「責任範囲のマスキング」のおはなしに関連して、
たとえばあるAIソフトウェアに指示語を打ち込んで、AIがそれに基づいて成果物をつくる……というとき、指示語を打ち込むニンゲンの立場というのは、既存の概念で考えるなら「ディレクター」の職能領域にあたると考えられる☝️
であれば、上述の「シンプルで素朴な、平均的な消費者感情」に照らし合わせたとき、
たとえばボーカルディレクターが「ボーカル」としてクレジットされることが消費者の期待にそぐわないのと同様に、
AIへの指示語入力でボーカルデータを得たひとを「ボーカル」としてクレジットすることもまた消費者の期待にそぐわない、と考えることができそう💭
09.03.2026 16:16 —
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おはなしを戻して、
③「メインボーカルデータをもとにハモリトラックを半自動で書き出すAIプラグイン」
これはどうだろう?先の「専門的成果と責任」のおはなしに照らし合わせて……これはセーフととるひとのほうがやや多そうではありつつ、アウトととるひともいそうなラインだ📏 ①と②のような、必ずしもわかりやすく線を引けるケースばかりではないことに十分留意する必要はありそうだね……というところになってくる💭
07.03.2026 18:18 —
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別の事例からこれを紐解くのであれば、
「ゴーストライター」の存在が明るみに出た時にひどく大きな問題になったり、逆にさほど取り沙汰されなかったり……というばらつきがあるのは一見奇妙に思えて、
そこには上述した「平均的な消費者が暗に求める専門的成果と責任」が期待値としてどの程度のものであったか?というところが深く関係していると考えれば、じつは矛盾がないともとれるのよね💡 簡単に言えば、「シンガーがゴーストライターを雇う」のと「クラシック作曲家がゴーストライターを雇う」のでは、当然後者の重みは前者の数倍数十倍になるよね、というおはなしだ✒️
07.03.2026 18:09 —
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この2つのケースにおいて、そのプラグインの利用が消費者に開示されたとき、消費者側のヒトの素朴な感覚として中央値となるのはおそらく
「①は許容できるが②は許容できない」ではないか?とわたしは考える💭
要するに①と②の違いとして、本人による専門的成果(この例では技能としての「歌唱」)ならびに責任範囲をマスキングするものであるかどうか?というところが大きくひとつ挙げられるということ🎧 中央値的な消費者はシンガーによる専門的成果と責任を少なくとも暗に欲しており、その成果としてのありかたを①は阻害しないが②は阻害する、というところになる✒️
07.03.2026 18:01 —
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いったん「コピーライト」や「文化倫理」という変数を考慮しない、できるだけシンプルで素朴な「消費者心理」を想定して考える、という前提で思考実験をしてみるんだけど
あるシンガーが自身の歌ってみたにAIプラグインを使う場面として、たとえば下記の2つを想定してみる
①「録音データをアナライズし、自動で部屋鳴りや雑音を消すAIプラグインを用いた」
②「録音データをもとに"より上手な歌唱"を半自動的にデータとして書き出すAIプラグインを用いた」
07.03.2026 18:01 —
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"正直よくわかんないけど、イヤなもんはイヤ!"で全然いいというか、その感覚は文字通り仕方のないものだとわたしはおもってて、そういう素朴な感覚が存在することそのものは考える材料として、むしろすごく大事なものだとおもう💭(もちろん、だからといってその感覚への保護が無制限に保障されるものではないけれど)
で、おそらく典型的な行動パターンのひとつとして、
"わかんないけどイヤ"に対してわかんないまま妙な理屈を付け足しちゃうというのがあって、これがよろしくないよなという感覚はある 説得力を上げる意図での行動がそのままむしろ論理面での付け入る隙になって、説得力を下げちゃってる✒️
06.03.2026 08:20 —
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というかこれはSNSに限らずだけど、ニンゲンという生き物の中央値をとったとして、その中央値は恐らくだけど「議論できない」をとるだろう……というのは苦々しくも了解しておかなければならないことだな、とおもう⚡ それは教育がどうこうとかいう以前のおはなしとして、恐らく(中央値というシステムで見る限り)ニンゲンというのは議論だとかなんだとか、そういう生き物じゃないということで……💭
もちろんかくいうわたしも、いまは「話が通じるやつ」でいられてる(と思いたい)けど、いつ中央値側に振れるかわからないからね🐟 気を付けなければ
26.02.2026 16:32 —
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"自らの主張を一歩たりとも譲りたくない"が第一にあるのであれば、「議論する」というのは百害あって一利もない愚かな行動選択だ、というところに自ずとなってしまうのであって(現実的には、議論とは互いに大なり小なり譲らねばならない可能性を前提としていることがほとんどなので)、
"SNSは議論に向いていない"の本質はそこにあるとわたしはおもっている💭 システムのおはなしというよりもヒトのおはなしなのだ、という理解
26.02.2026 07:49 —
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Whataboutismについていろいろわたしなりに言語化してみて、結果「……言うほど詭弁だと言い切れなくない?」というところになり、次に「あ、だから滅びなかったんだ」と非常に納得しました💡 真に混ぜる嘘が嘘の中でもっとも厄介であるのと似たおはなしで、「もっともな言論」と「もっともらしい言論」が判別のつかないまま混ぜこぜになってる状態が、詭弁を弄す側としてはいちばん都合がよいわけだ!✒
