「スバス・チャンドラ・ボース」の版間の差分 - Wikipedia
wikipediaで悪質な編集を繰り返している「Otyoufujinn」という問題人物が、今度はチャンドラ・ボースのページに大量加筆した上、相も変わらず「インパール作戦ではディマプールに進攻すべきだった」という珍説を書き込んでいる。
この人物は、インパール作戦の作戦命令すら読んだことがなく、作戦の目的さえ分かっていないのではないか。
ただ、こういう問題人物が、wikipediaを独りよがりな研究発表の場に悪用していることで、wikipediaの信用度そのものがどんどん下がっており、そのことは次第に有名になりつつあるように思う。
ja.wikipedia.org/w/index.php?...
31.08.2025 08:13 — 👍 2 🔁 1 💬 0 📌 0
1~2か月ほどツイート(ポスト)が途絶えている時は、大体仕事が忙しい時です。
(SNSは見ています)
20.09.2025 12:21 — 👍 1 🔁 0 💬 0 📌 0
イギリス側の一部によるインパールの牟田口評価は、スリム派(極東派)のモンティ派(欧州派)への巻き返しの一環という文脈もあるのですよ。
03.09.2025 12:15 — 👍 16 🔁 4 💬 0 📌 0
「スバス・チャンドラ・ボース」の版間の差分 - Wikipedia
wikipediaで悪質な編集を繰り返している「Otyoufujinn」という問題人物が、今度はチャンドラ・ボースのページに大量加筆した上、相も変わらず「インパール作戦ではディマプールに進攻すべきだった」という珍説を書き込んでいる。
この人物は、インパール作戦の作戦命令すら読んだことがなく、作戦の目的さえ分かっていないのではないか。
ただ、こういう問題人物が、wikipediaを独りよがりな研究発表の場に悪用していることで、wikipediaの信用度そのものがどんどん下がっており、そのことは次第に有名になりつつあるように思う。
ja.wikipedia.org/w/index.php?...
31.08.2025 08:13 — 👍 2 🔁 1 💬 0 📌 0
『今村均回顧録』に、小泉清少尉という茶目な同期の人が登場していましたが、以下の人でしょうかね。
shirakaba.link/betula/%E5%B...
少佐で予備役編入は早すぎる気がしますが、大正14年なら宇垣軍縮の影響でしょうか。今村均(陸大首席)の少佐進級は大正11年、中佐は15年なので、思ったほど進級スピードに差は付いていない印象。
この小泉少尉、今村の回顧録には、予備役中佐時代に中国戦線で兵站業務を行っていた様子が描かれていましたが、大戦末期の昭和19年9月には新潟聯隊区司令部部員に発令されていたのですね。(異動通報では少佐なので、今村の「中佐」は、あるいは記憶違いか)
30.08.2025 08:00 — 👍 2 🔁 0 💬 0 📌 0
今度交替させられるために後に下げられたが、たれかが憲兵が二人ついてゐるといつてゐた。
ここで会つたのは意外であつたが、鈍将といふ感じの人で、いくらか気の毒にも感じたが、かういふ風な大隊長といふものは支那事変以後でも見なかつたが、今度の部隊長級の人にはどうもはがゆい人がときにあると、なにか悲しい気持ちがわいた。一体に素質が低下したのかも知れないが、これは大変な問題である」
「素質が低下した」ことについては、田中師団長の日記に、田中少佐の他にも「停職トナリシ某少佐(少尉候補者出身)アリ」「某少尉、某中尉ノ退走的行為アリ」等の記載があります。
30.08.2025 06:39 — 👍 2 🔁 0 💬 0 📌 0
(承前)なお、火野葦平は、田中稔少佐について以下のように書き残している。
「隊長室に行くと、稲田中尉と少佐の肩章のある背のひくい将校とが話をしてゐた。丸顔を髯で埋め、ぐるりとした丸い眼でまじまじと見る。稲田中尉から田中少佐だと紹介されて、この人かともう一度見なほした。作間部隊の大隊長で、兵隊たちが、敵は英軍ではなくて田中少佐であるといつてゐるといふことをきいたことがある。
一度も中隊、陣地を見まはらず、天気のよい日で、飛行機の来ない日に迎へをよこせといつた、また、敵機が来ると一番に防空壕にとびこみ、こしらへた二人の副官を入口の両側に張り番させたともきいた。(続)
30.08.2025 06:39 — 👍 2 🔁 0 💬 1 📌 0
