1日1ミリ。引き続きB57沿いの風景。平原に放置されたドイツ軍8.8cm PaK 43/3。ヤークトパンターに搭載する砲架をそのままコンクリートの台座に据えただけの簡易トーチカだったようだ。本来はドイツ国境地帯の防衛用にRegelbau677と言われる専用のコンクリート掩体を500基ほど作る予定だったらしいが殆どが完成せず、大半はこのような露座のトーチカとなってしまったようだ。
周囲に何のシールドもなく、砲座の周りには他陣地との連絡と待避用の塹壕を掘っただけのお粗末なもので何とも切ない。
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AFV模型/M4シャーマン戦車 Posfie https://posfie.com/@ikanoboshi https://m4sherman.ari-jigoku.com/index.htm
1日1ミリ。引き続きB57沿いの風景。平原に放置されたドイツ軍8.8cm PaK 43/3。ヤークトパンターに搭載する砲架をそのままコンクリートの台座に据えただけの簡易トーチカだったようだ。本来はドイツ国境地帯の防衛用にRegelbau677と言われる専用のコンクリート掩体を500基ほど作る予定だったらしいが殆どが完成せず、大半はこのような露座のトーチカとなってしまったようだ。
周囲に何のシールドもなく、砲座の周りには他陣地との連絡と待避用の塹壕を掘っただけのお粗末なもので何とも切ない。
1日1ミリ。1945年2月。ドイツ国内、メンヒェングラートバッハ(Mönchengladbach)に向かう街道(現在のアウトバーンB57)の並木が見える。靄の立ち込める平原に展開するアメリカ軍戦車部隊のM36とM8装甲車。M36は足回り、駆動輪のスプロケットが穴あきタイプ、VVSSサスペンションはリターンローラーアームが水平の比較的初期のタイプか。オープントップの砲塔には機銃周りにスリット付きのシールドが追加されている。(すみません M36のこと何もわからん)
30.10.2025 21:14 — 👍 15 🔁 3 💬 1 📌 01日1ミリ。1945年2月。ドイツ国内、アーヘンからメンヒェングラートバッハ(Mönchengladbach)に向かう街道(B57)沿いのガソリンスタンド。 サービスルームの壁にあるSTANDARDとESSOのロゴからドイツアメリカン石油系列(DAPOLIN、Standard Gasolineを経て1938年からESSOブランド)であることがわかる。
スタンドにはアメリカ軍のM3ハーフトラックとジープ。街道を進む戦車隊の先頭はM36B1(M4A3車体)だろう。
道路脇に放置されているのはソ連製52-K 85mm高射砲 M1939。ドイツ軍がロシア戦線で鹵獲して使用していた。
1日1ミリ。1945年2月。連合軍はドイツ国境を超える。
デュレーン近郊で捕獲された「ドイツ軍のM5M1」とIII号突撃砲。
鹵獲したアメリカ軍のM5系戦車を自軍編成に組み込んで使用していたのだろう。自軍の誤射を避けるために車体側面にドイツ軍マークの鉄十字を描き込んでいるが、ノーマルな白縁付きバルケンクロイツではなく縁なしの黒い十字になっている。
道端で放棄されたIII号突撃砲は足回りのトラブルがあって牽引を試みたのか、Cクレビスが荷物ラックに引っ掛けてあったりジャッキが無造作に置かれている。転輪には履帯連結ピンのスペア。機銃弾薬箱など荷物の雑然とした様子がこの車両の最後の状況を想像させる。
1日1ミリ。シチリア、アチリアーレの街で防衛線を張るドイツ軍降下猟兵部隊の7.5cm対戦車砲PAK40。防盾の内側に戦車の絵が貼られている。チャーチル、M3リー/グラント、M4シャーマン。敵の戦車の弱点を色分けしたもので、エッジが少しめくれていることから、ペイントや琺瑯プレートのようなパーマネントのものでなく紙に印刷されたシートだと推測できる。
アフリカ・チュニジアの戦いで得た情報を元にシチリアの防衛隊に周知すべく急ぎ印刷して配布したのだろう。
