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のりっく@泡沫戦史研究所

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第2次大戦枢軸軍の泡沫のように消えた名も無き小部隊、臨時編成部隊、外国人義勇兵、東部大隊、警察部隊などを研究しています。 あおぞらでは戦時商船、仮装巡洋艦、封鎖突破船、徴用漁船を中心に投稿予定。 X https://twitter.com/noricksakurai Togetter https://togetter.com/id/noricksakurai 泡沫戦史研究所 http://www.eonet.ne.jp/~noricks/

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極東からの14隻目、通算20隻めの封鎖突破船はドイツ貨物船Rio Grande
1941年9月21日に「ベンノ」Bennoに続き極東行きの第二船としてボルドーを出発し、12月6日に無事大阪に到着した。第一船の「ベンノ」Bennoが中止したため欧州から最初に日本に到着した封鎖突破船となった。
20)1942年1月31日大量の生ゴムとその他の貨物を積載して神戸を出発し、1942年4月16日に無事ボルドーに到着して2回目の航海も成功した。

04.05.2025 14:12 — 👍 0    🔁 0    💬 0    📌 0
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1942年の最初の封鎖突破船は極東行きの6隻目、通算19隻目となるドイツ貨物船Doggerbank
1926年4月にグラスゴーで建造された英貨物船Speybankで、インド洋を航行中の1941年1月31日に仮装巡洋艦Atlantisに拿捕され5月10日にボルドーに到着、その後機雷搭載設備を追加しDoggerbankと改名した。
19)1942年1月25日ボルドーを出発し南アフリカ沿岸で機雷敷設後、南大西洋で仮装巡洋艦Michel及び随伴タンカーCharlotte Schliemannと会合し、合計192名の捕虜船員を移乗させインド洋~バタビア経由で1942年8月19日に横浜に到着した。

05.04.2025 01:44 — 👍 0    🔁 0    💬 0    📌 0

1941年までに極東を出発した13隻は、中止1隻、拿捕1隻、沈没2隻で9隻がヨーロッパに到着して成功率69%、沈没の1隻は戦艦ビスマルクの捜索に引っ掛かり、もう1隻はUボートの誤射なので、不運だったとしか言いようがない。
一方極東行きの5隻は中止1隻、沈没2隻で無事到着したのは2隻のみで成功率40%で、沈没の2隻はいずれもビスケー湾で撃沈されており、ビスケー湾はこのころから鬼門であった。

03.02.2025 10:03 — 👍 0    🔁 0    💬 0    📌 0
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極東からの封鎖突破船13隻目、通算18隻目はドイツ貨物船Osornoで、1938年にハンブルクで建造されて12月に竣工し、1939年1月6日から南米西岸航路への処女航海後、8月から定期航路に就航した。
1939年9月の欧州開戦時点で南米チリのタルカワノTalcahuanoに退避した。1941年春に日本に向けて出発したが、6月18日太平洋上で機関が故障しドイツ貨物船ボゴタBogotaに曳航され、7月3日に横浜に到着し、その後入渠修理された。
18)封鎖突破船として1回目の航海は1941年12月23日横浜を出発し、太平洋~ホーン岬経由で1942年2月19日に無事ボルドー到着した。

03.02.2025 07:34 — 👍 0    🔁 0    💬 1    📌 0
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もうだいぶ前のことになるが電車が走る前の時間の築地市場に行こうと深夜に自転車で向かった。外堀通り沿いの皇居の桜田濠に差し掛かった時、一羽の白鳥が闇に沈んだ水の上にいるのを見かけた。

01.11.2024 09:17 — 👍 23    🔁 5    💬 0    📌 0
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極東行きの封鎖突破船5隻目、通算17隻目はドイツ貨物船Benno
元ノルウェータンカーOle Jacobで、Bennoと改名後 8)1941年8月30日に極東行きの第一船としてボルドーを出発したが中止して引き返した。
17)1941年12月22日にボルドーを出発し、12月24日スペイン北方沖を航行中、英軍のサンダーランド飛行艇に発見され、長時間の追跡後ボーフォート機の雷撃により大破し,
カリーニョCariñoの浅瀬に乗り上げたが船体は放棄された。
救命艇で脱出中に機銃掃射によりドイツ人乗組員1名が死亡、救助活動中のスペイン人漁師2名が負傷した。座礁した船体はスペインの解体業者に売却された。