考ヘテモ見ヨ、戦場ノ怯者トシテ軍律ニ触シおめおめ帰レルヤ否ヤ カゝル場合コソ自決スルガ道ナリ 又自決セシムルガ情ナリ
然ルニ諾々トシテ軍刀拳銃ヲ渡セルヲ見テ驚ケリ 而モ此少佐ハ士官学校第三十八期生ナリ」(同p147)
インダンギーは第15軍司令部が置かれた後方地点であり、空襲を除けば、ここでの「戦死」は不自然なように思われる。
田中師団長の指示通り自決を求められ、それに従ったか、あるいは何らかの形で「処断」された可能性が考えられるのではないか。
24.08.2025 06:20 — 👍 2 🔁 0 💬 0 📌 0
・また、第33師団長心得の田中信男少将の6月2日、同30日の日記には、以下の記述がある。
「田中稔大隊長戦場到達遅延セルニヨリ連隊長ヨリ三十日ノ重謹慎ニ処シ 師団長ハ戦場ニ於ケル怯者ト認メ之レヲ軍法会議ニ附スルコトトセリ」(『戦ひの記』p103)
「某大隊長戦場ニ於ケル行動適当ナラザルヲ以テ軍法会議ニ附スヘク憲兵分隊長ニ護送ヲ命シ後方ニ帰還セシム、憲兵ハ本人ノ自殺ヲ憂ヒテ軍刀・拳銃ヲ預リタル時『武士ノ情ケナリ自殺セシメヨ』ト指示セリ(続)
24.08.2025 06:19 — 👍 1 🔁 0 💬 1 📌 0
インパール作戦当時、前線への進出を命じられても一向に出てこなかった大隊長、田中稔少佐(歩兵第214連隊第3大隊長、陸士38期)について、関連書籍を見ると、以下のような興味深い記述がある。
・歩兵第214連隊史によれば、田中少佐は昭和19年6月1日にようやく連隊本部に到着し、その場で罷免。その直後の6月10日に、インダンギーで戦死したとされている(p748、1344)
・ところが、報道班員の火野葦平の日記には、6月22日に、憲兵2名に監視された田中少佐に、3299高地で面会したとの記録がある
(火野葦平『インパール作戦従軍記』p219-220)(続)
24.08.2025 06:16 — 👍 3 🔁 0 💬 1 📌 0
山下奉文の「イエスかノーか」については、本人は「敗戦の将を恫喝するようなことができるか」と述べていたことが広く知られているが、かつて山下の副官を務めた山内俊太郎大尉は、以下の証言を残している。
「閣下に、水師営のように、もちっとおとなしゅうやれんかったとですかと質問すると、閣下は、いやあ、新聞は勝手なことを書きおるとおっしゃったあとで、あのときはこっちの歩兵砲はタマが三発しかなかった。このさい、なんとか降伏させにゃならんと思って、最後は威圧でやった、とおっしゃっとりました」
児島襄『史説山下奉文』より。色々な証言が残っているものです。
17.08.2025 09:20 — 👍 1 🔁 0 💬 0 📌 0
戦時中にガ島の船舶増徴問題で殴り合った陸軍の田中新一と佐藤賢了ですが、戦後は一緒に酒を飲んで、
「俺は一発しか殴らなかったのに、君は三発返した」
「俺の優しい手で三発殴るより、あんたの一発の方がずっと痛かった」
などと言い合っていたとか。仲良いですね。
(佐藤賢了『軍務局長の賭け』より)
17.08.2025 09:19 — 👍 3 🔁 1 💬 0 📌 0
陸大の勤務歴が長かったり、総力戦研究所長を務めたりしたこともあってか、理性的な軍人というイメージのある飯村穣中将だが、終戦時には「東京防衛軍」という、創作物に出てきそうな名前の軍の司令官を務めていた。
この東京防衛軍は昭和20年6月23日に戦闘序列発令、皇居と山手線内くらいの地域の防衛を任務としており、隷下部隊は警備歩兵18個大隊、工兵隊、通信隊、特設部隊など。決戦生起時にはさらに数個師団や砲兵部隊などを増強する予定だったというが、これで「1年持久しろ」という作戦命令(十二方作命甲第一二号)は、戦力的にも地形的にも無茶ぶりが過ぎるのではないかと思う。飯村中将はどう思ったのだろうか。
16.08.2025 11:11 — 👍 2 🔁 0 💬 0 📌 0
昔は「打通さん」という人がいたが、独りよがりな意見に固執して執拗に投稿し続ける、常軌を逸した人間というのは、この分野には時々現れるように思う。
そういう特性を持つ人間を、惹き付けやすい分野ではあるのだろうか。
15.08.2025 11:34 — 👍 2 🔁 1 💬 0 📌 0
例のwikipediaを荒らしてきた人物が運用していると思われるX(ツイッター)のアカウント、今日は「特攻の戦果を全国民が知るべき」などとマルチポストして暴れまわっている。
まともな状態の人間とは到底思えない。(以下URL参照)
search.yahoo.co.jp/realtime/sea...
