主義者みたいに相容れぬ対立が激化すると相手からの悪意は感じやすく、相手に悪意的言動をしやすくなる。これが不信。そうなれば連携は難しく、酷いと足を引っ張り合い、結果チームとしてできる事が減り、味方に損害が出る事すらある。
ここで自分が主任で、現在チームは上手く回っているとしよう。
新入りの選定で『旧式機しか扱えないが、前の現場仲間が太鼓判を押す地道なパイロット』と『ハイエンド機の操縦は上手だが、ギスギス&トラブルメーカーなパイロット』の選択肢ならどちらをチームに入れたいか?と考えてみると良いだろう。人によって答えは違うかもしれないが。
そして単独でなく連携が必要なミッションでは、どんなに機体の総合評価が高くても遂行に必要な連携を取れなければ浮く。そのため、チームの成果を最大化するには、各機の性能及びパイロットの傾向に応じた立ち回りの構築が必須。これには信頼関係の醸成がまず要る。
機体は好き嫌いしない。パイロット同士は文化背景(言語・ハンドサイン・目的意識…)が近いと早くコミュニケーションが取りやすい。ただ、コミュニケーションコストを相互に払えば、文化を超えて共通理解を増すことも可能で、上手くいけばチームとしてできる事に幅を出せる。そして性能の低い機体で前線は危険だが、帰還機の整備に寄与すれば部隊の継戦能力が上がる。
話が通じなくなるのはIQ差みたいな話を中心教義に置く人がいるけど、私はそれはどうなのかと思う。
例えばガンダム的な機体を思い浮かべてもらうとする。その機体の総合評価(総合IQ)が高いことは必ずしも全てのミッション(ex. 前線・警邏・兵站・建築...)に有効ではないし、機体パラメータ(IQの種類:言語・推理・メモリ・処理速度)とパイロット(本人の性格傾向・強く出やすいコンプレックス、トラウマ・昔取った杵柄…)の組み合わせで実力を発揮しやすい分野が細かく変わる。
器の大きい大人か。自分を大きく見せたい人にとってはキラーワードだよなぁ。
そういう欲求を持った人を「文句を言わずに従う都合の良い人」にするためには使いやすそう。
己の芯をよく観察して欲求を知り、己が欲求と現状を繋げて自他ともに心地よい環境を作る。そのためには排するべきものもあれば、執着が必要なものもある。己が言動は一種の環境づくりで、取捨選択が未来に繋がる。
選ぶ事への慣れは、人生の各所で役立つ事だと思う。
悪意的利用をされないよう対策を打つべきことは数多あるけど、自分たちが何をするかではなく、他国を責めたり罵って人気が上がるなら何某かの末期症状だろう。事実として原因がそこにある場合も、無い場合も、それがどこの国でも。
ほんと平和って難しいなぁ。
「自分なんて、まだまだ(触れてない面白いもの、楽しい事、珍しい現象いっぱい)です」
一応謙遜が必要な時は、心の中でこのフレーズを付け加える事で自分にかかるものを変える。噓は言ってない。
煽り方なんていくらでもあるし、その中には自分の食らいやすいものがあるのが自然だしね。
ちゃんと素材の味を知っておくのは重要だわ。
外界の圧力に流されるでも反発するでもなく、自分の楽しさ・喜びがわかる事は、へその緒が切れてもOKな状態なのかもしれない。アンビリカルケーブルが無くても内部電源のリミットがなく、自発呼吸できる。自らを由とし自らを在らしむ。
世のしがらみは家畜を樹に繋ぐ恐怖の絆で、心の代謝に必要な成分を供給する快楽のへその緒。なるほどよく絡まるわけだ。
一切のしがらみを無くせば人間でなくなるけど、自由自在とはいかないながらも感じる事を置き去りにせず生きたい所。
自分の感情のはずなのに、市販のソースかけたらその味になってしまうし。
新しさで煽れる層と煽れない層が顕著に分離してきてるのかも。
人口構成年齢や所得減少、娯楽の多様化の影響かもしれないけど、「新しい=良い」が主流だった時代とは煽り方が変わっている。
広域固定型メディアの求心力が薄れる程に、シリーズ、ナンバリングタイトル、既存ヒット作のある著者や制作陣、名作、古典といった、既存ファンコミュニティが存在するものが強くなる傾向にあるのは、楽しみを見つける事にさえ孤独の恐怖感が色濃く出ている。とも言えるかも。
シリーズ2作目やっと書き終わりもうした。5000字超えてしまった。
さて次だ次。
①生物的欲求と人間
note.com/kirat_neko/n...
②意思と心と体の関係 note.com/kirat_neko/n...
③心の成り立ちと動き(仮)
執筆中……