写真はBundesarchiv Bild 101I-567-1515-29の部分
1日1ミリ。1943年8月。シチリア島カターニアから撤退したドイツ軍がアチレアーレ(Acireale)で防衛ラインを張る。アチリアーレの大聖堂を望む坂道を横切るのはヘルマンゲーリング師団のIII号突撃砲F/8型。
坂道の下にはバリケードが見え、突撃砲は坂の途中の路地に隠れるためバックしているところか。坂道に合わせて揺動幅の大きいトーションバーサスペンションが効いている。こうした場所ではリーフスプリングサスペンションのIV号戦車よりIII号突撃砲の使い勝手が良かったことが伺える。
Bundesarchiv Bild 101I-567-1511-02
戦車の大量生産用に新設されたデトロイト戦車工廠やグランドブランク戦車工廠と、フォードの自動車工場であるハイランドパーク工場では生産能力に大きな差があったためだと思います。フォードのM4A3とM10A1の月間生産数が合計300輌程度なのに対し、同時期のフィッシャー(M4A2とM10)やクライスラー(M4A4)は600輌以上を生産する能力が有りました。
27.10.2025 00:03 — 👍 6 🔁 3 💬 1 📌 0フォードは1943年9月にM4A3及びM10A1の生産から撤退。M10A1は直ちにフィッシャー、M4A3は1944年からフィッシャーとクライスラーに生産が移管され、フォードはエンジンと装甲板の生産を継続しました。
予算局戦争計画課が1943年8月に計上した推定単価によると、フォード製M4A3が64,500ドル、同M10A1が63,400ドルなのに対し、クライスラー製M4A3は39,370ドル、フィッシャー製M4A3は40,500ドル、同M10A1は33,682ドルとなっています。巨額の国費を投じて建設された戦車工廠を擁する2社に対し、フォードは生産コストの面で大きく水を開けられていました。
1943年3月11日、フォード・ハイランドパーク工場で試験走行を行うM10A1。砲塔後部に楔型カウンターウェイトを装備。車体吊り上げリングはパッド無しの鋳造品(フォードはフィッシャーに比べ、パッド付きからパッド無しへの移行時期が早い)。前照灯プラグホルダーは車体前面と平行に設置(フォード製M10A1は生産終了まで平行設置?)。右奥にはM4A3も見えます。
背景に「FORD」の看板を掲げた5本の煙突が立っています。これはかつて工場の電力を自給していた発電所の煙突です。1926年頃に新しいリバー・ルージュ工場から電力供給を受けるようになったために発電所は稼働を終了し、1956年に解体されました。
1日1ミリ。1943年8月5日、シチリア島東部のカタニアに入るイギリス軍の戦車隊。1両目と3両目はシャーマンIII( M4A2)、2両目はM5スチュアートだろうか。シャーマンの履帯はWE210と呼ばれるラバータイプでM3グラントで使用され、シチリア戦線のイギリス軍シャーマンでも使われている。例によってエンジンデッキには後部フェンダーカバーを転用した荷物ラックを装備。
正面にはバロック様式のカターニア大聖堂(Cattedrale di Sant'Agata)、広場に椰子の木、中世以来の細い街路の両側にシチリアバロックの建物が並ぶ。これぞシチリアというべき濃密な空間で映画のワンシーンのようだ。
一日1ミリ。シチリア東部のカタニア近郊だろうか。ドイツ空挺部隊(第一降下猟兵師団)の連絡用車両と思われるFIAT500トポリーノとFIAT508バリラのピックアップトラック。ドアとベッドは木製、FIAT特有のリアランプ、そしてドイツ空軍の登録ナンバープレートの数字の書体がステンシルなのはイタリア軍のプレート用のマスキングシートを借りたのだろう。FIATは1932年の508バリラ(995cc)で成功して1936年に小型のトポリーノ(569cc)を開発する。
通りに立つ電柱は糸杉(サイプレス)の間伐材なのだろうか、比較的通直でシチリア南部の街のものほどではない。こういうところにも地域性が出る。
