終末期ケア専門士、29日14時が試験。誤答を書き出してまとめていたけど時間が足りず、当日まで弱点範囲のテキストを読むことにする。結構確実な知識が問われるっぽい。受かる気はしないが楽しみではある。
27.10.2025 03:21 — 👍 3 🔁 0 💬 0 📌 0@careworker.bsky.social
哲学に関心のある介護職。 介護福祉士、介護支援専門員、社会福祉士。 Discordにて読書会「ケアとか倫理とか哲学とか」主宰/9月14日(日)22時~ 第10回フランクル読書会/27日(土)22時~ 第31回レヴィナス読書会 高卒。哲学・倫理学の専門教育は受けていません。
終末期ケア専門士、29日14時が試験。誤答を書き出してまとめていたけど時間が足りず、当日まで弱点範囲のテキストを読むことにする。結構確実な知識が問われるっぽい。受かる気はしないが楽しみではある。
27.10.2025 03:21 — 👍 3 🔁 0 💬 0 📌 0【テレビ】10/26(日)Eテレ 05時
こころの時代選 ヴィクトール・フランクル (1)「日曜生まれの子」その光と影
「どんなに苦しい状況に陥っても、生きることには意味がある」。ナチス・ドイツの強制収容所を生き延びた精神科医ヴィクトール・フランクルの思想と人生にシリーズで迫る。
www.nhk.jp/p/ts/X83KJR6...
NHK Eテレ「こころの時代 ヴィクトール・フランクルそれでも人生には意味がある」10月から3月までアンコール放送されます。ぜひご覧下さい!第1回は10/26(日)午前5:00~です。
www.nhk.jp/g/ts/X83KJR6...
フランクルを読んでいて、ふとジャンケレヴィッチ『死』が読みたくなった。しかしなかなかインパクトがある。
26.10.2025 14:39 — 👍 5 🔁 0 💬 0 📌 0終末期ケア専門士、29日が試験だけど、誤答の強化が圧倒的に不十分。やるしかないし、やるだけやる。すでに色々な知識が得られているので得たものは十分、失うものはなし。
26.10.2025 00:58 — 👍 1 🔁 0 💬 0 📌 0「人間」についての覚書
病いを患っても、死を前にしても、「人間」で在ることは捨てられはしない。それは最後まで残された事実である。それは同時に「自由ー責任」を課された存在として存在し続けるということでもあるだろう。「人間」である事を考える時、人は「原事実」とでもいうべき事に立ち返る。
芸術についての覚書
どんなに優れた芸術や思想であっても、それが誰か、何か、どこかに向けられていなかったなら、そこにいのちは宿らないのではなかろうか。おそらく、優れた芸術や思想は誰か、何か、どこかに向かっていて、それ自身のうちに完結しない、未完の領域が残されているのではなかろうか。
アルコールではなく運動で発散しなければ、身体が耐えられなくなる。長期戦だ。考えていかなければ。
22.10.2025 18:06 — 👍 2 🔁 0 💬 0 📌 0終末期ケアについての覚書
他者の胸の痛みを自らの痛みのように感じられるのは、自らも胸の痛みに苦しみもがいたことがあるからだろう。ケアには、ときにそのような深みが求められるのではないか。客観的で冷静な理解者としてではなく、暗く、孤独な道の随伴者として。
孤独・自由・責任についての覚書
誰も応えてくれない、誰からも見返りは得られない、そういう領域に差し掛かってきて、初めて真剣に自分がどう在るかを責任を持って決断し得る。それは根源的な自由でもある。
実存哲学がハイデガーから吸収したものの一端はそういうものだろう。
フランクルは人間を「意識存在」「責任存在」「決断存在」と定義し、滝沢克己は「根源的自由」「原事実」と呼んでいるのだろう。
その領域に踏み込めることは喜ばしくもある。自分ではなかなか降りていけない場所であるから。
理想に鍛えられていない人が弱音を吐くのは仕方のないことかもしれない。その人にはエネルギーがない。手応えがない。だから人の足を引っ張ることで自己と孤独から逃げようとする。エネルギーに火がついてしまうのが恐ろしくもあるのだろう。所有したものの上にあぐらをかいていたいのだ。
こういうことはニーチェが言っていた。
自分だけに語りかけてくる理想、これは固有のものだ。
21.10.2025 14:58 — 👍 0 🔁 0 💬 0 📌 0いま為すべきことに集中すること、その補助としての瞑想。
21.10.2025 14:56 — 👍 0 🔁 0 💬 0 📌 0今日はフロムも少し読みました。