31.10.2024 11:44 — 👍 1    🔁 0    💬 0    📌 0

件のアルデンヌのシーツ迷彩のIV号洗車。写真の解像度が高いとディテールが語りかけてくる。牧場の囲いの柵が2列になって奥へと伸びているのを見ると、牧場を抜ける道を進む途中で撃破されたことが想像できる。塗装は44年秋以降のダークイエロー(1)の幅が細くなった3色迷彩の典型的なパターン。オリーブグリュン(2)とロトブラウン(3)に加えてダークイエローを縁取るような明るい色(4)は何だろうか? 迷彩がはみ出して後から細吹きのダークイエローでリタッチしたのか。モデラーなら誰でも経験あるやつだね。 ”B1”のマーキングも意外と味のある手描き文字。よく見ると1がBと水平が揃ってない上に垂直も出てない。

29.10.2024 09:20 — 👍 11    🔁 3    💬 0    📌 0

Pietro Orseoloの貨物は生ゴム1,988トン、食用油4,486トン、錫86トン、タイヤ28トン、ウッドオイル21トン、寒天など合計6,646トンで、約4000トンがドイツ向けだった。
この航海はイタリア海軍司令官、ドイツ海軍のレーダー提督、ヒトラー総統からの賛辞を受け、Zustovich船長及び機関長には戦功章銀章が、士官には戦功章銅章が、その他の乗組員には戦功十字章が授与された。
Pietro Orseoloはイタリア最大、最新の近代的貨物船の一隻で、1942年7月7日にはイタリア海軍の技術者と労働者による特別チームがボルドーに送られ、極東行き封鎖突破船として準備が始められた。

18.10.2024 09:45 — 👍 0    🔁 0    💬 0    📌 0

日本出発の2日後には日本側の哨戒機に誰何され警告射撃をうけたがイタリア国旗を掲げて事なきを得た。1月2日にも日本軍の四発大型機が現れたが、Pietro Orseoloの呼出符号を確認すると飛び去った。
1月25日にはホーン岬を大きく迂回して通過し、フォークランド島と南ジョージア島の間を通過して大西洋を北上した。ブラジルとシエラレオネの間の最も狭い海域を北上する際には、悪天候と海流のため予定航路から外れ2日の遅れが発生したが、予定航路をショートカットして約10時間を短縮し、2月22日にIrun港に到着した。翌23日には3隻の護衛とともにジロンド川河口に到着し24日にボルドーに到着した。

18.10.2024 09:32 — 👍 0    🔁 0    💬 1    📌 0
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極東からの封鎖突破船12隻目、通算16隻目はイタリア貨物船Pietro Orseolo
イタリア政府の優秀船建造施策により1939年10月に建造された貨物船で極東航路にチャーターされていたが、1940年6月10日のイタリア参戦時点で神戸港に停泊しており、その後待機状態のまま1年半停泊した。
1941年10月頃から封鎖突破船として準備が開始され、12月8日の日米開戦によりインド洋経由がより安全とも考えられたが、本国から特段の指示はなく今回も太平洋ルートが選択され、航路にはあらかじめ《O》で始まる17ヶ所の地点が指定され、ビスケー湾には悪天候の時季に到着するよう指示された。

18.10.2024 08:08 — 👍 4    🔁 1    💬 1    📌 0

悪天候の中での修理は不可能で、1月24日にホーン岬を通過したところで島陰に停泊して本格的に修理が行われた。12月28日2100時頃から開始された機関修理作業は結局1月3日の0300時頃までかかり、その間には悪天候で痛めつけられたドア、隔壁、舷窓、パイプ類、浸水個所やボートの破損修理も行われた。
Cortelazzoはフォークランド島と南ジョージア島の間を通過して大西洋を北上したが、米海軍も加わり警戒厳重となった海域を避けて西寄りの進路をとり、サルガッソ海東側でアゾレス諸島に進路をとり、1月23日にアゾレス諸島北西でビスケー湾に進路を変え、1月25日に仏国境のイルンIrun港に入港した。