1日1ミリ。1943年7月13日。シチリア島南東部に上陸したイギリス第8軍がカタリーナへと抜ける街道の途中、丘陵地帯の小さな街ビッラズムンド(Villasmundo)を通過する。
イギリス第4機甲師団のシャーマンIII(M4A2)はM3サスペンション、ワンピースデフカバー、U字型のアンテナブラケット、直視バイザー付きのFTA車体だろうか。ライトカバーにはヘルメットを被せている。
街道の曲がり角なのか、電柱には道標が見られる。シチリア南部では針葉樹が少なく通直な材木が少ないのか電柱はヨレヨレとして、支柱はフランスで使われるような連結金具もなく、かなり素朴な造り。
IWM (NA 4709)
ローマのブラスキ宮に掲げられた「ムッソリーニのファサード」も恐ろしくよく練られたものだ。1934年のイタリア総選挙は事実上、ファシスト党政権の信任投票になるもので、政権の掲げる政策に賛成か反対かだけを投票するものだった。選挙啓発用のポスターとなるべく作られたこのグラフィックは、ムッソリーニの肖像を形どったマスクと”SI”をひたすら連呼するミニマルなデザイン。
”SI”とはイタリア語でYESの意味。
ライマ・ロコモーティブ製M4A1。1942年8月~9月頃の生産車。
同一車輛の別カットからライマ特有の4本脚(3本の細い板を溶接した構造)の後部ライトガードが確認出来ます。他社製シャーマンではM3型VVSSは直視バイザー付き車体に装備されているのが一般的ですが、ライマでは補助ペリスコープ付き車体へ移行後も使用しており、イタリア戦線の車輛でよく見られます。
1日1ミリ。1943年7月。シチリア南部に上陸したアメリカ第7軍が制圧したジェラ(Gela)の街。ウンベルト広場に展開した兵士が狙撃兵を警戒しているのか広場に伏せている。
広場に植えられた木はミモザだろう。細身の葉と春に咲いた花のの後の種子が残っているのが見える。
ジープの手前、広場の角にあるのは、ガソリンの計量器。(”BENZINA"はイタリア語でガソリンを意味する)
イタリアでは1920年代の終わり頃からガソリンスタンドが整備されるようになり、いわゆるサービスステーションが普及する前は街角、広場のコーナーに給油スペースを設けている。
M3A1/M3A2砲はM26A1やM46と共通仕様だったのと、シングルバッフルのマズルブレーキはエバキュエーターと対になっていたからだと思います。
21.10.2025 12:58 — 👍 3 🔁 1 💬 0 📌 01日1ミリ。1943年7月10日、イタリアのシチリア島南部、ジェラ近郊に連合軍が上陸、翌11日にドイツ軍第1降下装甲師団ヘルマン・ゲーリングが第504重戦車大隊のティーガー1初期型 17両を率いて迎撃開始。戦闘初日に5台、3日目に6台を失う。アーテカ(Acate)の街で放棄された車両は海岸に向かう途中で故障、乗員により爆破処分されたもので砲塔のキューポラは吹き飛んでしまっている。
平屋建てが多い田舎町だが歩道と車道にはきれいに石を敷き詰め、窓回りには白い縁取を回して軒は漆喰のコーニスを施す丁寧な造りだ。雨が少ない地域で軒樋はない。道に電柱を立てると邪魔になるのか壁から突き出す方式。
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Polish_Armoured_School_and_HQ,_11th_Armoured_Cavalry_Division_of_King_John_III_Sobieski,_11th_Armoured_Cavalry_Division_of_King_John_III_Sobieski,_(33524797918).jpg
現存するエバキュエーター付きのM36/M36B1を調べたところ、生産時期が判明している個体は、いずれも1944年10月以降に生産されたシリアル番号601以降の車輛でした。つまり、マズルブレーキ対応のM4A1砲架を搭載したとされる車輛です。M36B1にはS/N 601~787が割り当てられていますが、現存する7輌全てがエバキュエーターを装備しています。