15.08.2025 11:33 — 👍 2 🔁 1 💬 1 📌 0
笑。その方については、そもそも何故、ああいった杜撰な内容で世間を騙せると思ったのか、本当に謎としか言いようがありません。
先月の『特攻基地 知覧』の御解説も、また今回の御著作もそうですが、一般的な読者に対して説得力のある先生の論旨は、極端な主張をする人々に対して、良い抑止力になっているのではないかと存じます(ツイッターで検索しても、先月来、高木俊朗への(為にするような)批判がぴたりと止まっていますし)。
今後とも、先生の御著作から勉強させていただけましたら幸いです。
14.08.2025 13:07 — 👍 0 🔁 0 💬 0 📌 0
大木先生の『太平洋戦争』を拝読。
冒頭のインパール作戦の解説が、ごく真っ当な内容で感動しました。この作戦に関しては、「専門家」を自称しているはずの方が、戦史叢書の内容すら押さえず、トリッキーな結論に走ろうとするのを散々読まされてきたので、こういう当たり前の内容を拝見するだけで安堵感が大きいです。
13.08.2025 12:30 — 👍 1 🔁 0 💬 1 📌 0
今夏に出た大戦関係の本は、波多野澄雄『日本終戦史 1944-1945』、高杉洋平『帝国陸軍』、貴志俊彦『戦争特派員は見た』は購入済み。大木先生のマンシュタイン本も購入済み、『太平洋戦争』も購入予定。
黒沢文貴『大戦間期の日本陸軍』、筒井清忠『昭和期の陸軍』、林英一『南方抑留』辺りは、予算との兼ね合いで後日購入するかも。
10.08.2025 09:39 — 👍 1 🔁 0 💬 0 📌 0
黒田重徳中将は、比島関連の戦記を読んでいると押しなべて評判の悪い人ですが、陸軍三次長の一つである教総本部長を務めていたり、南方軍の総参謀長を務めていたりするので、組織内部で評価される何かがあった人ではあるのだろうか。
09.08.2025 11:05 — 👍 3 🔁 0 💬 0 📌 0
第14軍司令官が旧制中学出身者(本間雅晴、田中静壱、黒田重徳)で揃えられているのは、中学で英語を学んでいる人材に旧米領の軍政を任せる意図だったのだろうか、と思っていたのだが、考えてみると第16軍司令官(今村均、原田熊吉、長野祐一郎)も旧制中学出身者ばかりですね。単なる偶然なのだろうか。
ちなみに英領マレーは、第25軍の斎藤弥平太と、第29軍の石黒貞蔵が旧制中学出身ですね。
06.08.2025 13:25 — 👍 4 🔁 0 💬 0 📌 0
終戦後にも死者が…戦没者資料デジタル解析で見えた戦争の傷痕
www3.nhk.or.jp/news/html/20...