13.02.2026 07:28 —
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もうひとつまた別の例として、「よりグレーで判別の難しい領域の場合」について考えてみる、たとえば「これは批判か、それとも誹謗中傷か?」という問題⚖️
「それは誹謗中傷だ」という指摘に対する「お前も言ってただろ」という反駁は、論点ずらしではなく「あなたの当該発言が許されるなら、わたしの当該発言も許されて然るべきですよね」という『ライン引き』の議論になるはず この場合の反駁は命題に関する反駁としてきちんと成立しており、論理的誤謬ではないというところになる💭
13.02.2026 07:15 —
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指摘をする側がとあるルールAの強制力を行使しようとする「番人」的なポジションをとっており、なおかつ指摘をする側自身がルールAを破っていることが明らかであり、反駁でそこを突かれた、という場合……「ルールAは一定の強制力をもって、社会的に守られるべきものである」というルールとしての正当性、すなわち前提そのものに疑問符がついてくるということよな✒️ 前提に対する疑義としてこの反駁を展開することで、それは論点ずらしではなく「そもそもの議論の前提を疑う議論」になる……こともあると💭
13.02.2026 06:37 —
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Whataboutism(じゃあアレはどうなんだ論法)って、論理的に誤謬だというのはわかるんだけど、だからといって道理としても間違ってる……とは言い切れない部分がわりとある気がしていて、言語化を試みてる✒️
たとえばスピード違反の取り締まり、スピード違反でつかまって「他の車もやってるだろ」は道理としても通らない✂️ じゃあ、仮に取り締まるパトカー自身もノーサイレンでスピード違反をしていたのを見られていた、というときに「お前もやってただろ」はどうだろう?議論としては論点ずらしではある、しかしそれはそれとして道理の面から見ると痛いところを突かれてもいる、という感覚はあるとおもうのよね💭
13.02.2026 06:17 —
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ちなみに事前予想と結果を照らし合わせた自己採点としては58点って感じ 合ってた項目の絶対数は多かったけど、予想において一番肝になるであろうところを当てられなかったので合格点はあげられないかなという📝 あとは自分の感覚と食い違った部分がなぜ食い違ったのか、原因をきっちり探し出しましょうというところ
10.02.2026 14:41 —
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せっかく思想史とかをわたしなりにすこし掘り下げてみたとこだったし、
わたしが持ってる情報と肌感をもとに、事前に(自分自身の思想をいったん完全に排除した、できるかぎりフラットな)選挙結果予想をざっくりでいいからしてみよう!っていうのをやってたんですけど、
これシンプルにゲーム感覚で楽しかったってだけじゃなくて、自分自身が採集した情報とその受け止めかたが、実際の"民意"と呼ばれているそれと比較してどこがどう食い違ったかを可視化できたのでかなりよかったですね💭
09.02.2026 11:43 —
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「こんなに叩かれてるんだからきっと悪人に違いない」と「なんでもかんでも叩かれて可哀想だし応援しなきゃ」はたしかに、同じ原理の対の関係だよな、ということを思った💭
03.02.2026 08:12 —
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繰り返すようだけどこれは降って湧いただけの未検証の思い付きで、そもそもわたしは両シーンともにすごく造詣が深いというわけではまったくない……わたしが知る範囲での音楽をもとに検討したときに、もしかしてそういう解釈もありそうでは?と考えたというだけのおはなし💬
30.01.2026 07:37 —
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これは突如アイデアとして降ってきただけのものなのでまったくもって的を外している可能性が大いにあるのだけど、
ディスコミュージックとシューゲイザーの違いについて「音→人のコミュニケーション」という側面に着目したとき、これは使っている音言語が『点であるか面であるか』の違い以外には、実はさほど本質的だと言える差は存在しないのではないか…‥?言うなれば、少なくとも結果的にこの2つが持つ差のうち核の部分を成しているものは「ローカライズ」の概念で説明がついたりしないか……?みたいなことをふと考えた💭
30.01.2026 07:32 —
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それがたとえどれだけ普遍的なイデオロギーであっても、そこに対話の姿勢が見られない主義者に対してどうしても抑圧性を感じてしまうその正体は恐らく「多数決的抑圧性」なんだろうなとおもった💭
21.01.2026 03:51 —
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多数決はシステムとして公平だけど抑圧的でもあって、だから多数決をシステムとして採用するときにはその抑圧性を抑制するための調整弁として、たとえば対話であるとか、そういうものが必要になると考えている💭
21.01.2026 03:48 —