以上のことから、M4砲架を搭載していたM36は、大戦後もM4A1砲架に交換されることは無かったことが示唆されます。そのため、主砲にエバキュエーターを装備したM36は、M4A1砲架を搭載していた後期生産車に限定されていたのでは無いかと思います。
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Le%C5%A1any_-_vojensk%C3%A9_muzeum,_Tankov%C3%BD_den_2024,_uk%C3%A1zky,_M36_Jackson,_obr03.jpg
写真のM36の90mm砲はマズルブレーキとボア・エバキュエーターを装備していませんが、ガスポートは付いています。現存車輛の砲身はこの仕様が非常に多いです。
『IMAGES OF WAR M36/M36B1』に同仕様の砲身を持つM36の内部写真が掲載されています。フィッシャー製M10A1車体なので、初期に改修された300輌の内の1輌である可能性が高いと思います。主砲はガスポート付きのM3A1又はM3A2ですが、砲架は初期のM4のままで、平衡装置も装備していません。リコイルガードの内側にはカウンターウェイトが取り付けられていますが、これは生産時からのものなのか、後付けされたものなのかは不明です。
1日1ミリ。LIFE誌の一連のカラーフィルムから。チュニジアのエルジェムのコロセウムかと思いきや、アーチの装飾が少し違っている。縁のボーダーなど装飾がより繊細、オーダー柱などギリシャモチーフが強調されている。これはチュニジア国境を超えたリビア側のサブラタ遺跡と思われる。古代フェニキア人が築いた都市でローマ属州時代(3世紀)の円形劇場の遺構。
4travel.jp/travelogue/1...
米軍のジープはウィリスMBではなくFORD GPW。「前席の転落防止ベルトをかける「輪」がインパネに付いていますが、輪が横向きがMB、上向きがGPW」と教えてもらった識別ポイントが役にたちます。
1日1ミリ。1943年4月のチュニジア。カルタゴの遺跡の近くの海辺の街、ラ・マルサの街。後ろ姿の車はおそらく1938 シボレー Master Deluxe Sedan。
最初にこの写真を見た時にはドイツ製のオペル・オリンピアOL38かと思い、熱帯塗装に見立てたカラリングは「バターの塊 "La motte de beurre"」と後に呼ばれるフランス製の塗料を使ったものでは?と推察もしたのだが、よく見ればパネルラインの違いからシボレーだと判明。
アメリカ軍のスタッフカーとも考えられるが見慣れたサンドカラー(No.3 Sand/FS30277)とは少し違う色調。
改良型のM4A1砲架。シリアル番号601以降の車輛に搭載されたと云われています。俯仰機構と砲架トラベルロックを強化し、バネ式平衡装置を設置。足場は撤去。但し、1944年末までの生産車にはマズルブレーキが未装備だったため、平衡装置は砲架と接続されていない状態でした(1枚目)。この時期の生産車は先端の径が小さくなったネジ山保護リング付きの砲身を装備しているようです。
リコイルガードの内側にはカウンターウェイトが追加され、ロッドが無くなっています。砲塔側面上端部にはパッドを追加。
1945年生産のM36/M36B2にはようやくマズルブレーキが導入され、平衡装置が砲架に接続されました(2枚目)。
T71/M36のM4砲架。シリアル番号1~600の車輛に搭載されたと云われています。砲架左側のバネ式平衡装置が未装備で、消火器の下に足場が設置されています。左右のリコイルガードの上部にはクランク型のロッドが溶接されています。主砲は生産当初はストレート型砲身でしたが、フィッシャーでの生産途中からマズルブレーキ取付用のネジ山が切られ、先端まで同径のネジ山保護リングが装着されたようです。
タミヤのM36(3枚目)はM4砲架を再現しています(足場は無し)。