NHKによる良記事。戦没日時・場所をプロットする手法は、インパール作戦の特集番組でも採用していましたね。
マニア的に言うと、1944年6~9月のビルマの死者数は、インパール作戦(歩124)よりも、フーコン(筑紫峠、カマイン、モガウン)、ミイトキーナ、雲南(龍陵、拉孟、騰越)の方が数としては多いのではないかと思います。
05.08.2025 13:58 — 👍 2 🔁 0 💬 0 📌 0
死んでいった特攻隊員たちは、殉国の士ともてはやされたり、自己犠牲を讃えられたりすることではなく、自分たちは何故こんな不条理な死を強いられたのか、その答えを探しつづけることを、後世に求めているとのだと、私は思っている。
「手を振りて 知覧翔び征く 特攻機 君の笑顔に 昭和責めらる」(藤原長司)
11.07.2025 12:48 — 👍 52 🔁 23 💬 0 📌 1
『特攻基地 知覧』の旧版は持っていましたが、大木毅先生の解説が目当てで、角川新書の復刊版も買いました。
碩学の先生がこの解説のような見解を示して下さることは、大変素晴らしいことと思います。「動機が透けて見える」悪質な論者は今後も現れるにせよ、それら以外の良識的な読者への説得力という意味で。
09.07.2025 13:50 — 👍 0 🔁 0 💬 0 📌 0
大戦中のセレベス島は、前線から離れていたこともあり、兵団単位の戦力としては、独立混成第57旅団(海没後再建)があるのみだった。
しかし、昭和20年5月以降、隣のボルネオ島に連合軍が上陸すると、セレベス島西南部のシンカンに司令部を置いていた第2軍は、7月中旬からセレベス島の在留邦人約4,000名を現地臨時召集し、速成教育を実施するとともに、西南部セレベスの各部隊を編合して特設旅団1個を編成している。
この時期の濠北方面では、ハルマヘラ島でも昭和20年5月に現地部隊で独立混成第128旅団を編成したり、マノクワリでも「勢独立第1旅団」(勢は第2軍の兵団文字符)という兵団を編成していたようですね。
05.07.2025 13:26 — 👍 2 🔁 0 💬 0 📌 0
第15軍がメイミョウに司令部を置いていたことは有名だが、第15軍だけでなく、南方軍のダラット、第2方面軍のトモホン、第25軍のブキチンギのように、南方各軍は高原の避暑地として知られる場所に司令部を置いていたケースが結構多いように思われる。
05.07.2025 13:23 — 👍 2 🔁 0 💬 0 📌 0
西部ニューギニアのサルミに進出した第36師団は、その主力が昭和18年11月23日に中支を出港、27日高雄入港、29日出港。しかしその後、船団の行方は皆目不明となり、船団の空中護衛の責任を有する第14軍は深く心配する事態となった。
しかし12月4日、船団は突如マニラに入港。同師団は「敵側は暗号を解読していること明瞭」として指定の航路を採らず、しかも無線を封止して航行してきたのだという。第14軍は「野蛮な師団だ」と憤慨したが、結局、師団は無傷でニューギニアに到着している。(戦史叢書『豪北方面陸軍作戦』p233-234)
05.07.2025 12:00 — 👍 4 🔁 0 💬 0 📌 0
次に困ったのは杭材である。最初は橋に近い所の木材を伐って来ることが出来るが、漸次遠い所まで取りに行かねばならぬ。折角丹精して完成した橋も僅か四、五日で又流される。訓練ならいざ知らず、自動車を通すのが目的だから折角作った橋を利用することが出来ねば徒労するのみだ。(中略)
あの人跡稀な地において、局部的なものならいざしらず、長遠に亘って車輛道を構築するということは労功相償わぬのは自明の理である。豪州領となってから、勿論時代は違っているが、島内交通の主体を飛行機に採ったのは策を得たものだと思う」
(第48野戦道路隊第2中隊長・島崎大尉。p42-43)
04.07.2025 23:26 — 👍 2 🔁 0 💬 0 📌 0
軍は工兵隊に対し五回程、橋の架換えをさせたことがあるが、六回目に架換えを中止してしまった。自動車がまだ運行し得る時代であったので、何とかして自動車を運行させて食糧の輸送を豊富にしたいと考えたのであるが、第一回の流失に際し勿論架換えを命じられた。第二、第三回然り。
一週間位を要して出来上ると又流失、その都度最も困難とするのは連結用の金具である。これの補充にはほとほと困ったのである。内地からの補充があれば別であるが、内地からの釘類やボルト類の補充は滅多に得られない。連結用の金具がなければ橋は出来ぬ。
04.07.2025 23:26 — 👍 2 🔁 0 💬 1 📌 0
東部ニューギニア戦線で戦った第48野戦道路隊の部隊史的な本である『東部ニューギニア 野戦道路隊の追憶』より、ニューギニアの道路建設事情について。
なお、同隊は昭和18年4月にハンサに上陸。マダン~ハンサ間で道路建設に従事した後、セピック河の大湿地帯を転進し、昭和20年5月以降は歩兵として豪軍と交戦。同隊将兵338名のうち生還者は22名、生還率7%。
「ニューギニア作戦に最も必要なものは輸送、道路の確保であった。我々野戦道路隊が数隊、満州から転進したのもそのためである。然し、ニューギニアの道路は、一度スコールに遭うと道路も橋も一たまりもなく埋められ流されてしまうのである。(中略)
04.07.2025 23:25 — 👍 5 🔁 1 💬 1 📌 0