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分断の時代だというけれど、そもそもひとそれぞれ考えかたも立場も異なる以上、「分断が起こっている」のはある意味で健全なのだともおもう、この前提で「分断が起こっていない」ほうが恐らくよほどマズいのであって💭
15.01.2026 17:29 —
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これさ、つまり最近流行りの「冷笑的な態度」ってやつですよたぶん そういう心持ちって大なり小なり誰にでもあるものだし、その良し悪しはけっきょく程度問題であって、適正な分量ならむしろ健全なことだとわたしは考えていますけど、「理解の精度を高めたい」という気持ちまで失せてるのはちょっと適正量超えてる感じがしますね🚫 なんかこう、学問でもそれ以外でもいいとおもうけれど「圧倒的にわからないもの」に自ら触れにいく機会をつくったほうがいいかもしれない💭
08.01.2026 10:06 —
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(自分の専門分野である音楽のことをのぞいて)最近「わからないことを理解したい」というきもちが雲散してしまった☁ たぶん、いままで理解したいとおもっていた領域のことがある程度自分のなかでモデル化できてしまった結果、「だいたいこういうことなんじゃないの」という目測が立つようになった(その目測が誤っているかどうかはここでは関係ない)ことが原因な気がする🤔 モデル化できたことそのものは決して悪いことではないんだけど……
08.01.2026 09:38 —
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文化史において、イリーガル寄りなアプローチが(それの善し悪しは置いておいて)「富の再分配」に近いはたらきをすることがあるんじゃないか、というアイディアを書き留めておく あくまで現段階ではアイディアなので、これは後にちゃんと検討する💭
06.01.2026 07:26 —
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そうですね、個にフォーカスするならそこには様々な事情があるのは実際そうだと思います💭
とすると、発言者側があくまで個としてのスタンスを取る場合については情状酌量の余地がありうる⚖️ いっぽうで、発言側が「群の代表者」としてのスタンスをとっていた場合……つまり「町のみんなの平和を守るアンパンマン」としてその振る舞いをする場合、そこに「個に関する情状酌量の余地」を介入させることは難しいんじゃないか、という考えかたですね🗡️
06.01.2026 07:21 —
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ねこぜさんが想定されているのが「二者の関係性」にフォーカスしたシーンで、わたしがもともとのつぶやきで想定していたのが「第三者への訴え」というシーンだったので、たぶん前提がズレてる気がしました!
二者の関係性においての暴力に関してはそれこそ司法判断が示すように、個々のケースによって180度変わりうるなとおもっています、それこそ暴力の例外を定義した、正当防衛なる概念もあるわけですしね💭
05.01.2026 10:23 —
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わたし自身、生きかたや持ち合わせる属性のわりにはスタンスが生活保守ライクな部分が大きいなぁという自覚はあったんですけど、それも「群れとしてのニンゲン」に対する負の信頼の厚さから来ているところが大きそう "共同体はどうあってもわたしには毒だから、だったらせめて状態として安定しててね、そしたらこっちも時間かけて抗体つくるから"ってことなのかなとおもった💭
05.01.2026 07:06 —
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倫理に則ることが退くこととイコールになってしまうとそれこそ暴力での自力救済しか手段がなく、それは困るので「法」があるという解釈をわたしはしています💭 逆に言うと、法が存在する前提上での暴力的行動の正当性はかなり制限されるという解釈ですね⚖️
05.01.2026 06:04 —
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「共感ベースのイデオロギー陣取りゲーム」的な仕組みに対するわたしの心の根深いところにある拒否感のようなもの……が、いったいどうして存在するのか考えていたんですけど 要は「その原理が多数決的なところに由来している限り、世界はどのような形に転んでも(本質的にマイナー側である)決してわたしに味方しない」という直感から来ている気がする💭
05.01.2026 05:57 —
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この場合の敵対的な立場のヒト、が「ばいきんまん」なのだという広く社会的な合意が本当にあるのなら(共感を得る、という意味では)まだセーフだとは思うんですけど、実際にはそうではない(そのヒトが本当に悪人なのかどうか判断に留保が必要である)ことのほうが圧倒的に多いわけで……すると判断を留保したヒトからの視点では「こいつがばいきんまんだ、と思った相手に暴力を振るいにいく自認アンパンマン」が爆誕してしまうところになり……💭
27.12.2025 08:56 —
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倫理を根拠にひとびとの共感に訴えなければならないであろう立場のヒトが、どうして敵対的な立場のヒトに対しては倫理から程遠い暴力的な言動や行動に走ってしまうことがあるのか……かなり疑問だったのだけど、この前「品性のない奴にかける言葉に品性などいらない」というあるひとの発言を見て「これかぁ!!!」となった ばいきんまんの悪事を懲らしめるための暴力なら善となる、アンパンマン理論……!🥊
27.12.2025 04:41 —
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