21.10.2025 14:53 — 👍 1 🔁 0 💬 0 📌 0怒りのへの対応。神を経由して、自らが為すべきことを思い直し、怒りを鎮火する。セルフケアは神に思いを致すこと。
21.10.2025 14:50 — 👍 0 🔁 0 💬 1 📌 0フランクルから脱線して、少し滝沢克己について読んでいた。フランクルやキルケゴール、西田幾多郎とも思想的に近いものがあるのだろう。
21.10.2025 14:41 — 👍 0 🔁 0 💬 0 📌 0やはりしんどいときはフランクル。
21.10.2025 11:13 — 👍 1 🔁 0 💬 0 📌 0しかし理想は重くのしかかりはすれど、「自分ならできる」という自信を鍛えてくれたのもまた理想なのだ。
21.10.2025 11:07 — 👍 1 🔁 0 💬 1 📌 0一旦掘り下げずに意識を別の方向に振り向けよう。落ち着いてから向き合った方が良さそうだ。
21.10.2025 08:13 — 👍 0 🔁 0 💬 0 📌 0休日に会議に出て、メンバーから文句ばかり出て「どいつもこいつも文句ばっかり言いやがって…」と怒りに囚われている。
21.10.2025 07:52 — 👍 0 🔁 0 💬 1 📌 0作者の自由と読者の自由とがお互いに相手を認め合う場、それが読書ということになる。」『文学とは何か』訳者解説 p3
20.10.2025 05:30 — 👍 0 🔁 0 💬 0 📌 0そうするとどうなるか。作者は一人では作品を創造することはできない、作品を創造し完成させるのは読者ということになる。作家がものを書くのはもはや自分のためではありえない。作家だけではない、すべての芸術家も同一の条件をになわされる。 そこで「他人のための、また他人による芸術の他に芸術はありえない」ということになる。
言いかえれば作者は読者を必要とする。とりわけ読者の自由を必要とする。 作品制作とは、作者が発見し開示したものを、客観的な存在にしてくれるように、読者の自由に呼びかけることにほかならない。
「以下、この本の歴史的意義と思われる点についてふれておきたい。そう、『文学とは何か』の独自性とは何なのか。五〇年前に書かれたこの本が今日においてもアクチュアリティを持つとしたら、それはいかなる点においてなのか。
私の考えではその答ははっきりしている。それは、文学の中に〈読者〉という視点を驚くべき形で導入した点にある。それは単に、作者は書くときに読者のことを意識せよ、といったありきたりのことではない。そうではなく、作品=文学的オブジェは、読者がこれを読むときにしか存在しない、しかも作者自身は自分の本を真の意味で読むことはできない、という大胆な主張を出発点とする。
このような極限状況は、歴史の中では希有なことであろう。したがって平時におけるアンガジュマンと責任の考え方はこれとは違って当然であろう。また文学におけるアンガジュマンと政治におけるそれとは次元を異にする。事実サルトルにおけるアンガジュマンの考え方も時代とともに変わっていく。ただその根底には、自分の状況をどのように引き受けるか、自分の全体をどのようにして行為ならびにエクリチュール)の中に投げ入れるか、そしてその行為(ならびにエクリチュール)がどのようにして普遍的なものにつながりうるか、という出発点における問題設定が常に立てられていくはずである。」p15~16『実存主義とは何か』訳者解説
20.10.2025 04:49 — 👍 0 🔁 0 💬 1 📌 0「一九四四年に書いたある文章の中で、サルトルはこう書いていた。
「(地下活動をしていた人びとは)孤独で裸だった。とはいえ、この孤独の最も深いところで、彼らが擁護したのは、他者、すべての他者、すべての抵抗の同志だった。たった一言でも、十人や百人の逮捕を引き起こすには十分だった。まったき孤独のなかでこのまったき責任こそ、われ
われの自由の開示そのものではないか?」 (「沈黙の共和国」 白井健三郎訳)
1時間ほど。
20.10.2025 04:20 — 👍 2 🔁 0 💬 1 📌 0死についての覚書
死とは小さな穴ぼこで、そこいらに散らばっている。その小さな穴ぼこは地下で繋がっていて、あるとき大きな地盤沈下になったりする。そうしたことを薄々イメージしながら、それを振り切るように安定した地盤だと思いこんで地表を歩いている。
いまのところ数息観にはこの鐘の音が良い。
youtu.be/-cmOll6vt6A?...
瞑想についての覚書
外の風の音、鳥の声がクリアに聞こえるようになってくれば、人の話しもクリアに聞こえるようになってくる。そうして聴くことが大事なように思う。
明日はレヴィナス読む。
19.10.2025 14:52 — 👍 1 🔁 0 💬 0 📌 0