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その種のものは、往々にしてマジョリティの想像的逆転ですよ……ということは言う必要があるんだけれども。
それを言うためには、抗議や取り下げの依頼が、きちんと筋が通っていて、圧力行動の色彩が余りにも強くなりすぎないことが大事かと思っている。
@redclay.bsky.social
のんびりとXを離れ、日記みたいな感じでつかいます。 たまにしか更新しないかも……。 民族とかの話をしてることもあり。
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その種のものは、往々にしてマジョリティの想像的逆転ですよ……ということは言う必要があるんだけれども。
それを言うためには、抗議や取り下げの依頼が、きちんと筋が通っていて、圧力行動の色彩が余りにも強くなりすぎないことが大事かと思っている。
ただ、「怒りに駆動された抗議行動やキャンセルがどこまで広がるか分からない」という恐怖にかられたときこそ、マジョリティは最も残酷になる、というのは三・一独立運動の無残な挫折を歴史として抱え込まざるを得ない在日には、よく分かってる話ではある。
17.06.2025 12:10 — 👍 0 🔁 0 💬 0 📌 1bsky.app/profile/redc...
こうした具合に、一定の「手心」を加えるということ、それを「やらざるを得ない」という立場の弱さ、これを理解しているヘイターにとってはかえって「つけ込みどころ」だし、そこまで悪質な人間だったらもう裁判なり抗議活動なり、どんどんやっちゃってよい気はするけども。
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この辺の「抗議した後のことを考えよう」という類の議論というのは、陋劣な差別や暴力や暴言を見ればみるほど、怒りが湧いてきて止まらなくなり、かえって、そうした感情を矮小化しているように見えるのかもしれないが。
「嫌いな人間を全て、社会的に排除して回るということは、そもそもどう頑張っても現実的な話ではないのだ」というところには立ち返るしかない。なんぴとも批判を受けたからといって消えはしない。
場合によっては怒りを貯め込んだ形で生き延びる。
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もし、集団での打撃的な批判というルートを経ずして、問題が解決するなら「マイノリティにとってそれに越したことはないのである……」ということは、反ヘイト運動を頑張れば頑張るほど、皮肉にも忘れられていくのかもしれず。
何しろ、在日もそうだけど圧倒的少数であって。圧倒的多数の日本人と関わらずにコミュニティを維持することはできないし、敵対性だけを表出してしまうと、今度は、差別を受けない形で理解を得たり、社会へ再統合される契機がなくなる。
先ほど引用した遠藤氏の『ヘイトに傾いた人には恥をかかせないほうがよいのかもしれない』という記事は、今回の杉田・雨宮の意見と近しいところもあると思ってみている。TERFが暴れ出して、あの時点でもう4年経ってて、今年で7年目だけれど。
17.06.2025 12:03 — 👍 0 🔁 0 💬 0 📌 0bsky.app/profile/redc...
この意識が昂じてしまい、アジア各国との関係性を、資源をのぞいて深めることをなるべく忌避し、欧米ばかり見るようになったのが戦後日本なのでは……?という仮説もある。
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だから「忘れてほしい」「できたらあの戦争と自分達を直ぐ結び付けるのはやめてほしい」と日本人が各国の人に願ったところで、決して忘れてはくれない。
ただし、そのことは、だから日本人を罰せよとか、軍国主義者だ、というような怒りとすぐに等号に結ばれるわけでもないのだけれど。
この辺の心理は、かえって生粋の日本人には口に出しづらかろうけれども、ずうっと横たわってる心情なのではないか。
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じっさいには、今日び、そこまでアイデンティティポリティクス全開で迫ってくるような人は多くはないのだけれども。他方で、エスニシティにまつわる教育を国史として受けた場合、過去の戦争や植民地主義に基づく侵略への怒りは、よりイデオロギーとして純化されて人々のあいだに根付く。
もちろん我々が自分達の民族誌をあさるのもなかなか辛い作業にはなる。
だから、在日であってすら歴史を知りたくないという子はいつの時代もいたが。
そういう歴史を辿ることが、べつに加害側のエスニシティに属しているからといって楽になるものではない、どころかーもしかすると、アジア各国どこに行っても、謝罪しなければならない惨禍と、怒れる人々の影を見てしまうような、そういう心理があるんじゃないかと思って見ている。
endomameta.hatenablog.com/entry/2022june
>出典を忘れてしまったが(知っている人いたらコメントください)、SNSで知らない人から自分の意見を否定されると、かえって人はムキになり、自分が間違っていないことを証明してくれるWebページを読む時間がますます長くなるという調査がある。