07.05.2024 15:17 — 👍 0    🔁 0    💬 0    📌 0

Cortelazzoは日本船に偽装して太平洋を南下し、ギルバート諸島~エリス島間を航行中の12月7日/8日に日本軍が真珠湾を攻撃してた。このためスウェーデン貨物船「デリー」Delhiに衣替えし、ファンネルマークは青丸と黄色ラインのスウェーデン王室カラーに塗り替えられ、船体には船名、母港名「ヨーテボリ」Göteborgとスウェーデン国旗が大書きされた。
12月9日/10日から激しい嵐に遭遇し、ホーン岬に近づくに従い天候は急激に悪化し、氷山の危険も加わった。12月22日1700時頃機関故障で一時航行不能となり応急修理で航行を再開できたが、本格的な修理には4時間が必要であった。

07.05.2024 14:39 — 👍 0    🔁 0    💬 1    📌 0

ヨーロッパ向けの物資は植物油1,400トン、落花生1,140トン、タイヤ496トン、麻285トン、ラッカー275トン、紅茶259トン、錫159トン、ニッケル61トン、銅36トン、タングステン10トンの合計5.639トンが積載され、このうちドイツ向けは4,309トン、イタリア向けは1,330トンで軍用のほか民生用物資も含まれていた。
太平洋からボルドーまでの航路はあらかじめ《C》から始まる17か所の地点が指定され、いくつかの地点では到着予定月日も指定された。日付は1日程度の誤差しか許されず最後の2地点は予定日厳守が求められた。これはUボートや他の部隊による味方撃ち防止の措置であった。

07.05.2024 12:44 — 👍 0    🔁 0    💬 1    📌 0
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極東からの封鎖突破船11隻目、通算15隻目はイタリア貨物船船Cortelazzo
1931年3月にイタリアで建造された貨物船で、ベネチアを母港として、1937年からはトリエステを母港として紅海~インド洋~極東航路に就航した。1940年4月3日にはスエズ運河を通過して極東に向かったが、無事通過した最後のイタリア船となった。
1940年6月10日のイタリア参戦の時点で神戸に停泊しており、極東からの封鎖突破船の最初のイタリア船に指定された。
15)1941年11月16日、大連を出発し太平洋~ホーン岬~大西洋を突破して1942年1月27日午後にボルドーに到着した。

07.05.2024 12:31 — 👍 1    🔁 0    💬 1    📌 0

14)1941年10月22日、4隻目の極東行きの封鎖突破船としてボルドーを出発し、途中インド洋で活動する仮装巡洋艦Kormoranとの会合も計画されたと思われるが、1941年11月19日に豪巡洋艦「シドニー」HMAS Sydneyとの戦闘で沈没したので実現はしなかった。
Portlandは大西洋~ホーン岬~太平洋経由で1942年1月1日に無事大阪に到着した。

02.05.2024 14:18 — 👍 0    🔁 0    💬 0    📌 0
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極東への封鎖突破船4隻目、通算14隻目は貨客船Portland
1928年4月に建造されたHapag社のサンフランシスコ級貨物船で、速力14ノットを発揮し、一等24名、三等24名を収容でき、4月19日に竣工後7月7日に北アメリカ西海岸への処女航海に出発した。
1939年9月22日にチリのコキンボに退避したが、1940年12月4日に修理のためタルカワノに移動し1941年1月にドイツ本国へ向けて出発した。2月に装甲艦Admiral Scheerと貨物船Nordmarkから300名以上の拿捕船員を収容し、船内は過密状態で3月13日に反乱で捕虜2名が死亡する事件も発生したがボルドーに到着した。

02.05.2024 13:41 — 👍 1    🔁 0    💬 1    📌 0
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13)1941年10月21日大連を出発し、直後の10月24日未明に九州沖で訓練中の空母「飛龍」の臨検を受けたが、封鎖突破船とわかるとすぐに解放された。南太平洋のソシエテ諸島でKulmerlandと会合し、仮装巡洋艦Kormoranから捕虜船員86名を移乗させた。1942年1月31日、北大西洋でU333の誤射により沈没した。
U333の艦長クレーマー大尉はロリエンに帰還後逮捕されたが、軍法会議ではSpreewaldが定期連絡を怠り、予定よりも早く航行していたとして無罪となった。

