先日、北条時任が作った銭洗弁財天を見に行きました。先祖の時頼にあやかって作ったもので、北条氏の家紋が掘られています。(現在あるものは後から造られたもの)
尾張では北条時行-時満-時任と系譜が繋がっていたと伝わっており、後衛を謳っていますが実際の所は横井氏の記録が比較的新しいものなので良く判りません。
しかし、時頼の伝承にあやかって尾張に引っ張ってきた(勧進してきた)という逸話には興味がそそられます。
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青空探題
先日、北条時任が作った銭洗弁財天を見に行きました。先祖の時頼にあやかって作ったもので、北条氏の家紋が掘られています。(現在あるものは後から造られたもの)
尾張では北条時行-時満-時任と系譜が繋がっていたと伝わっており、後衛を謳っていますが実際の所は横井氏の記録が比較的新しいものなので良く判りません。
しかし、時頼の伝承にあやかって尾張に引っ張ってきた(勧進してきた)という逸話には興味がそそられます。
宝治二年閏十二月
廿八日辛未。今日。足利左馬頭入道政義与結城上野入道日阿相論書札礼事。被宥仰両方。被閣之。此事。去比就雑人事。自足利遣結城状云。結城上野入道殿。足利政所云々。日阿得此状。投返事云。足利左馬頭入道殿御返事。結城政所云々。僕卿禅門甚憤之。訴申子細云。吾是右大将家御氏族也。日阿仕彼時。于今現存者也。相互未及子孫。忽忘往事。現奇恠。爭無誡沙汰哉云々。仍被下彼状於日阿之時。日阿稱不能費紙筆而献覧一通文書。是則右大将家御時。注為宗之家子侍交名。被載御判之御書也。彼禅門厳閣総州与日阿〔于時結城七郎〕可為同等礼之由分明也。右京兆〔于時江間小四郎〕為家子専一也。相州披覧之。召留件正文於箱底文字数