>自分の知っている人から言われるならまだしも、知らない人から強い口調で何かをいわれて改心する人は少ない
在日でもこれと全く同じ趣旨のことを言っていた人物がいたっけ……。
endomameta.hatenablog.com/entry/2022june
そういえば、3年前のこれも思い出したり……。
> 自分をバカにしてくる人の話に耳を傾けようとする人はいない。
> バカだと思われているのだろう、と感じた瞬間に怒りを覚えるし「自分が間違っていないことを証明したい」「恥をかかせた相手に復讐したい」と思うのがおおよそのパターンだろう。これはもちろん10代に限った話ではなくて、大人でも同じだ
これは大変よくある話ではある。
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このあたりだけは杉田・雨宮の言に実は少なからず「わかる」となった箇所だったりした。
まあ、一方で前に書いた通りー相手に理解してもらうのはあまりにも大変だろうなというのも予想はできてしまうし。
これはこれで、当事者が悪気なくマイクロアグレッションを喰らいまくることから当人を救いづらいアプローチだろうという気もするけど。
むしろ、差別をやった相手が滅ぼされて、どこでも真っ当に仕事ができなくなるようなことになってしまったら、私は差別を差別だと指摘することを控えてしまうかもしれないし、今以上に、差別を指摘した当事者が攻撃されていく風潮にもなりかねないんですよね。
「これほど重たい結果になるってわかってて引き金を引きやがって」って、倒錯した被害者感情を募らせる人が、凶行に出ることさえあるだろうな、と。
> そこまでになってしまうと、じつは民族差別を受けやすい当事者であっても、逆に自分に何かを言った相手を庇ってやりたくもなる。
>差別を差別と認識し、改めて再出発できる余地を
このことは、ここで帰化したけど、まあ生まれた時は韓国籍だった在日コリアンの1人として言っておきたい。
差別をした人を社会的に葬りたいのではない。我々に少しばかり、人間的な感情でもって共生しうる共感と配慮がほしい、というだけなのであって。
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そうなってしまうと、ある場合にある人は罰せられる、ある場合にある人はまるで罰せられない、というムラもできたりして、「ふざけるな」という感情を覚える人がいたとしても、あながちその意識は間違いでもない、というような状況に陥ってしまったりもしがちなのだ。
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現行の反差別運動は、この「365日」のうち、たった1日差別的なことを言った途端に、来世まで人を叩きそうな怖さはあったりはして。
そこまでになってしまうと、じつは民族差別を受けやすい当事者であっても、逆に自分に何かを言った相手を庇ってやりたくもなる。
差別を差別と認識し、改めて再出発できる余地までなくしてしまえば、反差別は社会感情で正当化された私刑、公開処刑宣言に過ぎなくなる。
それは、一定の罪のあがないを経れば、社会復帰ができる刑法上の罪よりももっとひどいことになってしまうかもしれないのだけれども、これを抑制するルールがなにもない。
問題をその水位で固定しないことが大事な気がしている。つまり、局面だけを切り取ると「うるさいな、そこまで考えられないよ」ってなってしまったりすることがあるのは、人間、仕方ないこともあって、努力の限界ということもあるだろうな、と認めつつー。
他方で、それを正当化して差別を固着させないことが大事なのだよね。365日のうち1日でも自分が「見たくない」と思った他のマイノリティが、どういう制度的な差異や排除を蒙っているのか、を共感的に見てくれる日があってもおかしくないようなーそんな隙間をつくること。
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これはアメリカの反差別や啓蒙の運動がどう失敗して、ああいう極端な差別が横行する政権が立ち上がったのか?ということも、参照先としなければならないのかもしれないがー。
「啓蒙的な」言説が、あれやこれや「新しい社会問題」というテイで触れて回られると、それが「知的資本のセールス」にしか見えなくなる人というのもいるんだろうなあ、という気がしている。
そういうものを延々と「売りつけられている」という感覚に陥り、まるである種のうるさいネット広告を蹴飛ばすのと同じノリデ、深刻な差別問題を流しちゃう、という光景もありふれてるし。
インターセクショナリティに目覚めた人たちの議論が、この種の問題をどう扱うのか。実はあんまり期待していない……(苦笑)。
主観的な「つらさ」の言い立て合い、マイノリティ性を資源と見做しての殴り合いという、たいへん見苦しいものがそこらじゅうにあふれるんじゃないかという気がしてならない。
差別の図式を理路で解説してみせたところで、恐らくは共感自体がすり減ってるので、他者を想像しようとすらせず、何だったら自分と同一の属性だけで固まった方がラクだと、こうなる方が自然だからね。
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逆に、民族性を巡る重大な選択だったりするから、これは当の在日からも激烈な批判が局所的に出てくることもあった。