02.05.2024 12:42 — 👍 0    🔁 0    💬 1    📌 0
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極東からの封鎖突破船10隻目、通算13隻目は貨物船Spreewald
1922年にハンブルクで建造されたHamburg-Amerikanische Packetfahrt-Actien-Gesellschaft(Hapag)の貨物船で、Wald級と呼ばれる10隻の貨物船シリーズの1隻として建造された。1935年に南米西海岸航路に就航した際にはAnubisと改名したが、1939年に再びSpreewaldと改名し、6月の欧州開戦の時点で日本に退避していた。

02.05.2024 12:34 — 👍 1    🔁 0    💬 1    📌 0

1942年1月11日スペインのフェロル北東約120㎞の海上で護衛のU373と共に英軍第105飛行隊のモスキート6機の攻撃をうけて損傷し、1月12日にスペインのフェロルに退避し、1942年11月7日にボルドーに回航されたが、1944年8月5日ジロンド川河口の封鎖船として自沈した。

28.04.2024 10:43 — 👍 0    🔁 0    💬 0    📌 0
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極東からの封鎖突破船9隻目、通算12隻目は貨物船Elsa Essberger
1938年にハンブルクで建造されたエスベルガー海運の貨客船で、乗客36名分の客室と設備はエルサ・エスベルガー婦人自らの監修で特に力が入れられ、ナチス党の成功の象徴となった。
1939年9月の欧州開戦の時点で神戸に寄港しており、ドイツ海軍に徴用されて太平洋で仮装巡洋艦OrionとBennoへの補給任務に従事した。
12)1941年10月14日、生ゴム4,000トンとその他の貨物990トンを積載し、来日していた独空軍のフリッツ・ロージヒカイト特使も便乗して佐世保を出発した。

28.04.2024 10:42 — 👍 1    🔁 0    💬 1    📌 0
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極東行きの封鎖突破船3隻目、通算11隻目は貨物船Klara
1930年に建造されたオランダ貨客船Kota Pinangで1940年5月のドイツ軍のオランダ侵攻時に港で拿捕された。1941年5月18日ライン演習作戦の偵察船として出撃し、6月にフランス西部の港に帰還した。6月12日に潜水艦補給船として改装されKlaraと改名しダカールへの配備が計画されたが7月に中止された。
11)1941年9月27日にボルドーを出発し9月29日にジロンド川河口を機雷原突破船に偽装して通過し護衛のU-129とともにビスケー湾に入ったが10月3日フィニステレ岬沖で英軽巡洋艦HMS Kenya に発見され撃沈された。

28.04.2024 10:32 — 👍 2    🔁 0    💬 1    📌 0
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極東からの封鎖突破船8隻目、通算10隻目は貨物船Burgenland
1928年8月にフルンスベルクで建造された貨物船で8月16日に竣工すると9月1日から東アジア航路への処女航海に出発し、1939年9月3日の時点で神戸に停泊していた。
10)1941年9月21日神戸を出発、12月10日に無事ボルドー到着した。

03.04.2024 06:11 — 👍 1    🔁 0    💬 0    📌 0

封鎖突破船リオ・グランデRio Grabdeは、9)1941年9月21日にベンノBennoに続き極東行きの第二船としてボルドーを出発したが、第一船のベンノBennoが中止したため1941年12月6日に無事大阪に到着し、欧州から最初に日本に到着した封鎖突破船となった。

03.04.2024 06:05 — 👍 0    🔁 0    💬 1    📌 0
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極東への封鎖突破船2隻目、通算9隻目は貨物船Rio Grande
1939年にハンブルクでBelgrano級貨物船シリーズの4番船として建造され、Hamburg Süd社で南米航路に就役した。1939年6月の欧州開戦時にはブラジルのRio Grande do Sul州の港に停泊しており、ドイツ海軍の補給艦に指定されて待機しました。
1940年10月31日にブラジルの港を脱出し中部大西洋で活動する仮装巡洋艦トールThorと会合し、トールからは364名の拿捕船員を移乗させ、物資と燃料をトールに補給して12月13日に無事ボルドーに到着できた。