1日1ミリ。LIFE誌取材のカラーフィルムから。1943年2月28日の戦闘で放棄されたドイツ軍車両。路上にIV号戦車G型”852" 、中央はIII号戦車N型”832"、そして炎上中のティーガーは501重戦車大隊所属の車両。手前の米軍工兵が起爆装置を持ってるのでドイツ軍に回収されないように爆破したところだろう。カメラはレンズの焦点を奥に合わせて、兵士たちの前ピン気味な描写に臨場感が生まれて、彼らの足のポジションにも動きがある。いい写真だ。
チュニジアはリビア砂漠のピンク色の砂の世界とは違ってオリーブグリーンの草原の風景が広がる。
1945年5月、日本侵攻に備えてロサンゼルスで出荷を待つM36B2。
エンジンデッキ上に装備品を収納した木箱が積まれているため、M36との判別は難しいですが、右側手前から2番目の個体のボス基部が四角形(M10極初期生産車の仕様)であることから、M36B2と判断しました。M10A1のボス基部は生産当初から円形だったようです。車体右側面最後部下側のボスが削除されています。上側は見えませんが、撮影日からALCO製M36B2と推察します。
足回りはE9仕様。履帯は恐らくT74。T54E1に似ていますが、裏面がラバー製で、基本的に戦後から使用されたタイプのようです。大戦中の写真は極めて珍しいです。
1日1ミリ。Bundesarchiv_Bild 101I-420-2033-24
1943年3月、チュニジアのエル・ジェム(El Jem)に残るローマ属州時代の円形闘技場(3世紀頃)の遺跡。ローマ時代の闘技場の遺跡は各地に残るが、エル・ジェムのものは収容人員35,000人とローマのコロセウム(45,000人)に次ぐ大きさ。オリーブの栽培と交易で栄えたという。
PKカメラマンがフレームの端に引っ掛けて撮ったティーガーIは第504重戦車大隊の724号車。砲身には6本のキルマーク、マズルブレーキのカバーは砲身の形にぴったぴたの縫製。フェルト地なのだろうか。
前記の冊子はALCOが大戦後間もない時期に発行したもののようです。面白いのはM36のことを「スラッガー」と呼んでいることです。この愛称はアバディーンでも使用されています。
当時のALCOの状況も窺えます。同社のスケネクタディ工場は1943年12月にM4コンポジットの生産を終了したため、本業の機関車生産への転換を進めていたところへ急遽、M36への改修作業(413輌)を要請されたということのようです。それを1944年末に完了すると、機関車生産に再転換。さらに1945年5月から大戦終結までの間にM36B2への改修作業(672輌)を行うという目まぐるしい動きをしています。
実際、ALCOは「スラッガー」の生産が完了し、スペースが空くとすぐに機関車生産に再転換した。そして1944年末にはM36のさらに大規模な改修計画を請け負うこととなる——だがそれはまた別の話である。
『American Locomotive Went to War』より
usautoindustryworldwartwo.com/alco.htm
米英の戦車対ナチスのタイガー戦車の戦いが始まった。「スラッガー」が必要だった!
ALCOは「スラッガー」をクリスマス・イブまでに生産するだけでなく、大規模な機関車計画を完遂するという任務も請け負った。
1944年12月は連合軍にとって長く記憶に残る月となった。それはフォン・ルントシュテットが攻勢を仕掛けた、ドイツ軍の大反撃の月だった。それは天下分け目の「バルジ」の月だった。そしてALCOが最後の「スラッガー」を納品した月でもあった―—期日通りに。
写真はALCO製M36 1944年12月生産車
「ナチスのタイガー戦車を手懐ける猛獣使い」
欧州でD-デイが過ぎた頃、ALCOは戦時下で最も困難な任務の一つを請け負った―—数百輌のM10A1戦車駆逐車を、米軍最強のタンクキラーへと大急ぎで改修する作業である。
この任務、すなわちM36戦車駆逐車(戦車兵達は「スラッガー」と呼んだ)の生産は1944年半ばに割り込んできた。当時、ALCOは政府の要請を受け、既に設備を転換し、戦時下で急務だった機関車の生産に大きく乗り出していた。連合軍は既にフランス沿岸に上陸していた。サン=ロー突破は目前に迫っていた。ジークフリート線への進撃が迫っていた。