曰く、「民族的に同化をすすめ、我々の絶滅を願っている日本人への許しがたい迎合だ」と。そこまでの糾弾が湧いてくることも、稀にあったりして。(流石に稀だとはいえ)
いずれにせよ、起きてるシンプルな排除を「排除である」と社会的に認識してもらうのが、どれほど難しかったか、私はまだそれを覚えている最後の方の世代なのかもしれない。いい加減、老人になってきてるし。
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在日への差別をやめろって訴えの中には、就職だけではなくて、結婚差別もやめろ、というのもずっとあった(というのを、忘れてるか知らない左派やリベラルも増えた)。
そのあたりの問題の指摘を横から流しちゃう人もいた。
婚姻における差別とは「家族というメンバーシップに他のエスニシティや国籍をもった人間が入ることを拒む」という、典型事案なのだけど。
これを「婚姻の自由」の文脈で差別ではない、とするリベラルもいるし。
「婚姻などという、異性愛者にだけ許された特権、性別不平等を再生産する制度を肯定するのは差別だ」と言ってくるフェミニストもいた。
差別の定義とか、そういう話をしてもいいけれど、圧倒的な無力感をこういう時に感じてしまうのだ。エスニシティへの差別ではあれほど理解がある人たちが、なぜ障害者の話になると、とたんに共感性もなにもかもが薄れてしまうのかと。
このあたりは、ただロジカルに話をするだけでは、なにか取り落とされるものがあって、そこをしっかり芯でとらえて何かを言えた感じがなかなかしない。
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むしろこれは「知恵遅れ」もそうなんだけれども、リベラルや左派ですら、使ってしまいがちなもので。そこに「AさんもBさんも、きちがいや知恵遅れって言葉は使ったことがあるのだからワシらには関係あらへん」みたいな、拙劣な擁護が湧いて出た日には、もはや開いた口がふさがらない。
こういう「マイノリティからマイノリティへの攻撃」の頻発事例ということだと障害への攻撃もそうで。これは、在日ですら制度的包摂から障害者を外せって本当に言ってしまうような人も出てくるのだから、よほどに手に負えないものだ。
「きちがい」という言葉を禁じるのは言葉狩りだ、というようなことを言う人も多いけれど、個人的には余りその種のご意見に説得力を感じたことはない。
ではなぜ、彼ら彼女らがそういう意識になってしまうのか、自責すべきことを他責にすり替えてしまうのか?というと、まさにアイデンティティ・ポリティクスの濫用であり、主観的「つらさ」に依拠して差別の有無を判断しちゃうという限界も、属性主義の欠点もモロに出てるんですよね。
ついでに言えばああいうときに「在日」という主語を持ち出して、「LGBTの話を言い立てるのは日本人による在日への差別だ」と語ってしまうおろか者が見落としているのは、その「在日」のなかにも当たり前にLGBT当事者がいる、ということだったりする。
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私は、こういう現象をかつて、"同胞"のキリスト者たちによるLGBTIQへの差別問題が立ち上がった際に観測したのだけれど。
たとえば、在日であるからという理由で、日本人のLGBTIQへ差別をしてもいいのか、というと、そうではないだろうと思うのだ。そして、その場合は「民族性」は、性同一性や性的指向といった問題での差別を正当化する根拠ともならないだろう。
だが、成育歴で差別におびえながら暮らしてきた在日コリアンでも、自分たちのエスニシティ以外への差別が起きた時に、むしろ自身が差別を受けてきた過去を盾に使って保身に走るのは珍しいことじゃない。
そういうのが持ち込まれると、マイノリティ自身が差別をした際、
「自分はマイノリティなのだから、誰も差別などしようがなく問題はない」
「むしろマジョリティから差別を受けて、ずうっとひどい思いをかみしめて生きてきて、そしてたぶん死ぬまでそうだ」
「なのに"ちょっと"間違えただけで差別者だというのはずるい。スケープゴートにされた」
というような激烈な不満をいだきやすくなる。
恐らくこの定式化を意識する前よりも格段にその不満は増幅されていると思うし、自己の言動を振り返ることから遠ざかるだろう。
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自己嫌悪は他者嫌悪、同属嫌悪を呼びやすく、それがマイノリティからマイノリティへの攻撃を醸成する一因だったりするのではないか、ということを体験的に思っているのですが。
ともあれ、かの権力勾配の定式化の問題の源泉は、「差別する人」「される人」の属性変数に、何が代入されているのかだけに注目してしまう「属性主義」なのだと思う。
障害者差別を熱心にしているアカウントが実は障害者だった、とか、在日への排撃的な言辞を繰り返す「日本人」が実は「在日・帰化組」だった、とかそういうことも個別的にあるんだけれども。
思うに、差別の発動形式もまた非常に多様だったりして、特に差別をする主体が誰なのかというところは、柔軟に見て言った方が良いのだと思う。
だが、「差別とは権力勾配が上のものが下のものにするもの」という定式は、実はこの種の「マイノリティ同志の差別」というダークサイドの存在を逆に隠蔽してしまっている、という大欠陥がある。