03.04.2024 05:55 — 👍 1    🔁 0    💬 1    📌 0
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極東への封鎖突破船1隻目、通算8隻目はタンカーBenno
元ノルウェータンカーオーレ・ヤコブOle Jacobで、1940年11月10日にベンガル湾で仮装巡洋艦アトランティスAtlantisに拿捕され神戸に回航された。
2)1940年12月に極東発の第二船として神戸を出発し仮装巡洋艦オリオンOrionの随伴タンカーとして太平洋~インド洋で活動後にボルドーに向かい、ジロンド川河口で英潜水艦HMS Tunaにより損傷しながらもボルドーに到着し、その後ベンノBennoと改名した。
8)1941年8月30日極東への第一船としてボルードを出発したが途中で中止しボルドーに帰還した。

28.03.2024 08:40 — 👍 1    🔁 0    💬 0    📌 0
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1941年12月31日米国戦時海運局の管轄下でBlenheimと改名し、Reederei Waterman Steamship Co.社が運航した。1945年1月8日にアントワープに停泊中に隣の岸壁にV2号が落下して船は大破したが、負傷者20名で死者は出なかった。1945年5月25日、陸軍省に移管され予備部品倉庫船に改装されUSAT Blenheimとして就役し、アジア太平洋戦域に配備された。その後陸軍を退役し1947年5月26日に陸軍の予備役艦隊に編入、1948年5月7日に解体のため売却され、1949年1月19日に除籍された。

27.03.2024 15:50 — 👍 1    🔁 0    💬 1    📌 0
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1941年8月21日、生ゴム3,857トンの他、在日ドイツ船(Qito,Osoruno,Bogota,Rhakotis,Ranses)から集めた様々な貨物を積載して横浜を出発し、太平洋~ホーン岬経由で大西洋に入った。Odenwaldは米貨物船Willmotoに偽装していたが、1941年11月6日中部大西洋のサンペドロ・サンパウロ群島付近で米軽巡洋艦オマハUSS Omahaに発見され、自沈を図ったが臨検隊が沈没を阻止して拿捕されプエルトリコに回航された。アメリカは参戦前のため公式には海難事故の救助活動となっている。

27.03.2024 15:09 — 👍 0    🔁 0    💬 1    📌 0
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極東発の封鎖突破船7隻目は貨物船Odenwald
1923年にハンブルクで建造されたHamburg-Amerikanischen Packetfahrt-Actien-Gesellschaft (Hapag)社の貨物船Odenwaldで主に南米太平洋航路に就航したが、1935年にはアメリカ西海岸への就航に合わせてAssuanと改名され、1939年に再びOdenwaldと改名された。1939年4月にハンブルクを出発しフィリピン経由で日本に向かい、8月12日に名古屋からロサンゼルスに向けて出発した。8月26日北米西海岸近くで海軍の緊急電を受信し、日本に引き返して9月15日に横浜に到着した。

27.03.2024 15:01 — 👍 1    🔁 0    💬 1    📌 0

1940年3月4日/5日の夜、オランダ領キュラソー島のウィレムスタッドから仏巡洋艦とカナダ駆逐艦の監視の隙をついて「Mimi Horn」と「Seattle」の2隻が出発し、「Seattle」は単独でデンマーク海峡を突破し3月31日にノルウェーのトロムソに到着し、その後はノルウェー沿岸を南下した。
4月8日にクリスチャンサン沖のオクソイ島で「ベーゼル演習作戦」のドイツ艦隊に遭遇し、混乱の中で沿岸砲台の砲撃かドイツ空軍のHe111の爆弾のどちらかが船体中央部に命中して炎上し、乗組員が船を放棄後も4日間燃え続けてコルスヴィクフィヨルドのドヴェルグスネスタンゲン近くで沈没した。

22.03.2024 11:58 — 👍 0    🔁 0    💬 0    📌 0
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せっかくデンマーク海峡を突破したのに「ベーゼル演習作戦」に巻き込まれて沈没した船もあった。

Seattle(7,369トン)は1928年にハンブルクでHAPAG社の「San Francisco」級貨客船シリーズ7隻の3番船として建造され、アメリカ東海岸の港湾都市に因んで「Seattle」と命名された。
1928年6月にパナマ運河~北米西海岸への処女航海を行い、数年間に北米西海岸を年に3回のペースで往復した。
1939年5月にドイツを出発しパナマ運河~ロサンゼルス~サンフランシスコ~タコマに寄港し、復路のシアトルで緊急電を受信し8月29日にオランダ領キュラソー島のウィレムスタッドに退避した。

22.03.2024 11:55 — 👍 0    🔁 0    💬 1    📌 0

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